1st song
年に一度のまつりの季節がやってきた。学園祭である。
担任のぼそぼそした説明を聞きながら、一典は高揚してくる自分を感じた。とうとうこの時が来たのだ。
(木野さんを、口説き落とす!)
彼女に会ったのは、学年が変わってすぐのことだった。
(何の音だろう)
静かな廊下を歩きながら、一典は歩調を緩めた。
放課後の校舎は、今の時間帯は人の気配がない。にぎやかな吹奏楽部は一階の音楽室で、ここまで音は届かない。時折窓の外から、運動部のかけ声がかすかに聞こえる程度だ。今自分が聞いたのは、どれにも当てはまっていない。なにか、歌のような。
二年六組の前を通り、音はここから来ているとわかった。閉まったドアの向こうから聞こえるメロディ。少女の声。
(この人、うまいんじゃ?)
ドア越しでもわかる高音の響き。少し鼻にかかったけだるげな雰囲気は、一典も好きな人気アーティストを彷彿とさせる。知らない曲だが、引きつけられるものがあった。
一曲が終わり、一典は心中で拍手する。が、その拍手が終わる間もなく次の曲を歌いだした。ノリのいい曲調。先程の雰囲気とはまるで違う。一典は音楽に疎い方だが、それでも少女の歌は違うということはわかった。
一典はそっとドアに手をかけた。十センチほど隙間をあけ、片目で中をのぞく。
がらんとした教室。窓際に座って、外の方を向いている女子生徒がいた。茶色がかったやわらかいセミロングの髪。大きな黒いヘッドフォン。机に置かれた指が、曲に合わせてリズミカルに動く。軽やかなリズムと力強い声。
しばらく眺めた後、一典は慎重にドアを閉めた。ドアの横の壁にもたれて立つ。背後では新たな歌が流れ始めた。目線の先では、空が赤くなり始めていた。
その出会いから、一典はたびたび彼女の歌を追うようになった。帰りに教室をのぞくと、いつ行っても同じ場所で歌っていた。一典は毎日行くわけではない。にも関わらずいるということは、たぶんいつも放課後に歌っているのだろう。
だが調べた限り、バンドを組んでいる様子もなく、彼女が歌っていることは知られていないようだ。そうでなければ、なにかしら話題になっているはずだ。それに値する歌声だと一典は感じていた。
木野 茜。
それが彼女の名前だとわかるまで、それほど時間はかからなかった。
六組の知り合いに聞いてみると、「ああ、木野かあ」と教えてくれた。
曰く、美人だが愛想がない、授業中は大抵寝ている、いつも一人で、親しい友人がいる気配がない。授業が終わるや否や、すぐに教室から出て行く。
彼女がどうかしたかといぶかしむ知人には、適当な理由をつけてごまかした。
一典は小さく安堵する。
(なら、やっぱりあの子が歌ってることは知られてない)
知ってほしいが、知ってほしくない。
矛盾する感情を持ちながら、今日も二年六組に向かった。
そんな彼女と接点ができたのは、一ヶ月後のことだ。
その日も一典は、部活帰りに二年六組に向かっていた。彼女がいることを期待し、廊下を歩いていると、耳になじんだ声が聞こえた。うきうきした気分で教室のドア付近の壁に寄りかかった。
けれど、いつもドア越しなことが不満だった。表に出てどこかで歌ってくれれば、自然な歌を聞くことができる。彼女も気を遣っているのか、音量を抑えている雰囲気だ。
(人前で歌ってくれないかな)
閉ざされたドアをじっと見ながら、一典は思う。そうなった時の皆の反応も見てみたかった。
歌が途切れた。次の曲が始まるのを待っていると、小さな物音がした。すぐ横のドアが勢いよく開いた。
茜がいた。ヘッドフォンははずれていて、鞄を持って今帰るところのようだった。
一典はふいうちに対応できず、固まる。茜は意外そうに目をまたたかせた。
「……なに? この教室に何か用?」
発せられた声は、歌っているどの声とも違った。けだるげな印象はなく、普通の、少し低めの女子の声だ。答えられない一典を無表情で眺めている。
「私は出るから、ごゆっくり」
一典とすれ違い、そのまま歩き出した。
「あっあのさっ」
思わず呼び止めると、茜が立ち止まって振り返った。大きな丸い目がまっすぐに一典を見た。
「明日も、歌う?」
「……だったら何なの?」
そっけなく茜が言うのに、一典はひるむ。むりやり言葉をしぼりだした。
「あの、また聞きにきてもいいかな。僕、木野さんの歌のファンなんだよね」
自然とこぼれた言葉は、我ながら真理だと一典は思った。
言われた茜は、喜ぶでもなくじっと一典を見た後、「いいよ。別に」と相変わらずの表情で言った。
その時のことを思い出し、一典は感激がよみがえる。無意識に笑みがこぼれた。
がらんとした教室に歌が流れている。その中で、一典は参考書を開いていた。
今教室には一典と茜しかいない。二人は対角線状で遠い位置にいた。
茜は定位置、窓際後から二番目。一典は廊下側前から二番目に座っている。
当初は、一典が適当な場所に陣取って聞いていたのだが、お互いになんとなく落ち着かないということで、現在の状況になった。
また曲調が変わった。今度は一典も知っている。昭和歌謡と呼ばれるたぐいのものだった。顔をあげて茜を見ると、楽しげな横顔が見えた。
(木野さんは、満足してるのかな)
教室内で聞くようになり、一典は最初こそ喜んでいたが、徐々に不満を感じるようになった。
茜は本気で歌っていない。鼻歌のように、流れのままに歌うだけで、聞かせようという気が感じられない。
それを不満に思うのは、一典の勝手な思いだ。本人はただ歌うだけ。
(でも、それじゃ、もったいない)
だからこそ、一典は行動に移すことにした。