月に吠えろ 3
「辛気臭いわよ、伊織。あんたねぇ、ため息つくのかごはん食べるのか、どっちかにしてちょうだいよ」
向かいに座っている母親は鼻風邪をひいたらしく、さっきから派手に鼻をかんでいる。そしてその合間に、鬱陶しそうな目で俺を見ていた。どうやら自分でも気づかないうちに、何回もため息をついていたらしい。
でもよ、しかたねえじゃねえか。日野の顔が頭ん中よぎるたび、なんかこうもやもやして、自分でも気づかねえうちにため息ついちまうんだからよ。
「悪ぃ。飯、もういいや」
「え!? だってあんた、まだどんぶり三杯しか食べてないじゃないの。どうしたの? バカのくせにあたしの風邪うつっちゃったの?」
「うるせえな! 俺だって食欲ない時くらいあんだよ。んじゃ、ごちそうさん」
驚く母親を食卓に残し、俺はさっさと食器を流しに置いて部屋に戻った。
部屋に戻り、そのままベッドに倒れこむ。
目を閉じると浮かんでくるのは、最後に見た泣きそうな日野の顔。
やばい。何かよくわかんねえけど、すっげーイライラする。イライラ? そわそわ? なんつーか、とにかく落ち着かねえ。しかも気にしないようにすればするほど、より鮮明にあいつの顔が浮かんでくる。
結局じっとしていられなくなって、俺はのろのろと起き上がるとベッドに腰かけなおした。ふと顔を上げれば窓の向こう、すっかり暗くなった空には満月が浮かんでいた。
「――ぅあ!?」
瞬間、心臓が大きく跳ねあがった。
わけのわかんねえ衝動が湧き上がってくる。どうしていいかわからなくて、かきむしるように胸を抑えてベッドに倒れ込むが、謎の動悸も衝動も、治まるどころかどんどん激しくなっていく。
息が出来ない。体が燃えるみてぇに熱くて、しかもめちゃくちゃ痛ぇ。骨が引き伸ばされてるような縮められてるような、ぎしぎし軋む感触が気持ちわりぃ!!
熱い、痛い……心臓が、破裂しそうだ!!
やっべぇ、これ。俺、死ぬかも?
生命の危機を感じた俺は、下にいる母親に助けを求め、ありったけの叫びをあげた。
「アォーーーン」
…………は?
って、何で俺の部屋の中から犬の遠吠えが!? いや、待て待て待て! その前に今、俺は母さんを呼んだはずだ。何でその俺の声がしなくて、いないはずの犬の遠吠えが聞こえんだ!?
ベッドから跳ね起きて、俺は慌てて部屋の中を見た。
でも犬なんていねえ。いるわけねえんだよ。じゃあ、今の犬の声はどっから聞こえたんだ? そもそも、この部屋には俺しかいない…………俺、しか。
そんな馬鹿なって思いながらも、俺は恐る恐る自分の手を見た。
「ガウォ!?」
そこにあったのは明らかに人間じゃねぇ、毛むくじゃらの手だった。俺はその変わり果てた手で、恐る恐る自分の顔を触ってみた。
嘘だろ、おい……
感じたのは、ありえないごわごわとした感触。最初は手の方のもさもさ感かとも思ったが、そっちとはあきらかに感触が全然違う。それは、俺が俺じゃないナニかになっているという、絶対に認めたくない事実を突きつけてきた。
立ち上がり、窓を見る。するとそこに映っていた姿は、まるで――――
オオカミ……おと、こ?
その姿は、フィクションではお馴染みのモンスター――狼男――だった。
シベリアンハスキーみてぇな顔、茶色っつーか黄色っぽい毛に覆われた筋肉質な腕や足、指先には鋭い爪。しかもさっきからケツの辺りがもぞもぞするんで手を突っ込んでみたら、ご丁寧に尻尾まで出てきやがった!
って、どうすりゃいいんだよ、コレ!!
自分の身に起きたありえない出来事に一人混乱していると、いきなり部屋のドアが開いた。
「伊織! あんたさっきから何一人でバタバタ騒いで……ん、の!?」
勢いよく怒鳴りこんできたのは、さっきまで下に居たはずの母親だった。
ババア、俺の部屋に入る時はノックしろっていつも言ってんだろうが! って、今はそんな場合じゃねえ。やべぇ。どうすりゃいいんだ、この最悪な状況。
「ちょっ、あんた……」
母さんが何か言いかけていたが、俺はその先の言葉を聞くのが怖くて。気がついた時には、思いきり窓から飛び出していた。ここ、二階だったけどな。
てっきり庭に落ちるんだと思ってた俺の体は、なぜか空を飛んでいた。
いや、正確には跳んでいた、か。二階の自分の部屋から飛び出した俺は下に落ちることなく、道を挟んだ向かいの家の屋根まで跳んでいた。信じらんねえ……こんなの、人間の跳躍力じゃねえ。
とりあえず俺は母さんから逃げるように、近所の家の屋根の上を駆け抜けていった。この先どうすりゃいいのかわからなくて、ただめちゃくちゃに。
そして気がついた時には、俺は学校の屋上にいた。
なんで、こんなことに……
空に浮かぶ満月を見上げながら、俺はあらん限りの声をあげる。
なのに響き渡るのは、物悲しい遠吠えだけ。どんなに喋りたくても、もう俺の口からは人の言葉が出てくることはないのかもしれない。
って、一体どうすりゃいいんだよ! もしこの先、ずっとこのままの姿なんてことになっちまったら……
脳裏をよぎった恐ろしい可能性を振り払うように頭を振って、俺は再び夜空を見上げた。
どうにかして人間の姿に戻らなきゃならない。でもどうやって? この姿になった原因さえわかんねえのに。一体何があって、どんな理由で俺はこんな姿になっちまったんだ?
今朝までは普通だった。ほんとになんの変哲もない、いつも通りの朝だった。じゃあ何だ? 変わったことってぇと…………
――日野 苑眞。
あいつと関わりを持ったこと。
確かに昼休みからは、いつもとはかけ離れた時間だった。あいつと知り合った途端、次々とありえないことが起きて。そのせいなのか常に気持ちが落ち着かねえしで、本当に散々だった。もしかしてこうなった原因の一端は、日野に関係あるんじゃねえか? それにあいつ、最後なんか変なこと言ってたしな。
日野に会う。
とりあえずの目的は決まったものの、問題はどうやってそれを決行するかだ。まず、俺はあいつの家を知らねえ。それにこの姿で行ったって会話できねえし、第一逃げられるだろ。悲鳴でもあげられて、人なんて呼ばれたら最悪だ。くそっ、本気でどうすりゃいいんだよ!
誰もいない学校の屋上で、俺は一人頭を抱えていた。
ひたすら屋上のコンクリ床を見つめていた俺の灰色一色の視界に、すっと差し込んできたのは黒い影。反射的に上げた俺の目に飛び込んできたのは、さっきまで誰もいなかった場所にたたずむ小柄なシルエット。
月明かりを背に受け、俺を見つめるその影は……今まさに、俺が会いたいと願っていた人物だった。
「が……」
そうだった。俺、今喋れねぇんだった。どうする? あ、筆談なら……って、書くもんがねぇ! どうしようもねえ!!
「やっぱり」
焦る俺とは対照的に、目の前に立つ影――日野は笑みを浮かべていた。
パステルカラーのもこもことしたパーカーと短パンからのぞくのは、すらりとした健康的な脚。これは……正直、目のやり場に困る。
でも、何でこんな時間、こんな場所に日野が居るんだ? しかもこいつ、これ、明らかに部屋着だろ。靴も履いてねえし。そもそもさっきまでここには、俺しかいなかったはずだ。
それに……こんな化け物を前にして、怯えるどころか笑ってるって、ちょっとどころじゃなくおかしくねえか?
「ねえ。何であの時、素直に教えてくれなかったの?」
日野は意味のわかんねえことを呟きながら、ゆっくりと近づいてきた。この雰囲気、保健室の時の日野と同じ。そう思った瞬間、俺の背中を悪寒がものすごい勢いで走り抜けた。
気づくと俺の体はいつの間にか身構えるような体勢になってて、口からは低いうなり声が漏れていた。
「警戒しちゃって……ふふ、かーわいい。大丈夫、怖くないから。ね?」
日野が一歩近づく。俺は一歩後退る。
でもそのじりじりとした攻防は、あっという間に終わっちまった。
後頭部と背中に痛みを感じた時には、もう押し倒されていた。
あっという間に両腕を押さえつけられ、見上げることしかできない俺の上に――あろうことか日野は乗っかってきやがった! なんとか振りほどこうと何度も身体をよじったが、あいつの細い腕は微動だにしなくて。
自分よりはるかに華奢で小さな相手に手も足も出ず、俺は今、人生初の敗北の危機に瀕していた。俺が焦れば焦るほど、日野は楽しそうにくすくすと笑う。
「無駄だよ。今の真神くんじゃ、私には勝てない」
ムカつくほど余裕じゃねえか。
化け物の俺を見ても驚かねえわ、信じらんねえ怪力ふるうわ。しかもこの性格の変わりよう……もしかしてこいつ、二重人格ってやつなのか?
そんな俺の心を読んだかのように、「私のことが気になる?」と日野は微笑むと、ちょこんと首をかしげた。
「いいよ、特別。君だから教えてあげる。そのかわり――」
日野は言葉の途中で急に身体を強張らせると、胸を抑えて苦しみ始めた。
今こそ逃げるチャンス。そう思ったのに、なんでか俺は動けなかった。
目の前で苦しんでる女を放っておけないから? いや、違う。日野だから放っておけなかったんだ。なんかわかんねえけど、俺はこいつが苦しむのが嫌だって思ったんだ。
でも、どうしたら日野を助けられるかなんてわかんなくて、俺は背中をさすってやるくらいしかできない。
どうしたら日野を助けられるか、そればかり考えてたせいで、気づくのが遅れた。唐突に視界がぐるりと回ると、俺は再び押し倒されていた。
「もうだめ……我慢、できない」
ぷるんと柔らかそうな唇から切な気に零れ落ちる熱い吐息。長い睫毛に縁取られた大きな琥珀色の瞳は今は金色に輝き、ふっくらとした頬は上気して薄桃色に染まっている。
煌々と輝く満月を背にした彼女はとても蠱惑的で、そして絶対的だった。俺は蛇に睨まれた蛙のように身動き一つできず、ゆっくりと近づいてくる彼女の美しい顔をただぼうっと眺めていた。
色素の薄い、瞳と同じ琥珀色の柔らかな髪が俺の顔を撫でてゆく。シャンプーの香りだろうか、甘い匂いが鼻孔をくすぐった。
そして耳元に、蜂蜜のようなとろりとした甘い囁きが流し込まれる。
「ちょうだい、あなたの全部を」
次の瞬間、首筋に痛みがはしった。けど、痛いのは一瞬。それはたいしたことなかったんだが……次がヤバかった!
なんだこれ!? やっべぇ、脳みそとける。こんなん、気持ちよすぎてヤバすぎる!!
本当にヤバい。体中の血が下半身の一か所に集結しつつあり、このままだと非っ常にまずいことになる。ここで日野が正気に戻ったら、今度は平手打ちなんかじゃ済まないかもしれねえ。もう、二度と口きいてもらえねえかも。あー、なんかよくわかんねえけど、それは嫌だ!
ああ、でも気持ち良すぎて……なんかもう、なんも考えたくなくなってきた。ヤベェ、これ以上もたねえ…………
いよいよ俺の理性が溶けてなくなりそうになったその時、ようやく日野が首から離れた。同時にあのバカみてぇな気持ちよさは消えて、代わりにアホみたいな倦怠感が襲ってきた。
疲れて果てて指一本動かせない俺に、血みてえな真っ赤な目になった日野が舌なめずりしながら顔を近づけてきた。そして一言、
「ごちそうさま」
やたら色っぽい囁きのすぐ後、俺の頬に何か柔らかいものが触れた。そのまま悪戯っぽく微笑むと、金色の目のもう一人の日野は、「またね」と言い残して消えてしまった。
後に残されたのは、俺の腰にまたがったまま放心している、いつもの小動物のような方の日野。
今、俺は新たなピンチを迎えていた。
誰もいない夜の学校の屋上で美少女と二人きり、しかも相手は俺の腰に馬乗りって……何の試練だよ! ヤバい、ヤバいヤバいヤバい!! なんか温けぇし柔いしいい匂いするし。しかもさっきのアレの名残か、疲れてるはずなのに一か所だけ元気になりそうなんだが!?
これは、どかしていいんだろうか? いいよな? てか、いいに決まってる。別にヤラシイ気持ちとかで触るわけじゃないからな。あくまでもどけるために、ちょっと触るだけだからな。
俺は心の中で一人、誰に向かってかわからない言い訳を並べながら、恐る恐る日野に手を伸ばした。本当は一言、「どいてくれ」って言えれば一番手っとり早かったんだけどな。
そうっと伸ばした俺の手が華奢な肩に触れた瞬間、彼女の琥珀色の瞳に生気が戻った。
「ご、ごごご、ごめんなさい!!」
「がっ!?」
勢いよく下げられた日野の頭は、ゴスッという鈍い音と共に俺の顔面を直撃した。
あまりの痛さに俺はおもわず鼻を押さえ悶える。しかし当然、日野にもそれなりのダメージがあったらしく、ぶつかった衝撃でのけぞりそうになった身体を片手をついて支えたらしい。しかしそれは、俺の新たなるピンチの始まりだった。
「いったぁ……って、え?」
そう。その手をついた場所が、最悪の場所だったわけで。
しかも間の悪いことに、そこはさっき予想外の刺激を受けたせいで……その、ちょっと活動的になっていて。
日野の顔が、見る見るうちに赤くなってく。そして日野はそうっと振り返ると、自分が手を置いた場所を……見た。
「あ……や、いやぁぁぁぁ!!」
日野の絶叫と共に、俺の頬に凄まじい衝撃が襲い掛かった。
あーあ、やっと少し腫れが引いてきたってのに。こりゃ、また腫れるな。
ぐらぐらと揺れる脳みそでそんなことを考えながら、俺は意識を手放した。