13. 嫌な噂は聞かないようにします
夏の暑さも和らいできて秋の訪れを感じ始めた頃、街にはある噂が流れ始めていた。
“ジャンヌ・マリアージュで囚人の名前が出たらしい”
“囚人が相手だなんて、本当に貴族なのか”
“ファスタール伯爵はかなり憤っており、ご令嬢を勘当するかもしれない”
などなど。
人の口には戸が立てられないとはよく言ったもので、一度広がり始めた噂は瞬く間に街中に広がった。そしてそこには、真実と偽りが入り混じる。
「私、お父様に勘当されるの?」
苦笑混じりに、クィンはナビアに問いかける。
そんなことあり得ませんよ、とナビアは答えた。
「ま、外から見ればそう思っても仕方ないわよね。状況が状況なだけに。レナルドが囚人なのは事実だし……」
「庶民の話す噂など気にしてはいけません。それに、旦那様は厳しいお方として有名なので、そのような根も葉もない噂が出ているだけです」
ナビアはクィンに同情の眼差しを向けた。
街中にレナルドのことが広まるのは予想していたが、ファスタール伯爵とのことをこんな風に噂されるのは想定外だったのだろう。
父親であるファスタール伯爵からの評価は、クィンが一番気にするところ。
幼い頃から毎日毎日。
勉強に励み、外見を磨き、礼儀作法も身に付けて。
父親に嫌われないように必死で自分を作り上げてきたお嬢様。
それを間近で見てきたナビアは、噂とは言え、ファスタール伯爵に勘当されるかもしれないなんて話をクィンの耳に入れたくはなかった。
「いいのよナビア。街に来たいと言ったのは私なのだから」
今朝支度をしていたら、クィンの手が滑り、髪飾りを床に落として壊してしまったのだ。
ちょうど外も涼しくなってきたのを感じていたので、髪飾りを買い足しがてら、久々に街へ買い物に行くことにした。
だが、露店のアクセサリーを眺めていたら、ヒソヒソ話が聞こえてきた。
それが先ほどの噂だった。
噂話をしている人達は庶民の格好をしていたので、恐らくクィンの顔までは知らなかったのだろう。すぐ近くに本人がいるとは思いもせず、楽しそうに噂話に花を咲かせていた。
今はと言うと、買い物を続ける気もなくなってしまったクィン達は一旦馬車に戻ってきたところだ。
馬車は停めたまま、中で話をしていた。
「それにしても、“貴族令嬢と囚人の身分差の恋”って話もしていたわね? そんな小説があったら、私も読んでみたいかも」
「お嬢様……」
噂の一部を口にして、笑って冗談を言うクィンとどうしても笑顔になれないナビア。
「笑ってよナビア。そんな顔しないで」
「…………」
当事者のクィンが笑っているのに、ナビアの表情は浮かばない。
困ったクィンが馬車の外に視線を逸らすと、道を挟んだ向かい側、路地の奥に佇む一つの店が目に入った。
「あら、あそこにあんなお店あったかしら?」
クィンが見つめる先には可愛らしい外観の店が建っていた。
「新しく出来たようですね。見たところケーキ屋でしょうか」
「ケーキ! 行ってみましょうか!」
「え、ですが……」
「大丈夫! 甘いものの前でそんな噂をする人なんてきっといないわ」
噂話を懸念して行き渋るナビアを言いくるめ、クィンは再び外に出た。
馬車が行き交う道を気を付けて渡って行き、店の扉を開く。
カランカラン、と扉に付けられた小さな鈴が鳴る音と共に、クィン達は店の中に入って行った。
店の中は、美味しそうな甘い匂いがふんわり香る。目を瞑って深呼吸。思わず堪能したくなる香りだ。
「んー、いい匂い」
中はアンティークな小物が並んでいて、外観同様に可愛らしかった。
目の前にはケーキがいくつも並んだショーケース。ケースの上には手作りの焼き菓子。
どれも綺麗な出来栄えで、店に充満している匂いは購買意欲をさらに高める。
「これください。あと……こちらと、ああ、あれも」
匂いまでもが店の策略だとしたら、クィンはまんまと策略にハマってしまった。
入店して五分で、ケーキから焼き菓子まで、クィンは思う存分その店の商品を買い上げてしまったのだった。
***
たくさんスイーツを買ったクィンは、その足で王宮へ向かい、地下牢への階段を下りていた。
地下は、先ほどの可愛らしい店とはうって変わって薄暗い。
まるで、天国から地獄に落ちていくかのようだ。
「また来たのか」
石畳を下りてくるヒールの音で、レナルドはそれがクィンだとすぐに分かった。
「はい、また来ました」
クィンは檻に近付き、レナルドの顔を確認する。
先日散髪が完了した綺麗な顔がよく見える。クィンは無意識の内にうっとりと顔が綻びそうになり、必死で堪えた。
「二度と来るなと言ったはずだが」
「勝手にしろとも言いました」
「ここは毎日来るような場所じゃないぞ」
「そうですね」
「いつまで来る気だ」
「んー、私が飽きるまででしょうか」
レナルドとクィンで言葉の応酬が繰り広げられる。レナルドからすればクィンの行動は不可解でしかなかった。
「もう五日目だぞ」
「そうですね」
散髪が完了したと連絡を受けてからのち、この五日間クィンは毎日レナルドの元を訪れていた。それほどまでに、クィンは彼の顔を気に入ったということなのか。
しかし、自分の顔がクィンのタイプだとは知らないレナルドは、毎日訪れるクィンの意図がつかめず、何か企みがあるのではというような疑惑の目を向けていた。
そんなレナルドの考えは放っておき、クィンは可愛いリボンで端同士をぎゅっと結ばれているハンカチをレナルドのいる檻の中に差し出す。
「はいこれ。お土産です」
「土産?」
クィンは説明しながら、リボンの封を解き、ハンカチの中に入っていた焼き菓子をレナルドに見せる。
「街に新しいお店が出来ていたんです。可愛らしいお店で、ケーキや焼き菓子をたくさん買ってしまいました。……この焼き菓子は、あなたへのお裾分け、兼お土産です」
「俺に?」
「ここにはあなた以外いないじゃないですか」
「いやだが、俺は囚人で……」
「どうせ誰も見ていないんですから、気にせずもらってください」
それは確かにクィンの言う通りだった。
檻自体は頑丈に施錠してあるものの、地下牢だというのにここに兵士などは置かれておらず、レナルドただ一人がいる状態だ。
そのおかげで手紙を渡したり、マクミラン達を連れてくることも楽に叶った。
いささか警備が不十分ではないかという考えは否めない。
とは言え、ユリウス宰相から、地下牢への扉は施錠していないのでいつでも好きなときに行っていい、と許可ももらえたので、遠慮なくここに来れるようにもなった。それについては警備が薄くて助かったと言える。
さすがに五日連続ともなれば遠慮がなさ過ぎる気もしないでもないが。
「あ、もしかして甘いものは苦手でしたか?」
「…………いや、好きだ」
長い沈黙の後、レナルドはその一言だけ答えた。
“(甘いものが)”という言葉が隠れているその言葉に、クィンは思わずドキッとした。
「な、なら良かったです! どうぞ好きなだけ!」
クィンは少し動揺を見せつつ、持っていたハンカチごとレナルドの胸に押しつけて無理やり焼き菓子を全て渡した。
(す、好きって! いや、うん! 甘いものの話なのは分かってるけど!! あの顔で言われる破壊力!!!!)
クィンは顔を斜め下に向けて、両手で覆う。不覚にもときめいてしまったことが恥ずかしいようだ。
(地下牢が薄暗くて助かった……。絶対今、顔赤い)
少しでも早く顔の熱を取ろうと、クィンは手をパタパタと扇のようにして仰いだ。
「おいしいな」
クィンが焦っている内に、レナルドは焼き菓子を口に運んでいた。
おいしい、と言ったレナルドの顔はほんの少しだけ口角が上がっていて、その顔はさらにクィンに攻撃を与えた。
(…………笑顔もかっこいいっ!!)
「……あ、ナビア! ナビアも一緒に食べましょう!」
心の声を鎮めようと、後ろに控えていたナビアを呼び寄せるクィン。
ナビアは少し戸惑いながら、クィンの元まで近寄ってきた。
「お嬢様、私は……」
「ここには誰もいないのよナビア」
「食べるなら家に帰って食べたらどうだ」
ここで食べようとしたクィンに、レナルドが帰るよう提案した。
今いる地下牢にはテーブルも椅子もないし、食事環境としては最悪だろう。当然の提案だ。
「誰かと一緒に食べた方が美味しいじゃないですか」
「そこのメイドと、家で二人で食べればいい」
「……ナビアはメイドなので、同じテーブルを囲むことは許されません」
クィンはスッと真剣な表情に変わり、貴族とメイドは一緒に食事はできないと断言した。
幼いクィンがそれとなく父親にお願いしてみたことはあったが、ファスタール家でその願いが聞き入れられることはなく、クィンにはそれがルールとして染みついていた。
その真剣な顔は、すぐにふわっと笑顔に切り替わる。
「ですがここでなら、テーブルがないのでそのルールも適用できないと思うのです。ね? 誰かと一緒に食べられるのはここだけでしょう?」
「あ? ああ……」
押され気味にレナルドは返事をした。
(あんな顔するなんて、どんだけ厳しい家族なんだか)
レナルドはふと、そんなことを考える。
貴族は尊ばれるべき存在で、庶民とは違うということは学ぶだろう。しかしそれを、厳密にルールとして叩き込まれているのは、ファスタール家の厳格さに他ならない。
「さ、みんなでこの美味しいケーキを食べましょう」
変な空気を一掃するように、クィンは両手を合わせて発令した。
ナビアは恐る恐るフォークを手に取り、クィンと一緒にケーキを食べ始める。
レナルドも焼き菓子を口に入れる。
クィンはその様子を見て、嬉しそうに笑った。




