番外編:アナスタシアの憂鬱(中編)
エリオットの真意を知ったアナスタシアは、彼に手紙を送るのをやめた。
元々ジャンヌ・マリアージュで繋がっただけの仲。本音を言えば、アナスタシアとしては運命の相手と言われた彼と婚約したい気持ちが少なからずあったけれど。彼に意中の相手がいるのであれば、そこに割って入るまでの強い気持ちではなかった。
しかし、それついて話をしなければならない相手がここに一人。
「アナスタシア! エリオット殿はなぜ一度も挨拶に来ないのだ!?」
アナスタシアの父親、グラハム伯爵は疑問を投げた。
“エリオット様は他の女性を慕っているからです。”
なんて回答は出来るはずがない。
万が一そんな話を耳に入れれば、アナスタシアを溺愛しているグラハム伯爵の頭上に雷が落ち、エリオットに迷惑がかかってしまう。
ただでさえジャンヌ・マリアージュのせいで愛し合う二人の関係に水をさしてしまったかもしれないのだから、これ以上彼に迷惑をかけたくなかった。
「落ち着いてくださいお父様。彼は忙しい身なのです」
「忙しくても挨拶くらいは来れるだろう!!」
ふんすふんす、とグラハム伯爵の鼻息が荒くなっている。
白い顎髭を弄りながら必死に気を落ち着けているようだが、それでも鼻息が荒いままなのだから相当怒っているようだ。
愛しい娘が蔑ろにされているとあっては仕方ないことかもしれないが。
「……そこでお父様に相談なのですが、エリオット様以外の方と婚約させていただけませんか?」
「なに!?」
「挨拶に来ていただけないのは構わないのですが、彼は忙しすぎて、結婚したとしても二人で過ごす時間が少ないと思うのです。私、旦那様とは出来る限り一緒に過ごして愛を育みたくって。ですが、エリオット様ではそれが叶わないではありませんか」
あくまで、エリオットがアナスタシアの理想に当てはまらないという主張。
これであれば、エリオットが責められることはないと考えた策だ。
ジャンヌ・マリアージュの結果に逆らうには若干理由が弱い気もしたが、自分を溺愛してくれている父親ならどうにか押し切れば承諾してくれるのでは、と考えていた。
「だが! エリオット殿はお前の運命の相手なんだぞ? そう易々と手離してよいのか?」
「ええ。少し残念ではありますが、ジャンヌ様のお告げが間違いだったと思うことにいたします。きっと他に、私と愛のある家庭を築いてくれる殿方がいるはずですわ。どうかお願いします、お父様」
「ア、アナスタシア……」
戸惑うグラハム伯爵はアナスタシアに掛ける言葉が見つからず、その場は沈黙のままお開きとなった。
……数日後。
グラハム邸では、アナスタシアが予想もしていなかった展開を迎えていた。
グラハム伯爵から応接間に呼ばれたアナスタシアは、何の用かしら、なんて呑気に考えながら気を抜いた状態で応接間を訪れた。
(……え?)
扉を開けるとそこには、自分を呼んだ父親ともう一人。
エリオット・ベルタが待っていた。
「アナスタシア! こっちに来て座りなさい」
嬉しそうな様子のグラハム伯爵はアナスタシアを手招きした。
状況が掴めないまま、アナスタシアはとりあえず伯爵の元へと歩を進め、エリオットと礼を交わしてから、招かれたソファへと腰を下ろした。
「なんだ、ぎこちのない! お前たちはこれから夫婦になるのだからもっと……まあそこは追々か?」
アナスタシアとエリオットが交わした礼を見て、即座にグラハム伯爵が横槍を入れた。
そしてその横槍には、聞き流せない言葉が含まれていた。アナスタシアは目を見開き、グラハム伯爵に確認する。
「お父様。今なんて仰いましたか?」
「ん? ああ、それなんだがアナスタシア。お前とエリオット殿の婚約話がまとまったぞ!」
「……っ!?」
おかしい。
アナスタシアからはエリオット以外と婚約したいとお願いしたはずなのに、エリオットと婚約話がまとまったとはどういうことなのだろうか。
今すぐにでも伯爵を問いただしたいが、エリオット本人が目の前にいては、“他の人と婚約したいと言ったのに”なんて口が裂けても言えない。
「案ずるなアナスタシア。お前との話を忘れたわけではない」
言いたいことを言えずに唇を噛んでいたアナスタシアに対して、グラハム伯爵は続ける。
「お前の理想は“いつも一緒にいられる旦那”だっただろう。それで私は、エリオット殿と話をしたんだ」
「はい!?」
「話してみたところ、彼はアナスタシアを幸せにしてくれそうだと思えたんだ。だからやはり、彼との婚約で話を進めることにした」
アナスタシアが伝えた理想とは、表向きの、エリオットを守るために繕った言い訳だ。
エリオットには慕う人が他にいて、だから彼との婚約はだめだというのに。
グラハム伯爵にいきなり訪ねられて娘との婚約を推されたとしたら、伯爵より下位のエリオットは何も言えなかったはずだ。
つまりこれは、伯爵の暴走に違いない。
(あああ、まずい展開だわ。一体どうしたらいいの!?)
アナスタシアの目がぐるぐると泳ぐ。
「それでな、エリオット殿はようやく挨拶に来てくれたというわけだ。私はもう話したいことは話したから、あとは若い二人で話してくれ」
混乱しているアナスタシアを置いて、グラハム伯爵は席を立つ。
「え、お、お父様……!!」
呼び止める娘の声も聞かず、グラハム伯爵はそのまま応接間から出て行ってしまった。
パタン、と扉が閉まれば、そこにはアナスタシアとエリオットの二人きり。嫌でも沈黙が流れる。
「「……」」
突然用意されたこの状況に、アナスタシアは動揺が隠せない。
しかしエリオットは沈黙も意に介さないようで、テーブルに出されていたお茶に優雅に口をつける。それからゆっくりとティーカップを置いたところで、口火を切ったのはエリオットだった。
「アナスタシア様が僕との婚約を望んでいない、とグラハム伯爵から伺いました」
沈黙を破る一言目にしては重い。
それは、父親を説得するために繕った言い訳で、まさかそれを本人に直接伝えるとはアナスタシアは夢にも思わなかっただろう。
まずは誤解を解かなければいけない。
そうアナスタシアが思ったところで、エリオットからは予想外の言葉が出てきた。
「ですが僕は、貴女を妻にしたいと思っています」
え、と出かけた言葉を、アナスタシアはなんとか押し戻す。
(つま……? つまって、妻よね? 私を妻にしたい?)
たった二文字の単語は聞き間違うはずもなく。アナスタシアは、その単語が自分の知っている意味で間違いがないか、また、他に同じ音の別の単語がないかと脳内で必死に確認する。
その間にも、エリオットは話を続けた。
「貴女には申し訳ないことをしたと思っています。その……手紙ももらっていたのに会いに来られず、本当に申し訳なかったです。実は、もう少し後で改めてと思っていたのですが、グラハム伯爵から貴女に別の婚約者を探そうと思っていることを聞いて、その……」
エリオットはこんなに饒舌だったのか。
なんて感心している場合ではなく、これはどういうことなのか。
「あの、エリオット様、」
「貴女の言いたいことは分かっています。これまでの僕の態度をすぐに許していただけるとも思っていません。ですがどうか、僕に機会をいただけませんか?」
エリオットの眼差しは真剣そのもので、嘘を言っているようには見えない。その上最後にはその視線の中に縋るような意思も見え、ますます訳が分からないアナスタシアは首を傾げる。
そして、スッと挙手をして饒舌なエリオットから発言権をもらう。
「すみません。確認させてください」
「はい」
「エリオット様は、意中の女性が他にいらっしゃいますよね?」
「え?」
今度はエリオットが不思議そうな顔をした。
「先日王宮の庭園で見てしまったんです。あ、決して覗き見しようとしたわけではなく、本当に偶然だったのですが! エリオット様とメイド服の女性が親しげに話されている様子で、きっとこの二人は慕い合う仲なのだと思いました。ですから私、お父様にはあんなことを言いましたけど、それは表向きと言いますか……。実のところはあなたがその方と一緒になれればと思っただけでして」
口にするのが憚られる内容なだけに、話しながらアナスタシアの視線はあっちこっちに行き定まらない。全て言い終えたところでちらりと視線をエリオットに向ければ、彼は慌てた様子で答えた。
「ちょ、ちょっと待ってください! 一体誰の話ですか!?」
「ですから、エリオット様とメイド服の女性です」
「メイド服の女性なんて王宮にはいっぱいいますよ!? その中の一人と僕がどうして、」
「すごく仲が良さそうでした。意中の方がいらっしゃるから、私と会ってくれないのだろうなと腑に落ちたのです」
「勝手に腑に落ちないでください!」




