韋駄天
「ダメだもう間に合わない! 戻ったところでお前までモンスターに喰われちまうぞ!」
逃げ惑う人々のなか、一人の若い娘と、初老の男が揉み合っていた。
「放してください! カルロを見殺しにするくらいなら、一緒に死んだ方がましです!」
「このバカ…! そんな無茶を誰が見過ごせるか!」
女は男の腕を振りほどこうともがくが、男が必死にそれを制して説得を続けた。
「もしかしたら何処かに隠れて助かるかもしれないんだ! みすみすお前まで死ぬことはないだろ!」
「イヤです! あの子はきっと一人で泣いてる! 私だって身代わりくらいには…!」
「あぐっ!」
女が男の腕に噛みついていた。 痛みのあまり瞬間緩んだその腕をがむしゃらに振り払い走り出す。
すぐさま追いかけようとした男だが、使い古された老人の脚だ、主人の言うことを聞いてくれるはずもなく、男は勢いあまってその場へと膝をついてしまった。
「おいサナ! 待て! 戻ってこい!」
逃げる人々の流れに逆らいながらも、みるみる娘の背中が遠退いていく。
「ちくしょうっ! 戻ったところでどうするっていうんだ…!」
男は己の無力さを悔いるように、強く地を叩いた。
絶望のあまり、涙を流しながら、額を地にこすりつけて慟哭する。
「おぉ、神よ…!」
しかし、奥歯を噛みしめて、男がどれだけ嘆こうと、神はこたえてはくれない。
そばを走り抜けていく人々もまた同様。 自分たちのことで精一杯な彼らは、男に目をくれてやる余裕すら持ち合わせてはいなかった。
ただ一人、人波の中足を止め、この二人の様子を見ていた人物を除いて。
*
サナと呼ばれた娘が家に到着すると、居間で泣いていた弟をすぐに見つけることができた。
姉を見た瞬間、弟が泣きじゃくりながら駆け寄ってくる。
「お姉ちゃん!」
「あぁ…! カルロ…! カルロ!」
弟をひしと抱きとめると、サナは落ち着かせるように、泣き続ける弟の頭を優しく撫でてやった。
「よかった… もう大丈夫だからね」
小刻みに震える弟をなだめ、しばらくしてカルロが落ち着きを取り戻すと、サナはその小さな肩に手を置いて、ゆっくりと身を離した。
「お姉ちゃんと一緒に避難所へ行きましょう。 もう少し、頑張れるよね?」
まだ涙に濡れている目を見つめながらそう言うと、カルロは目を擦りながら無言で頷いた。
「いいこ」
立ち上がると、カルロの手を取ってサナは戸口から外へと出た。
しかし、直ぐにその足が止まる。
───モンスターだ。
二人の正面に、巨大な狼のようなそれが立っていた。
モンスターは姉弟の姿を見ると興奮し、姿勢を低く構えると、牙を剥き出しながらおぞまし唸り声を立て始めた。
サナは恐怖のあまり昏倒しそうになるのを何とかこらえながら、咄嗟に弟を自身の背に隠した。
背中に、弟が恐怖から身を寄せてくるのを感じる。
脚が震えだし、鼓動が早鐘を打つのを自覚する暇もないまま、モンスターから目をそらさずにサナは後ろのカルロへと言った。
「いいカルロ、私が3つ数えたら、避難所の方向に走りなさい。 わかったわね?」
「そんな、僕… お姉ちゃんはどうするの?」
「私も必ず後を追うから、お願い、いい子だから、ね?」
戸惑う弟をよそに、強引に続ける。
「いくわよ、ひとつ…」
モンスターの唸り声がさらに大きくなる。
「ふたつ…」
言いながらゆっくりと姿勢を低くし、側に落ちていた棒切れを拾い上げる。
サナは自分が死んでも、弟が助かればそれでよいと、ただそれだけを願って意を決した。
「みっ…!」
そのときだった。
モンスターの横面に鋭く石つぶてが当たった。
モンスターの注意がそちらに向く。
突然のことにサナもつぶての方向を目で追った。
するとそこには、異国の旅人だろうか、三度傘をかぶり、道中合羽を着た男が、もうひとつの石を手玉のように片手で宙に放りながら立っていた。
男の方でもサナを見ると、顎をクイっと動かして合図を送ってきた。
どうやら行け、ということらしい。
打たれたように、サナはカルロの手を引いて走り出した。
タイミングで、二人にまたモンスターの注意が向かないよう、男がもうひとつのつぶてを勢いよくぶつける。
走りながらサナが振り帰ると、男は怒りくるうモンスターを引き付けて、脱兎の如く駆けていった。
(は、はやい…!)
名も知らない男に対する感謝と、無事を心の中で祈ると、サナとカルロは避難所を目指した。
*
二人が無事に避難所にやって来た姿を見て、叔父のアンリは泣いて喜んだ。
「おお、神は我々を見放さなかった…!」
そんな叔父へ、サナが落ち着いた様子でいう。
「いいえ叔父様、助けてくれたのは神様ではないのよ。変わった旅のお方」
「旅の…?」
アンリは怪訝そうな表情を浮かべた。
「ええ。 何処の方かしら、不思議な傘を被って、見たことない格好でしたわ」
「まて、その方というのは、もしやとは思うが、あちらの方ではないな?」
叔父の指す方向を見てサナは驚愕した。
あの変わった格好をみ間違えるはずもない。
「まあ! そう、あの方よ!」
「なんと! お前たちが来るほんの少し前にここに来たんだよ」
その男は確かに、先程自分たちを助けるために囮になってくれた男だった。
(でも、あのモンスターをまいてから、さらに私たちを追い越して先にここまで…?)
女子供の足とはいえ、いくらなんでも、と思いながらも、サナは無事だったことが何よりも嬉しく、男のもとへ駆け寄った。
「あの、先程は危ないところを助けて頂き、本当にありがとうございました」
「まさかあなたが姪っ子たちを助けてくれていたとは、何も仰らなかったとはいえ、お礼が遅れてしまい、申し訳ございません。 本当にありがとうございました」
「無事だったかい。 そいつぁ良かった」
男は傘を脱ぎ、荷を解きながら答えた。
この地方では珍しい、美しい黒髪で、長いためだろうか、簪を刺して簡単にまとめている。
「あの、よろしかったらお名前を」
「なに、名乗るほどの者じゃあ、ごぜぇやせん」
「そんな、せめてお名前だけは…」
しばらく無視していた男だったが、やがてばつの悪そうに口を開いた。
「五郎。 韋駄天の五郎ってのが、あっしの名前です」