棒人間
濃密な時間はあっという間に過ぎ去り、太陽は歩み続け、既に南から西へ差し掛かっていた。
昼休憩中の愛花は屋上で一人、自作のお弁当に口を付けていく。その歩みは、遅い。ぐずぐずしてるとおいていくぞ、と言わんばかりに燦燦と照り付ける太陽が彼女を見つめているが、愛花の視線は手元に向いたまま動かないでいた。
本当ならば昨日起こった事を思い返したり、食べ終われば再び始まってしまうだろう業務に意識を投じる所だろうが……今の彼女は、どうもそんな気になれない。
「はぁ……」
こうして溜息をもらしたのも、休憩が始まって一度や二度では無い。一体何が、彼女の意識を独占しているのだろうか。
上空に浮かぶ太陽も、下に広がる景色も手をこまねいている彼女の意識を奪い去ったのは。
突如、視界を埋めた缶ジュースだった。
「え……」
缶を持つ、見慣れない男性の手。それを追って目線を上げれば、そこにいたのは昨日初めて会った男。
自分を現場へと連れ出し、あっという間に解決した、真島蓮で間違いは無かった。
彼はじっと愛花を見つめて動かない。それを「受け取れ」という意味だと捉え、愛花は控えめに礼を言って缶ジュースを受け取る。
手元から重力が離れた事を確認し、蓮も彼女の隣へ腰かけた。
「昨日は悪かったな、急にあんな所に連れ出しちまって。特殊業務手当、なんて言うには安すぎると思うが、とりあえずの迷惑料だと思って受け取ってくれ」
「ありがとうございます。でも、気にしないで下さい。私も怪我一つしませんでしたし……真島さんも休憩中ですか?」
「あぁ。オペレート室で質問攻めにあってな。ようやく落ち着いた所だ」
「……昨日の真島さん、凄かったですもんね。お疲れ様です」
そう言って笑う愛花の表情を見てみれば、やはり。蓮はその感想を素直に口に出す。
「無理してるな」
「え……」
「相談者に向けてるのと、同じ笑顔してるぞ」
会って一日しか経っていない人間にそんな事を言われるなんて、夢にも思っていなかった。一体なぜそんな事が分かると言うのか。そもそも窓口に座っている姿すら見られたことが無い気がするが…。
そんな言葉が喉を刺激するが、吐き出される事は無かった。
答えは簡単。それは、図星だったから。自分の顔は見ていないので分からないが、蓮が言った事はおそらく事実なんだろうと、そう思ったからだ。
笑顔を消し去り、哀しみとも悔恨とも、それでいて怒りとも取れるような、様々な感情が入り乱れる複雑な表情で、愛花は再び自分の手元を見つめた。
そして、数刻後。
「―――――――私なんです」
何が、という疑念は口に出さず、蓮は黙って次の言葉を待つ。
「昨日の事件、ニュースになってましたよね」
「そう言えば、やっていたかもしれないな」
「犯人の顔写真、見ました?」
「悪い、流し見してたから覚えてない」
その様子から、本当に覚えていないのが分かる。だが、愛花はそうもいかない。
あれは間違いなく―――――――。
「あの人、あの日……午前中に私が対応した相談者さんなんです」
やはり、蓮は口を開かなかった。
「『ベクトル変化』なんて変わった異能が発現して、ご近所さんからも妙な事に使われるんじゃないかって、不審者を見るような目で見られるようになったって……買い物すら、まともに行けなくなったって……そう、言ってました。私の方からも、定められた支給品をお渡しする事を提案したんですけど、納得していなくて……それで、怒って帰っちゃったんです」
出来る中で最大限の事をしたつもりだった。だが、その結果がこれだ。怒りに任せ、異能を振りかざし、罪を犯した。
「正直、真島さんが私を連れていくって言ったときは、何考えてるんだろうって、そう思いました。でも犯人の顔を見たら……私がもっと、ちゃんと対応出来ていれば、事件自体起こらなかったんじゃないのかなって、そう思っちゃって……」
出来る事はした。法律が定まっていないから、そのせいにする事だって出来る。きっと、そうしても誰も咎める事はしないだろう。
だが、愛花にはそれが出来ない。自分がもっとうまく出来ていればと考えてしまう。
たとえ法が定まっていなくても、出来る限りの対応をした上で激情を起こしたのだとしても、自分が相手の怒りを鎮め、穏便に済ませる術を持ち合わせていれば……。
「私、良いところなんて一つも無いですよね。昔からそうで、少しでも変わりたくて、異能の事も勉強して、この仕事にもついて、少しでも苦しんでる人達の助けになれたらって思って……でも、今もダメなままなんです。やっぱこんな仕事、私になんて…………」
「たらればなんて、言い始めたらキリが無いだろ」
愛花の言葉を遮るように、蓮が初めて口を挟んだ。彼の横顔を見てみるが、缶コーヒーに口をつけているだけで表情は変わっていない。
「今の自分に出せる全てを使ったんなら、結果は仕方ない。いくら悔やもうが、それが今の自分の限界だと受け入れるしかない。それでも悔しけりゃ、やるべき事は力をつける事だ。それは特務課も相談課も同じだと思うぞ。まぁ、関東の思想に合ってるかは知らんが」
彼は彼なりに、自分の事を励まそうとしているのだろうか。会って間もない自分を。
もしそうならば、何と分かりにくい青年なんだろうかと、愛花は心の中で笑った。
「それに、これは仮説に過ぎないが……篠崎があの男を宥められたとしても、結果は変わらなかったと俺は考えてる」
「え?」
缶を一度両手に収め、蓮はどこか遠くを見つめながら話し始めた。
「昨日、俺が初めて此処に来た時……お前の言う相談者とすれ違った。ぶつぶつ文句言いながら帰ろうとしてる最中でな。その時に、気付いたことがある」
「気付いたこと……」
「そいつの手だ」
疑問符が一つ、頭の中に産まれた。
「その男の手には銃ダコが出来ていた。よく考えてみろ。異能による犯罪率が上がったとはいえ、一般市民が易々と銃を手に入れられると思うか? 銃刀法に関する法律は変わっちゃいないし、未だに銃は所持するだけで違法になるんだぞ?」
せっかく産まれたが、すぐに蓮の言葉によって流されていく。
彼の言う通り、この国で銃なんて簡単に手に入れられるわけが無い。だが、彼は持っていた。それだけで蓮が言わんとする事が、何となくだが愛花にも理解出来た。
「昨日の射撃技術を見ても、実力は素人に毛が生えた程度だ。あれで日常的に暗殺業を生業にしてたとは考えにくい。おそらく機会を待って、射撃練習をしてたくらいだろうな。周囲への鬱憤、政策への不満、そんなのが重なって暴動の機会を待っていた所に、お前との対話があったんだろ」
蓮はある者をポケットから取り出し、愛花へ差し出した。
恐る恐る受け取ると、そこには――――――――鈴木雄一の名前と顔写真、そして運転免許証の文字が刻まれていた。その顔を見間違える筈はない。忘れる筈も無い。自分が対応した、昨日の事件の犯人その人だった。
だが、どうして蓮がそれを持っているのか?
疑問を含んだ視線を向ければ、蓮もそれに応えた。
「昨日すった」
たった一言。驚くほどあっさりと。
「す、すったんですか?」
「あぁ、すれ違う時にな。銃ダコなんて見えたもんだから、何かやらかすんじゃないかと思って一応獲っといたんだが……当たりだったな」
ただでさえ昨日会ったばかりの蓮の事なんて分かる筈は無いのに、話を進めていけばいくほど、もっと分からなくなっていく様に感じる。
疑問符は再び産声を上げ、愛花の頭蓋骨の中を跳ね回り、頭痛が襲う。
「とにかく、お前が例え完璧な対応をしていたとしても、こんな事件が起こらなかったとは言い切れないって事だ。元からそういう人間だったってのもあるだろうが、とりあえず今は国のせいにでもしとけ。幾分か気が楽になる」
さらっと日本政府を敵に回すような事を言ってのける蓮を見て、頭痛が酷くなったと錯覚してしまう。
その痛みの中に、かすかに見える感想を、愛花も素直に口から漏らした。
「凄いですね、真島さんは」
それが、今の愛花の本心だった。
「鈴木さんがそういう人なんだって、たった一瞬で見抜いて。昨日だって、すぐに居場所を特定して、一発で終わらせちゃったし……真島さんは凄くて、強い人なんですね」
本当に、愛花なんか足元にも及ばないくらいに。
伏し目がちな愛花の表情をしばし横目で見つめた後、蓮は再び缶コーヒーに口をつけた。
「職業病みたいなもんだな。ずっとこんな事ばっかやって来たから」
「……真島さんは、どうして関東に来たんですか?」
ふと、会話の中で浮かんだ疑問を口にする。
蓮ほどの実力者ならば、世界各国が喉から手が出るほど欲しがる筈だ。日本は犯罪率も低い。昨日のような事件が起こる事だって極稀だ。正直に言ってしまえば、蓮の実力も『宝の持ち腐れ』感が否めない。
蓮はしばし缶コーヒーと睨めっこをしていたが、やがて、口を開いた。
「昔、知り合いと約束したんだ」
「約束?」
「あぁ―――――――『世界最高のチームを作る』ってな」
世界最高のチーム。
特務課の存在も昨日知ったばかりの自分には分からないが、それならば尚更海外の犯罪都市に行った方が実力者も揃っているんじゃないのかと、素人ながらに思う。
だが、蓮の瞳に嘘は無かった。
「異能者が俺達を恐れて事件すら起こさなくなる……そんな夢みたいな世界を実現させられる。そんなチームを必ず作って見せるってな。
その為には、この場所が一番適している……そう思ったから、此処に異動してきた。それだけだ」
言い終えると、蓮は缶コーヒーを一気に飲み干す。
「それに、俺はお前の言う『凄くて強い人』でも何でもなければ、そうありたいとも思わない」
「え……」
思わず目を見開いた。あれだけの芸当が出来る人間が何を言うのか。だが、蓮は彼女が漏らした言葉を吹き消す様に話し続ける。
「俺がそう見られるのは、世の中で犯罪が起こるからだ。特務課なんて存在が必要ない平和な世の中なら、俺はただの役立たずでしかない。誰も特務課を求めないし、必要としない。
犯罪が起きるから、平和なんてもんが存在しないから、俺達は飯が食えるし、仕事にありつけてる……。
篠崎、お前はそんな世界で生きたいと思うか? 犯罪が横行して、安全なんてものも保障されず、いつ自分が標的になるかも分からない。大多数の人間が、そんな恐怖といつも戦っている世界でしか自分の価値を見いだせない様な……そんな世界でだけ輝ける『凄くて強い人』に、お前はなりたいと思うか?」
その言葉が持つ重圧に、愛花は口を開く事が出来なかった。
射抜くような鋭い瞳に、目を逸らす事も出来なかった。
一体どれだけの修羅場をくぐって来たのだろう。どれだけの絶望を跳ね返し続けたのだろう。
見たところ、まだ二十代か三十代そこらだと言うのに。その身体に、どれだけの侮蔑や憎悪を浴びて来たのだろう。
きっと、愛花には想像も出来ない。
だからこそ、重圧の中でも口を開き、これだけは言えた。
「そんなの……考えたくもありません」
「……それでいい」
やっと絞り出した言葉に、蓮はさらりとそう返した。
「お前は、そのままでいろ。清廉なままでいろ。俺達の様な薄暗い地獄でしか生きられない――――――――『普通』が眩しく見える、そんな人間にはなるな」
蓮が立ち上がり飲み終えた缶を後ろに投げれば、ガコンと心地よい音が鳴る。
「さて、そろそろ休憩も終わるな。俺はもう行くが、最後に一つだけ頼みがある」
「……何ですか?」
蓮が視線を下ろした先。そこへ向けてゆっくりと右手を伸ばした。
「それ、一つ貰って良いか?」
「へ?」
今までの会話は何だったのかと思うほど平凡な言葉に、思わずそんな声が出た。
彼が指さす先には、愛花のお弁当―――――更に詳しく言えば唐揚げが三つ鎮座していた。
「昼飯を忘れちまってな、何も食ってないんだ」
「あ、はい。どうぞ……」
愛花の承諾を聞き、蓮はそっと唐揚げに手を伸ばし、口に放り込んだ。
彼の咀嚼音だけが二人の間に流れる。
「……これ、お前が作ったのか?」
「え? あ、はい」
「唐揚げも?」
「そ、そうですけど……」
何事かと少し身構えていれば、すぐに蓮が口を開いた。
「お前、凄いな」
「え? ……っ」
思わず、息をのんだ。
愛花を魅了したもの。それは―――――――この二日間で初めてみた、驚くほど綺麗な蓮の笑顔だった。
「凄ぇ美味いよ、これ」
それだけ伝えると、蓮は彼女に背を向けて去って行く。
その背中に、愛花はしばらく魅了されたままだった。