月に吠えろ 4
――きて
誰かが泣いている声が聞こえた。
でも誰だ? 何かすっげえ聞き覚えがあるような気がすんだけど。
――なさい、ごめんなさい
何で謝ってるんだ? なあ、一体何があったんだ?
――お願い。何でもするから、だから
「目を開けて、真神くん!」
目が覚めると、目の前に日野の顔があった。
なんでか知らねえが泣いてたみたいで、目が真っ赤で。
「よかったぁ! 君が目を覚まさなかったらって、私……怖かった」
そう言うと日野は俺の腹に突っ伏して、子供みたいにわんわん泣き出した。
え、俺か? 俺のせいなのか!? つか、どうすりゃいんだよ、この状況!
「お、おい。日野? なあ、一体どうしたんだよ。もしかして俺、お前になんかした……のか?」
日野は泣いてるせいか言ってることが支離滅裂で、全く要領を得ない。ただ「ごめんなさい」ってのをひたすら繰り返してる。
そもそも何を謝られてるんだかがわかんねぇ。俺、女に泣きながら謝られるようなことされたのか?
「ちょっと落ち着け、日野。……すまん、いったん状況を整理させてくれ」
「うん。ごめん、迷惑、かけちゃって」
鼻声でまだ時々しゃくりあげてはいたが、なんとか泣きやんでくれた。
正直助かった。実はさっきから、なぜか日野の泣き顔を見てると微妙にムラムラしてきて困ってたんだよ。こんな時に不謹慎かもしれねえけど、反応しちまうもんは仕方ねえ。が、自分が女の泣き顔に欲情する変態だったなんて、できれば知りたくなかった。
ふと、よぎったのは違和感。
何かおかしい。俺は何か、大切なことを忘れてやしねえか?
急に黙り込んだ俺に不安になったのか、日野は恐る恐るという風に声をかけてきた。
「どうしたの? もしかして、まだ痛い?」
「ああ、いや……って、ああ!!」
急に大声で叫んだ俺にびっくりしたのか、日野は座ったまま飛び上がった。器用だな。
って、今はそれどころじゃないんだよ。わかった、さっきの違和感の正体が。
「喋れてんじゃねえか、俺!」
改めて自分の体を確認してみる。
そこにあったのは、十七年間毎日見てきた俺の体だった。ありえないほどの剛毛も生えてない、爪も伸びてない、普通の人間の手足。鏡がないからわかんねえけど、触ってみた感じじゃ顔も戻ってるっぽい。少なくとも、あの顔面を埋め尽くしてた毛はなかった。いちおう日野にも確認してみる。
「日野。俺、人間……だよな?」
「え、あぁ、うん。そうだね、人間だね」
日野に確認を取り、俺はガッツポーズを決める。
なんだかわかんねえけど戻れた。てことは、後は日野だけだ。
覚悟を決めて日野を見ると、丁度目が合った。どうやら向こうも俺に話があるらしい。俺は日野の正面に腰を下ろすと、早速本題を切り出した。
※ ※ ※ ※ ※
端的に言うと、日野の話はかなり荒唐無稽だった。
普通だったらとても信じられない、ありえない話だ。今夜の経験がなかったら、俺は絶対信じてなかった。それくらい、ありえない話だった。
日野苑眞は吸血鬼。
いや、正確には吸血鬼の末裔。日野は力を失くした一族の中で、一人だけ運悪く先祖返りとなってしまったらしい。普段はほとんど人間と変わらないが、満月の日だけは――特に夜は吸血鬼の性質が強く出てしまい、力が制御できなくなってしまう。そうやって暴走したのが、金色の目をしたもう一人の日野。
「本当にごめんなさい。いつもは何とかやり過ごせてたんだけど……。今回は真神くんの魔力に酔っちゃったみたいで、全然制御できなくなっちゃったの」
「いや、俺の方こそ助かったよ。あんな姿のまま戻れなくなってたら、シャレになんなかったからな」
そう。俺をあの化け物の姿から戻してくれたのは、日野だった。
日野が言うには、どうやら俺は狼男ってやつらしい。自分でも未だに信じらんねえけど、実際見ちまったし経験しちまったからな。信じるしかねえだろ。とりあえず家帰ったら母さん問い詰めてやる。あいつ、絶対なんか知ってんだろ。
そんで何でか知らんが今夜、俺は狼男として覚醒しちまった。で、そん時俺から出た魔力ってやつに引き寄せられた日野が俺を襲った、と。でも、日野が血と一緒に俺の魔力を吸ってくれたおかげで俺は元に戻れたんだから、日野様様だ。
「あの、こんなことしておいて図々しいと言われるのは承知でお願いするんだけど……」
日野はもじもじと何か言いにくそうにしている。一体何を言おうとしてるんだ?
しばらく口を開いたり閉じたりを繰り返していたかと思うと、いきなり土下座してきた。
「お願いします! どうか真神くんの血を、定期的に吸わせてください!!」
「はぁ!? って、ちょっ、やめろって! いいからとりあえず顔上げろ、顔」
「お願いします! 私、もう真神くん以外、無理なの!!」
な、なんつーこと言うんだ、こいつは。これじゃまるで、告白されてるみてえじゃねえか。
やっべ、なんかすっげぇドキドキしてきた。
「わかった、わかったから。俺の血でいいならやるから、だから――」
俺の返事を聞いた瞬間、日野はめちゃくちゃ嬉しそうな顔で「ありがとう」と何度も言いながら俺の手をぶんぶんと振り回した。
「でもよ、何で俺以外は無理なんだ?」
「私はね、血を吸うっていうより魔力を吸ってるの。でも普通の人間は魔力なんてほとんど持ってないから、私の吸血衝動はなかなか満たせない。もしも完全に抑えるんだとしたら、それこそ何人も襲わなきゃならない。でも真神くんなら、一噛みでお腹いっぱいになれるの」
少しでも期待して聞いた俺が馬鹿だった。だよな。こんな子が俺に惚れたとかいう理由はねえよな。でもまあ、他のヤツの血を吸うって言われるよりゃましか。……って、何だ? これじゃまるで――――
「というわけでお世話になります。これからよろしくね、真神くん」
「伊織でいいよ。よろしくな、日野」
「じゃあ私も苑眞でいいよ」
そう言って笑うと、苑眞は親愛の証として手を差し出してきた。だから今は、俺も親愛を込めてその手を握り返す。
今はそれでいい。
俺もまだよくわかんねえから。
でもいつか、もしこの気持ちがもっと確かなものになったら――
「おう。これからよろしくな、苑眞」
そん時は、追って、追って、追いつめて。
隙を見せたら飛びついて。
「伊織……何かよからぬこと企んでない? 今、すっごい悪そうな顔してるよ」
「うるせえ。凶悪なツラは元々だっつーの」
不審げに俺を見上げてくる苑眞。そんな彼女に、俺は意地悪くにやりと笑う。
満月の下、握手を交わす俺たちは、まだ友達とも言いきれないようなあやふやな関係。
「変なこと考えてたらブッ飛ばすからね。私の力、知ってるでしょ?」
「へいへい。気ぃつけるよ」
でも、先に捕らえたのはお前の方なんだからな。
「んじゃ、帰るとすっか。送ってってやるから家教えろ」
「ノーサンキューです。この狼さん、なんか危なそうだから」
こうやってじゃれあいながら歩くのも悪かないけど、
「そうか、残念だな。俺、次の満月には献血行ってくる」
「いいですよーだ。私が吸うのは魔力だもん! ……ま、でも仕方ないから、送らせてあげる。ただ、送り狼にはならないでよ」
「なるか、バーカ」
「バカって言った方がバカなんですー」
俺は欲張りだから、もっといろんなお前を見てみたい。
知って、触れて、いつか――
その後、女の子を背中に乗せた大きな犬が、満月の夜に度々目撃されるようになったとか。