プロローグ
東の果て。海に囲まれた小さな島国、日本。
日が沈み、夜闇が顔を覗かせてもなお、この国は光に包まれていた。人で賑わい、車は叫びをあげ、静寂等という言葉とは無縁の世界が広がる。ある者は働き、ある者は遊び歩き、またある者は喧騒に背を向け、背中を丸めて帰路につく。
これが、この国の日常だ。平和が島を包み込んでから数十年が経ち、過去の傷痕もかさぶたとなって、やがて記憶から消え去ってしまった。
時代をまたぎ、技術は進歩し、生活は日々変化していくが、実情は何も変わらない。朝起きて、それぞれ学業や仕事に精を出し、一日を終える。それが当たり前に出来る、幸福な国となったのだ。
しかし平和も幸福も、数十年続けば『有難み』を失い、比例して人々は『平和への感謝』を失ってしまった。先の言葉通りこれが日常となり、常識となり、当たり前になったのだ。
だが、それはあくまで『表向き』の話に過ぎない。
都心の幸福な喧騒から数歩裏へ踏み込めば、そこに広がるのは別世界。毎日の様に平和は脅かされ、日常は崩壊し、そして――――――命が失われる。
それもまた、この国の日常の一部なのだ。眼に触れないだけ。ただ、それだけだ。
数百年数千年と、この裏の世界は蔓延し続けている。そして、その出来事に拍車をかける出来事が、数年前に世界を震撼させた。
それは、世界の一部の人間から発現した力。今までの人間には決して見られなかったその力を、この国では『異能』と名付けられている。
その種類は、人によって千差万別。異能者の数だけ異能がある、と言っても過言ではない。力の大小も様々で、実用的なものからそうでないもの、果ては人を殺すだけの力を持ったモノまで確認されている。そんな力を持った人間が目の前に現れれば、持たざる者たちはどうなるか?
答えはいたって簡単だ。ある者は羨望を向け、ある者は嫌悪し、恐怖した。強大な力を持った者に対して、非異能者が結託して殺人事件まで起こる程に。
そして、その逆も然り。強大な力を持った者の中には、その力を以て犯罪行為に手を染める者も山の様に現れた。世は正に、混沌の時代へ突入しようとしていたのだ。
これを受け、国際連合は世界各地に『異能者数・情報の把握と保護・支援』を目的とした施設を建設。今この時も、日々支援活動を行っている。
その支援施設の中には、裏の顔が一つある。
それは暴走した異能者を抑え込むための、いわば『実働部隊』の存在。
目には目を。歯には歯を。そして、異能には異能を。
今日も彼らは、喧騒や幸福、日常に自ら背を向け、暗躍を続けている―――――――。
男は、走っていた。
街を離れ、森を抜け、自ら踏み込んだ山の中を、ただひたすら、愚直に、走り続けていた。
時間など分からない。此処が何処かすら分からない。目的地すら、分からないままに。
彼の脳を支配するのは、巨大な恐怖と圧倒的な絶望だけ。大自然に服を刻まれ、身体を切られようと、走る事を止めようとはしなかった。
だが――――――絶望は彼を、逃がさない。
「がぁっ‼」
何かが彼の足を引き、地を嘗めさせる。振り返っても、そこには何も無い。ただ暗闇が広がり、人はおろか獣の気配すら感じられない。
だが、それは確かに彼の足元に居た。
進むことを許さず、起き上がる自由を与えない様に。
男は無我夢中で足をばたつかせるが、無駄だった。彼の足を捕らえた『ナニカ』は離れず、むしろ動く度に拘束を強めていった。
男は、それでも動く事を止めない。
急げ、急げ。
奴が来る前に。
脳を支配するのは、それだけだった。
だが、
「――――――おい」
やはり絶望は、獲物を逃そうとはしない。
声を聞き、男の動きがはたと止まる。
そして聞こえて来るのは、ガサリ……ガサリ……と近づいて来る、絶望の足音。
やがて、かすかに漏れる月明りに照らされた絶望の姿が見えた時、彼の身体はガタガタと震え、吸い込まれる様にその姿を凝視していた。
「平川大樹、だな?」
「ひぃっ!?」
情けない声が吐き出された。それを肯定と捉えたのか、絶望は足を止め、倒れ伏す彼を見下ろした。
そして、懐から一枚の紙を取り出し、男へと突きつける。
「お前には『執行許可』が下りている。散々好き勝手やって来たお前が、今やるべき事はただ一つ――――――此処で、俺に殺される事だ。
その義務以外、お前にはもう何もない。自由も、生きる権利も、戸籍さえも……。お前は捨てられたんだよ、世界からな」
諦めろ。そんな声が、何処からか聞こえた気がした。
絶望は紙を投げ捨て、勢いそのままに手を胸元へ動かしていく。
次に取り出したのは――――男を殺す。その言葉を実行する為の、彼の愛銃だった。
「これより、断罪を開始する」
そして絶望は、その銃口を男へと向けた。
「ふ……」
震えながら、圧し潰されながら、今まで自分が奪ってきた人間を思い浮かべながら。
それでも彼は―――――――命にしがみつこうとした。
「ふざけるなぁぁあぁぁぁあぁ‼‼」
男の最期の叫び。
それは―――――――。
「…………執行」
か細い一言と、大音量の銃声と共に、無慈悲にも山に飲み込まれて行った。
これは、巨大な悪しき力を抹殺する為に、日常に背を向け、平和を崩壊させ、称賛を投げ捨て、自ら地獄への一本道を進むことを選んだ。
そんな――――――異端の英雄たちの物語。