第1話
「————大嫌い」
それが難病に侵された少女————桜川永愛さくらがわとあの口癖だった。
病室のベッドの上から、彼女は何度だって言うのだ。
「あなたみたいな人が、私は一番嫌い。だから、どっかいって。私に関わらないで」
冷たい瞳は、まるで感情さえも凍りついてしまっているかのよう。
ここまで明確に、他人から拒絶されたのは初めての経験だったかもしれない。
あの頃の俺は困惑しつつも、悲しいと感じたし、寂しいとも思った。
陰険なやつだなと、反発する気持ちだってもちろんあった。
だからこそ俺は何度拒絶されようと、仏頂面でクールな態度を貫く彼女のいる白い部屋を頻繁に訪れてはとびきりの笑顔でこう言うのだ。
「ぜってぇ、離れてやるもんか!」
そうすると永愛は仄かに赤面しながらオドオドと視線を彷徨わせて
「…………勝手にすればいい」
最終的にぷいと顔を背ける。
「どーせ、私は————んだから、私と一緒にいたって————」
「あ、そういや今日昼休みにさー」
消え入るように小さな声をかき消すように、俺は馴れ馴れしく会話を回す。
「……………」
「ん、どうかしたか?」
「……べつに」
「ふーん。でさ、今日は絵描こうぜ、絵」
「……昼休みは?」
「え? なんのこと?」
「…………はぁ」
呆れたようにため息を吐かれてしまう。
話の前後などまったく考えていない間抜けな俺は特に気にもせず話を続けた。
「俺はドラゴン描くから、おまえは……うーん、なんか、キモいモンスターな」
持参していた自由帳にペンを走らせる。
「モンスター?」
「うん。俺のかっけードラゴンに焼き殺されるやつ」
「……わかんないよ」
困ったようにそう言って、永愛はほんの少しだけ表情を緩ませた気がした。
それはどこにでもあるけれど、まるで桜の花びらが散りゆくかのように儚い、無色透明な日常の光景。
だけどきっと、忘れようとしても忘れられない、特別な時間だった。
それから3年の月日が流れて——
「いってらっしゃい」
小学校を卒業して少しだけ大人になった俺は永愛とあを見送るべく病院にいた。
永愛はこれから、ヨーロッパへと飛ぶ。
求めたのは、新薬による最先端の治療。
「いってきます」
それが、永遠になるかもしれない幼馴染との別れだった。
☆
わずかな希望に縋ったあの日から、さらに5年の月日が流れた。
「相変わらずさみぃ〜〜〜〜っ」
電車を降りると、冷たい風が頬を撫でる。もう3月も末だと言うのに、雪でも降りそうな気温だ。
あまりの寒さで、内陸に慣れたカラダがキュッと締まるのを感じた。
「でも、さすがにあと数日の辛抱だろ。たぶん。いやそうだと言ってくれ」
4月になれば春が顔を覗かせて、暖かくなってくることだろう。
白い息を吐きながら、スーツケースを転がして改札を目指す。
俺、楠原理央くすはらりおはこの5年の間、父の仕事の都合で故郷である花詰市はなづみしを離れていた。
しかし最近になってようやく仕事も落ち着いたらしく、父は故郷で新居を建てた。
これからは5年前まで同じく、この花詰市に根を下ろそうというわけだ。
「そこまでは良かったんだけどなぁ」
現在、俺は1人である。家族揃って暮らすはずが、息子のみ孤独の帰還だ。
今思い出しても忌々しい。それはおよそ1週間前の出来事——
『あー、お父さん、海外赴任が決まっちゃったゾ☆』
『お母さんもついて行っちゃいま〜す☆』
両親はまるでハネムーンに行くつもりかのようないい笑顔でイチャラブしながらそう言った。
そうして残されたのは俺と新居。
これから1人と1軒で仲良し家族生活が始まると言うわけである。
「ま、いいけどね」
むしろ新居を好きにしていいなんてラッキー。
綺麗な家に女の子だって連れ込み放題だぜ。彼女とかいないけど。
とにかく、俺は初めての一人暮らしに内心わくわくしていた。
「ん……?」
駅を出ると、すぐに1人の女の子が目についた。人気がないため、いやに目立って見える。
長いマフラーに巻き込むような形でまとめられている、蒼銀色の髪。厚手のコートを着込んでいるものの、短めのスカートからは雪のように白い生足がのぞく。目元はおっとりと垂れていて、優しげだ。淡い桜色の唇は今にもこぼれ落ちそうなほどにプルプルで瑞々しく映る。
見惚れるほどに、可愛らしい。
それはなぜか神秘的で、幻想的で、桜のような儚ささえ感じてしまうほど。一瞬でも目を離したら、消えてしまうんじゃないか。そんな馬鹿らしい考えまで浮かぶ。
あれほどの美少女の存在は、もはや神が創り出した一種の奇跡と言えよう。
いや、あるいは神が遣わした天使なのかもしれない。そうだと言われても、俺は納得してしまうだろう。
それほど、彼女はファンタジーなのだ。
「こんにちは」
女の子がこちらへ一歩近づいて言う。
穏やかで柔らかな印象を受ける声からは、同時に違和感も感じた。
「えーと……こんにちは。久しぶり、で合ってます?」
「む……」
半信半疑ながらも返事をすると、女の子は不服そうに唸った。
「私のこと、忘れたの……?」
明らかに怒っている。
優しそうだった瞳から、鋭さが垣間見えた。
そこでようやく、記憶の中の彼女と目の前の女の子がリンクする。
「あ、すまん。待って。今のナシ! 合ってた! 合ってますね! 疑う余地もないですね!」
「なにそれ」
「いやだって、明日って話だったじゃん!? なんでいるの!?」
「…………イズ」
「え?」
女の子は言いにくそうに赤面しながら銀色の髪を揺らして視線を逸らす。
「なに? 聞こえない」
「だから、……サプライズ。驚かせたかったの」
「あ、あー。なるほど。それで」
「驚かなかった?」
「いや、めっちゃ驚いた」
というより肝が冷えた。
「ふーん。まぁ、いいけど」
俺のコメントで満足したのか、女の子はわずかに笑みを浮かべた。なんとか機嫌は直してもらえたようだ。
改めて、女の子と対面して背筋を軽く伸ばす。
「久しぶり、永愛」
「うん、久しぶりだね理央」
そう、彼女の名前は桜川永愛。
俺の幼馴染であり、生まれついて病を患った少女だった。
「いきなりだけど、カラダ大丈夫か? クッソ寒いし軽く死ぬくね? 俺は死ぬ」
「大丈夫。厚着は得意。寒くないよ。理央が軟弱なだけだと思う」
「さいでっか」
元気なことをアピールするように永愛はその場でくるりと回ってみせる。
それだけでも俺にとっては感慨深い心地がした。なにせ記憶の中の彼女はベッドに寝ているばかりで、立っているところすらほとんど記憶にないのだから。
「うち来るか?」
「行く」
「じゃあ早く行こう。マジ寒い」
そう言ってさっそく歩き出す。歩幅は自然と、永愛に合わせていた。
静かに横を歩く彼女を見ると、やはり変な気分で、心が揺れるのを感じる。
「……………………」
遠い国で行われた永愛の治療は成功した。
開発されたばかりの新薬が、彼女には劇的に効いたのだ。
そして俺が帰ってくるのと時期を合わせて、彼女も帰国するということになって、今に至る。
本当は明日会う予定だったのだが、そんなことはもうどうでもいいだろう。
今、隣にいる彼女は天使でもなんでもない、神様が起こした奇跡の産物でもない、普通の女の子だった。
「ねぇ理央」
「なんだ?」
「理央は言い忘れていることがあると思う」
「はぁ? 言い忘れてること?」
「久しぶりに会った女の子に言うべきこと、あるでしょ?」
首を傾げてこちらを見つめる永愛。
「あー」
思いついた言葉はひとつある。が、口にするのは憚られた。
「恥ずかしがらずに言ってみて?」
「ヤダ」
「言って」
「やーでーす」
「言わないとグーで殴る」
「そんなパワフルなことできるの!?」
「今の私にできないことなんてないと思う」
幼馴染は病院でどんな肉体強化手術を受けたと言うのだろうか。
とにかく、言わなければこの問答は終わりそうにない。
「わかった。言います。言いますよ」
歩みを止めて、深呼吸。
まったく、こんなこと未だ誰にも言ったことがないと言うのに。どんな罰ゲームか。
「えっと、その……可愛くなった……な?」
「昔は可愛くなかったってこと?」
「いやそういうわけじゃないけど!? なんでそう曲解するの!?」
「ふふ。ごめんね。私、捻くれてるから」
そりゃ捻くれてなかったらおかしい人生でしょうよ。洒落になってない。これ以上何も言えないじゃないか。
「もう一度言ってくれる? 今度はちゃんとするから」
「仕方ねーな……」
俺だってかなりの勇気を振り絞ったんだぞ? そう何回も言うにはマジックポイントが足りない。
もう一度、心を整えるように深呼吸した。
「可愛くなったよ、永愛は」
「……うん、ありがとう。可愛いって言ってもらえると、嬉しい。それとね、理央も格好良くなったよ」
「お、おう。そりゃどうも————」
でへへ照れちゃうなぁ。勇気出した甲斐あるわ。
「って言おうと思ってたんだけど、理央はあまり変わってないね」
「はいはいそうですねー!! どうせ俺は今も昔もブサイクですよー!!」
「ブサイクとまでは言ってない。安心する顔だよ」
「安心?」
「うん。ホッとする」
それはやっぱり顔面偏差値が低いからなのでは?と思ったが口を慎むことにした。
ようやく一悶着終わって、再び歩き出す。
「でもおまえさぁ、かわ……その、美人? にはなったけどさぁ、細すぎるぞ」
ふとそんなことを思ったので、もう吹っ切れて攻めてみる。
さっきは殴るなんて言っていたが、コートの隙間の細い手首を見る限り、そんなことをしたら腕が折れてしまいそうだ。
「ちゃんと食ってるのか?」
それともやっぱりまだカラダが……?
「あっちのご飯はあまり口に合わなかったの。だから、お肉はこれから付けるつもり。日本のご飯、すごく楽しみなんだ」
永愛はあっちの病院食でも思い出したのか、「げぇ」っと嫌そうな顔をした。
「ほーん? なるほど? そういうことならこれから、この俺が腕をふるってあげよう」
「え……」
「なんでそんなに嫌そうな顔するの?」
悲しくなっちゃうだろ。
「だって理央、がさつだし料理とかできなそう……」
「ばっかおまえ、うちは両親共働きで、俺がよく晩飯作ってたんだよ。美味いって評判なんだぞ? 実は最近まで高級レストランでシェフをしていた経歴まである」
「後半はウソ」
「……もうちょいノってくれない?」
冗談言ってる俺がバカみたいじゃないか。まぁバカだけど。実際はただのファミレスバイトだし。
「でも、楽しみだな。理央の料理」
「ふん。吠え面かくがいいわ」
「美味しくなかったら鼻ワサビだなんてさすが理央だね。かっこいいー」
「そういうの良くないと思います」
完全に永愛のペースで、俺は振り回されていた。
昔はそんなことなかったのに、今の彼女はきっと俺を弄ることにステータスを振り切っているのだ。
いや、昔に比べて俺が弱くなったのかもしれない。
何も考えずに異性と触れ合えたあの頃とは、何もかもが違うのだから。
「(可愛くなりすぎなんだよ……ちくしょー)」
だけど、理央が笑ってくれるならそれが嬉しかった。
10分ほど歩くと、新居へ辿り着いた。
「ここが理央の家?」
「そ。これが社畜な父さんの努力の結晶」
本人がここにいないのがなんとも悲しいが、あっちはあっちで楽しんでそうだからいいだろう。
「ようこそ、記念すべき最初のお客人」
玄関の鍵を開けると、俺は家の中から永愛を迎える。
「……変なことを言ってもいい?」
「永愛はいつも変だよ」
「怒った」
「ごめんなさい!」
たまに昔のような鋭い目つきになるの、やめませんか。
昔のようなスルースキルが今の俺にはないぜ。
直角に腰を折り曲げて謝り尽くしたのち、どうぞと変な言葉とやらを促す。
すると永愛はゆっくりと、何かを噛み締めるようにしみじみと笑みを浮かべて、言った。
「ただいま」
たしかに変だ。
この家に来るのは初めてで、彼女はこの家の人間ですらないのに。
だけどその言葉は笑ってしまうほどピッタリとハマって心の隙間に流れ込む、この再会に必要な最後のピースだった。
「おかえり」
最大限の笑顔で言ってやると永愛は心底から嬉しそうに笑って、
「もう、ぜってぇ離れてやるもんか」
いつかのクソガキの言葉を、ここぞとばかりにのしつけてきた。