EP3 焦燥
いつかの教室。まだ背丈も小さく、机も大きく見えた頃のこと。昼休みのざわざわとした喧騒の中で、穂乃果の泣き声が聞こえた。
「…ちがう!私、そんなつもりじゃないのに!」
クラスの隅。
そこには涙目で肩を震わせる穂乃果と、彼女を取り囲む数人の少年少女の姿があった。
「だってさ、セイセキいいからってエラそうにしてるよね?先生にあんただけホめられてばっか」
「ジマンしてるって分かんないの?」
「お前だけマンテンとか、どうせ先生のおきにいりなだけじゃん」
幼い子供たち故の無神経な言葉が、刃物のように穂乃果の心を刺していた。穂乃果は涙を拭いながら必死に否定しようとしていたが、声が震えてうまく言葉にならない。
「ち、ちが……、わ、わたし、ただ……ただ……!」
「ただ、なに?また自分だけ先生にほめられたいんだろ?」
男子のひとりがからかうように笑うと、穂乃果は堪えきれずに俯いた。
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。気がつけば、彼がその輪の中に飛び込んでいた。
「やめろよ!」
声が思った以上に大きく響いた。教室が一瞬静まり返る。彼の視線は男子たちを鋭く睨みつけていた。
「かってなこと言うなよ!オマエらがバカだから、そうみえるだけだろうが!」
男子たちは一瞬たじろいだものの、すぐに肩をすくめて反論する。
「なんだよ、お前がかばうとかウケるんだけど。」
「そうそう、まさかお前、穂乃果のこと好きなんじゃねーの?」
その言葉に、彼は少しだけ顔を赤くしたが、気にせずに言い返した。
「カンケーないだろ!オマエらがバカなこと言ってるからだ!」
男子たちはしばらく顔を見合わせていたが、「つまんねー」と言いながらやがて散っていった。それに女子も明らかに不機嫌な顔で去っていく。
教室には、彼と穂乃果だけが残った。
「…ごめんね、佐藤くん。」
穂乃果が涙声で謝る。彼は首を振った。
「別にいいよ。あいつらがバカなんだよ。」
そう言いながら、なぜか心臓がドキドキしていた。泣いている顔を見られるのが恥ずかしくて、顔を俯ける。でも、これは彼に言わなければならない。
「でも、ありがとう。」
穂乃果が微笑む。穂乃果の胸の中にふわりと暖かいものが広がっていた。他に何か言おうとしたが、言葉が出てこない。ただ彼のその微笑みが、自分の中の大切な場所に深く刻まれたのを感じた。
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家に帰ると、リビングには父さんが座っていた。いつもは仕事で夜遅くまで帰ってこないが、例の大会のせいで仕事が休みになっているらしい。
母さんは……いない。母さんはオレが物心がつかないうちに亡くなった。そして父さんがオレを男手一つで育ててくれたのだ。
そんな父さんが、もし死刑になったら───なんて、考えるとゾッとする。いや、人の心配をしている場合ではないかもしれないが。
父さんはいつもと変わらない顔で新聞を読んでいた。
その姿を見て、なんだか少しだけ安心した気がした。
この異常な状況の中で、家だけは変わらない空間のように思えたからだ。
「おかえり、悠人。どうだった、今日は?」
父さんは新聞をたたみながら、いつも通りの穏やかな声で聞いてくる。
「いや、まあ…普通っていうか、まだ始まったばっかりだから、別に大したことないよ。」
適当な返事をするが、内心は少し違った。じゃんけんで2連続で負けたという事実が、妙に胸に引っかかっていた。
父さんはそんな悠人の様子をじっと見つめて、ふと笑みを浮かべた。
「悠人。じゃんけんで勝とうとして力むなよ。意外とこういうのは流れだ。肩の力抜け。」
「…流れって言われても…最後まで負けたら死刑なんだぞ。」
悠人は思わず反論するが、父さんは軽く首を振った。
「それでも焦ったら負ける。お前、昔から感情的になりすぎる癖があるんだよ。」
その言葉に、悠人は少しだけムッとした。
けれど、何も言い返せなかった。
自分でも、最近の自分がどこか浮き足立っているように感じていたからだ。
そんな会話を済ませ夕食を食べたあと、就寝し次の日のジャンケンが始まった。
今日は穂乃果とは会場が違うらしい。
一人でじゃんけん会場の公民館に向かった。部屋の中は重たい空気が漂っていて、みんな緊張した面持ちで順番を待っている。
負けた人間は必然的に顔に陰りが出ているし、勝った者はどこか安堵したような表情をしている。
自分の順番が来ると、悠人は静かにじゃんけん台に立った。
目の前には対戦相手の中年男性がいる。無表情で淡々としていて、彼が何を考えているのか分からなかった。
「じゃんけん……ぽん!」
悠人は迷いながらも「パー」を出した。しかし、相手は「チョキ」だった。
また負けた。
「くっ……」
顔には出さなかったが、内心は動揺していた。
これで4回目の敗北だ。
冷や汗が背中を伝う。
会場を出ると、そこにはオレのクラスメイトの崇が待っていてくれた。
偶然コイツもジャンケンで負け続けていた上に会場が同じだったのだ。
「悠人、どうだった?」
「…負けた。」
短く答えると、崇は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに笑った。
「大丈夫だよ、まだまだあんじゃん。」
「そう…だよな。」
そう言いながらも、悠人の心は晴れなかった。確率の上では、絶対にどこかで勝てるはずだ。
…それなのに、この嫌な予感はなんだろう。 それに、どこか他人事のような崇が気になった。
「…崇は?勝ったの?」
「よゆーで勝ったわ。ま、フツーにジャンケンで負け続ける方がムズカシイけどな」
確かに…と思いつつ、もしかして負けてるのはオレだけなのか?と焦燥感に見舞われる。穂乃果も恐らくもつ勝っているだろうし…
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翌日も同じようにじゃんけんが行われた。午前と午後の二回戦。
悠人は……どちらも負けた。
「あれ、ちょっとヤバくないか……?」
頭の中で焦りが渦巻く。
こんなはずじゃなかった。たかがじゃんけんだ。運さえ良ければ誰でも勝てる。
そう思っていたのに、現実は自分を嘲笑うかのように、負け続ける結果しか見せてこない。
3日目も4日目も負け続けた。
「なんでだよ!どうして勝てないんだ!」
家に帰ると、自分の部屋で枕を叩きつけていた。イライラが抑えきれない。焦りが体中を蝕んでいく。このまま負け続けたら、最後には───。
いや、考えるな。大丈夫だ。まだ時間はある。勝てる。まだ勝てる。当たり前だ。だって、負け続けるなんて、本当にありえないだろ。
そう言い聞かせるが、心のどこかで「本当に…勝てるのか?」という疑念が頭をもたげる。
5日目も、また負けた。
「やべえやべえやべえやべえ……」
額から汗が滴り落ちる。会場の外にはもう声をかけてくるものはいない。
それもそうだ。
今日残っているのは10回ジャンケンに負けたヤツらだけなのだから。自分の知り合いが都合よくいるわけない。悠人はただひたすら、自分の手の平を見つめていた。
そして来る6日目も、7日目も───すべて、負けた。
「どうする、どうする、どうする……」
その言葉が頭の中でぐるぐると回り続ける。会場に行く足取りは重く、呼吸は浅くなっていた。
焦れば焦るほど、手の動きが鈍る。考えすぎて出す手が裏目に出る。
あと…何回だ?ネットニュースだと総人口的に全部で27回って書いてたから…18回ある?あと11回ある?いや、そんな数字はもう意味をなさないだろう。
「どうする……どうする……ドウスル……」
悠人の心の中には、焦りと恐怖が、黒い泥のように広がり続けていた。 考えれば考えるほどこの底なし沼から抜け出せない。でも、まだ総回数の半分にも満たない…なんて自分に言い聞かせて平静を保とうとする。いつものジャンケンなら、普通のジャンケンならこんなに負け続けるなんてありえない。
だが、今は緊迫感が悠人を押し潰していた。
冷静になんてなれるわけがない。
眠れない。寝れるわけがない。
いや、きっと大丈夫。そうだろう、そうに決まってる…
未だ悠人はそんな甘い思考から抜け出せなかった。この厳しい現実が認められなかった。いや、認めたくなかっただけなのかもしれない。
まさか自分がこんなことになるなんて───