月に吠えろ 2
結局あの後、日野は盛大な悲鳴と平手打ちをかまして、半泣きで飛び出していった。
いやいや、泣きたいのは俺の方だ。これ、絶対にろくでもない噂が流れるやつだろ。で、俺の恥ずかしい二つ名は、さらに恥ずかしい名前にレベルアップするかもしれない。
「学校の中で堂々とエロいことしようとするなんて……お母さん、そんな子に育てた覚えありません!」
「うるせえ黙れバカ信。誰がお母さんだ。俺はお前に育てられた憶えなんざ微塵もねえ」
茶化してくる忠信を睨みつけてやったが、やつはそんな俺の視線なんぞ気にとめることもなく好き勝手喋り続ける。
「しっかし、意外だったなぁ。大人しそうに見えて、日野さんって本当はあんな肉食系だったんだ。まさか千疋高の狂犬を襲う女の子がいるなんて思わんかった。いやいや、本当いいもん見せてもらったよ。顔真っ赤にして壁ドンされてる伊織を見られるなん――イテッ」
ぺらぺらとうるさい忠信の頭を軽くはたくと、真っ赤な手形がついた左頬をさする。
しっかし、どうしてくれんだよ、これ。こんな顔で教室なんて、戻れるわけねえだろうが。ほんっと、何だったんだよ、あの怪力女。意味わかんねえ。
さっきまでの嵐のみてえな一連の出来事を改めて思い起こしてみると、段々と腹が立ってきた。だってよこれ、俺、完全に被害者じゃねえか。
壁にかかっている時計を見ると、もう五時間目がとっくに始まっている時間だった。
今更授業に出る気にもなれず、とりあえずベッドの上で胡坐をかく。不機嫌丸出しで頬杖をつく俺の前で、忠信はまた軽口をたたき始めた。
「でさぁ、結局のとこどうなのよ。さっきの雰囲気だと、日野ちゃんとちゅーくらいはしたの?」
忠信のアホみたいな質問に思いっきり動揺した俺の声は、我ながら悲しいくらい裏返っていた。
「するわけねえだろうが! だいたいなぁ、あの女とは今日初めて話したんだぞ。いきなりそんなことするかっつーの」
「だよねぇ。伊織ってばそんな野獣みたいな見た目してるくせに、中身は夢見る乙女顔負けの純情奥手さんだもんな。むこうはがっつり肉食系だったみたいだけど」
「うるせえよ!! ほんとムカつくな、お前」
ベッド脇のパイプ椅子に座っていた忠信の頭を抱え込むと、頭のてっぺんを拳でごりごりと圧迫してやった。ヤツはそれに大げさな悲鳴をあげ、「ギブアップ」とか叫んでいたが無視してやり、俺は自分の気のすむまでヤツに制裁を与えてやった。
しばらくして解放してやると、忠信は頭をさすりながら涙目で恨みがましくねめつけてきやがった。自業自得だっつうの。
「あのなぁ、俺の繊細な頭が壊れたらどうしてくれんだよ。って、まあいいや。でもさぁ、あんだけ熱烈に迫ってきたくらいなんだから、やっぱあの子、お前のこと好きなんじゃね?」
何が何でも日野俺好き説を推してくる忠信に、俺はため息を吐き出した後、頭を抱えた。
好き? 学校一の美少女と名高い日野が、この俺を?
女に逃げられ避けられ泣かれることはあっても、好意を向けられたことなんて一度もない。そもそも今までの人生で女となんて会話さえろくにしたことねえのに、いきなりそんなこと言われて信じられるかっての。
そもそも本人の口から好きとか、そういう言葉聞いてねえしな。我慢できないって言われただけだ。
そういやあの時、日野は俺の何に我慢ならなかったんだ? いや、その前に何か話したいことがあるって言ってたような……
「さっぱりわかんねえ」
そんな俺の呟きを耳聡く拾い上げた忠信は、「だから俺が聞いてやろうとしたのに」と文句を言ってきやがった。だから余計なことすんなっての。
「いいか、伊織。あんな趣味悪……じゃなくて、ストライクゾーンがずれた子逃したら、お前この先一生彼女なんてできないかもしれないんだぞ」
「一般のストライクゾーンから外れてて悪かったな。あと俺に彼女が出来ないかどうかなんてわかんねえだろうが。お前、本当にムカつくな」
「俺は嘘がつけないだけなの。そもそも目が合っただけで女子供に逃げられるような凶暴なツラなんだから、出来る可能性の方が圧倒的に少ないだろうが。とにかく! 放課後、今度こそ日野ちゃん捕まえるぞ」
こうなった忠信はもはや何を言っても聞かない。しばらく時間をおかねえと、今は何を言っても無駄だろう。もうどうにでもなれって感じで、俺は盛大にため息を吐き出した。
※ ※ ※ ※ ※
そして五時間目も終わる頃、やっと保健の先生が戻ってきた。
なんでも腹を壊してトイレにこもっていたらしい。緊急事態だったらしく、戻ってくるなり平謝りしてきた。そのあまりの平身低頭ぶりにいたたまれなくなり、頬の手当てをしてもらう前に保健室から逃げ出してきてしまった。
そして今――
教室に戻った俺の顔には、ちらちらと窺うような視線が教室のあちらこちらから投げかけられていた。
昼休みに学校一の強面男が学校一の美少女にいきなり絡んだかと思えば、なぜか鼻血を出しながらその美少女にお姫様抱っこされ保健室に運ばれ、挙句頬を腫らせて教室に戻ってきた。
そりゃ、気にすんなって方が無理だろう。だからクラスの奴らの気持ちもわからんでもないが……正直うぜぇ。果てしなくうぜぇ。
なんで、とりあえずホームルームが終わると同時に俺は教室を飛び出した。
きっと今頃、クラスの奴らは好き勝手に囀っているだろう。まあ、今更俺の評判なんかどうでもいいけどな。ただ、日野には悪ぃことしちまったとは思う。そもそも俺たちが関わんなきゃ、変な噂がたつこともなかったんだからな。
「伊織! 日野さん、どこで待ち伏せしようか?」
俺の後ろを意気揚々とついてきた忠信は、俺の隣に並ぶと、目をキラキラさせて話しかけてきた。そんな生き生きとした悪友の姿に、俺の口からはまたもや深いため息が。
「忠信。もうこれ以上、日野に関わるのはやめよう。ただでさえ日野は、あの見た目のせいで注目浴びやすいんだ。ここでまた俺が顔出したら、おさまる噂もおさまんなくなる」
「えー、でもさぁ」
不満気な忠信の言葉に被せるように「頼む」と一言えば、ヤツは少し困ったような顔をしてから「……わかった」と了承してくれた。なんだかんだでこいつは、俺の本気の頼みは断らない。基本的には、ものすごくいいヤツなんだよな。
俺は、日野のことを傷つけたくなかった。
同病相憐れむって言ったらあいつに失礼かもしれないが、たぶんそんな感じだと思う。俺もあいつも、望むと望まざるとにかかわらず、常に人から注目を浴びるタイプの人間だ。
だから噂されるのには慣れてる。でもだからって、それに傷つかないわけじゃない。俺たちにだって心はある。ただ慣れて、我慢して、やり過ごしているだけだ。
そんなことを考えながら歩いていたら、小さな影が突然俺たちの前に立ち塞がった。
「君と……その、ふ、二人きりで…………話したいことがあるの!」
ここは校門だ。当然周りには大勢の帰宅途中の生徒がいた。
そんな中で大声でそんなことを言えば、注目されるに決まっている。俺は思わず頭を抱えてしゃがみこんだ。
俺のさっきまでの気遣いは一体何だったんだよ! これじゃ一人で勝手にシンパシー感じてた俺が、バカみてえじゃねえか!!
目の前で不思議そうな顔をして立っている日野は、周囲の大勢の視線にさらされながらも、それらを全く気した様子がない。こいつ、心臓に毛でも生えてんじゃねえか?
ぽんっと、誰かの手が肩に置かれた。見上げれば、そこには満面の笑みの忠信。
「グッドラック」
それだけ言い残すとヤツは俺の制止の声も聞かず、颯爽と去っていった。そして残ったのは、目の前でもじもじする日野と、興味津々の野次馬。
突き刺さる視線にいたたまれなくなった俺は勢いよく立ちあがると、そのまま日野の手を掴んで逃げるように学校を後にした。
しばらく歩いたところで、後ろから「あっ」という小さな声が聞こえた。振り向くと、まさに日野が転ぶ瞬間。
「危ねぇ!!」
俺はとっさに掴んでいた彼女の手を思いきり引っ張り上げた。だから、間一髪で日野が転ぶのは防げた。防げたんだが……
今、俺の目の前には、ぽかんとした日野の顔がある。
普通ならありえない。百九十ある俺に対して、日野は精々が百六十ってとこだ。だから視線が同じ高さになるなんてこと、相手が台に乗っているとかじゃなきゃありえねぇんだ。なのに今、俺と日野の視線は同じ高さにある。
「えーと……下ろしてくれると、嬉しいんだけどな」
日野は困ったような笑みを浮かべていた。
慌てた俺が勢いよく腕を上げちまったせいで、彼女は宙吊り状態になっていた。片腕を掴まれたまま困ったように笑う彼女を見て、俺はようやく我に返る。大慌てで彼女をを下ろすと、掴んでいた手を離した。
「わ、悪い! 腕、大丈夫か?」
苦笑いしながら手首をさする日野に、俺は勢いよく九十度に腰を折って謝罪した。
「悪かった。力加減も考えねえで……」
「えっと、私は大丈夫だから。ねっ、だから顔、上げて」
後頭部に日野の焦ったような声が降り注ぐ。だが俺は自分の馬鹿さ加減が許せなくて、顔を上げることができなかった。悪気がなかったからって、世の中全てが許されるわけじゃねえ。
「あのね、私、こう見えてもかなり丈夫なんだよ。それに今のは、私を助けようとしてくれただけでしょ? 私が転ばなかったのは、君のおかげだよ。ね、だから顔上げて。それにね……」
日野はなんでか、困ったように言葉を詰まらせた。
「このままだと私たちね、いつまでも注目の的のままだよ」
日野に言われ辺りを見渡すと、今まで俺たちを見ていたであろう野次馬が、俺の顔を見て一斉に目をそらす。そして、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「ね? とりあえずさ、どっかお店にでも入ろうよ」
「あ、ああ。でもよ、本当に手ぇ大丈夫なのか? 俺、さっき結構強く握っちまったから……。なぁ、ほんとに無理とかすんなよ。なんなら今から病院行くか?」
心配する俺をよそに、日野は何がおかしいのかくすくすと笑いだした。
「本当に大丈夫だって。君、見かけによらず優しいよね。……それにさ、私もさっき、君のこと叩いちゃったから。ごめんね、いきなり叩いたりなんかして」
「あ、いや……その、別に気にしちゃいねえよ。もう何ともねえしな」
実際はまだちょっと痛かったが、まさかこの状況でそんなカッコ悪いこと言えるわけねえしな。でもそんな俺のやせ我慢はバレバレだったのか、日野は「ありがとう」と俺に笑いかけてきた。
瞬間――俺の心臓は、今まで経験したこともねぇような衝撃に襲われた。しかもいきなり不整脈を刻み始めやがって、ただ一言、「おう」と答えるのが精一杯な始末。情けねえ!
「そういえば、自己紹介まだだったよね? 私は日野、日野苑眞。君――、えっと、いつまでも君じゃなんだから、名前、教えてくれると嬉しいな」
※ ※ ※ ※ ※
それから俺たちは簡単に自己紹介して、とりあえず近くにあったコーヒーショップに入ることにした。店に入った瞬間、店内の客は俺を見て顔を引きつらせた。と、ここまではまあ、いつも通りだった。
ただ、今日は隣に日野がいた。たったそれだけのことだったのに……
あれだけ俺に注がれていた視線が、一瞬で全部日野に持ってかれた。男女問わず、あっという間に魅了していく。その様は、ちょっと怖いくらいだった。
無数の視線の中、日野はなんのためらいもなく俺に話しかける。けど、日野が俺に笑いかけるたび、周りからちくちくとした敵意のようなものが飛んできて。
もしかしてこれ、嫉妬ってやつか? そう思ったら、なんかちょっとした優越感がわいてきた。
飲み物を受け取って、俺たちは空いている席に座った。
相変わらず周りからは窺うような視線がちらちらと投げかけられていたが、日野は全く気にしてない。そんな落ち着かない雰囲気の中、彼女は突然変なことを言いだした。
「真神くん。君さ……吸血鬼とか狼男とか、いわゆる怪物の存在って、信じる?」
俺には日野の質問の意図が掴めなかったが、とりあえず正直に首を振った。
この世に化け物がいるのを信じてるかってことだろ? そんなもん、普通は信じねえだろ。いるって答えんなら、そいつはとんでもないロマンチストだと思う。
日野はそんな俺の答えにひどく落胆した様子を見せると、しょんぼりとうつむいてしまった。けど、しばらくしたらまた顔を上げて、「絶対内緒にするから、正直に言って」と迫ってきた。
「いや、だから……日野が俺に何を求めてんのか知んねえけど、俺は化け物の存在なんて信じちゃいねえし」
「でも真神くん、君は…………」
日野は何かを言いかけたが、途中で口を閉ざしちまった。なんでか、今にも泣きだしそうな顔で。
俺はそんな彼女に何て言えばいいのかわかんなくて、結局その日はその気まずい雰囲気のまま別れることになった。