多重人格
これは嘘みたいな嘘で、きっと誰に話しても信じて貰えない話だ。だからただの物語だと思って聞いてほしい。
彼女は心の中にバケモノを飼っている。
「パパ、遊園地見えてきたよ」
ユズは助手席の窓を開けて、身を乗り出す。
「危ないから顔だすなよ」
開けた窓から入ってくる風が肌寒い。外が気になるのか、ユズは窓から外へ目を配らす。空は穏やかだが、所詮は秋の空。いつ降り出してもおかしくない。本当は妻の紗織と行くはずだった遊園地。結局ユズと来るはめになってしまった。平日ガラガラの駐車場に入って、バックで車を停める。ぼったくりの一日パスポートを腕にはめたユズは上機嫌だった。
ジェットコースターが好きなユズと、ジェットコースターが苦手な紗織。その紗織とジェットコースターみたいな恋愛をして、結婚したのは、もう六年も前のこと。授かり婚、若しくはできちゃった婚ってやつだ。子供という存在自体は好きではなかった癖に、生まれた途端に僕の人生観は変わった。家族を持つことの本当の意味を理解したのだ。端的に言えば掌を返した様に我が子にデレた。これが親バカなのだと笑ってやって欲しい。我が子の為なら何度でも死んでも構わないとさえ思った。
「パパ、どうしたの?」
物思いに耽るコーヒーカップ。グルグル回る記憶と世界は走馬灯みたいだった。ブラック無糖な結婚生活を振り返り、ユズに曖昧な笑顔を見せるぼく。
「結婚生活は苦かったかい? すまんね、俺達のせいだね」
ユズの声色と顔つきが急に変化する。慣れっこな僕は「便利屋かい?」と一応聞いてみた。ユズは……便利屋は何も答えないので、肯定と判断してもいいだろう。
便利だから便利屋。彼女の別の人格と言ってしまえば、人には痛々しいと嘲笑われてしまうのだろうか? なんて表現すれば聞こえが良いか、是非誰かに教えて欲しい物だ。
彼だけが彼女の全部を記憶している。
「最近調子はどうだい? 便利屋。エムは出そうかい?」
「安定してるよ」
僕らがエムと呼んでいるのは、モンスターのMだ。
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雨がポツポツ降り出す帰り道の環状線。助手席で寝息をたてていた彼女は、目を覚ます。
「あれ、私、寝てた? 遊園地まだ?」
妻の紗織は今から遊園地に行く気らしい。女心と秋の空、両方同時に変わってしまうとお手上げだ。ユズっていうのは、紗織の幾つかある名前のひとつ。うさん臭いサイトで色々調べたところによると、紗織なような人間は名前を複数もちたがるそうだ。
「そっか、私また解離してたんだね」
うちじゃ、日常会話に解離なんて単語が頻繁に出てくる。便宜上勝手に使っているだけで、余所んちじゃあんまり使わないと思う。残念そうに俯いている紗織を横目で見ながら、辿る家路。
紗織は遊園地を楽しみにしていた。僕との久々のデートを楽しみにしていた。そしてお腹いっぱいに楽しんだ。しかし彼女の記憶は、車を出発させたところで止まっている。遊園地を楽しんだのは紗織ではない。ユズなのだ。
本降りになってきた雨。車のライトが路面に反射して、視界やら現実やらがぼやけてしまう。
外出許可の下りた紗織を病院まで送る時、いつだって僕は子供みたいに泣きわめいてしまいそうになるのを堪える。今日だってそうだ。
「子供に会いたいな」
紗織はポツリと言った。先程も言ったが僕たちには、子供がいる。本当ならば遊園地も家族三人で行きたかったのが本心だ。しかしだ、僕は恐れている。エムの存在を……。モンスターのエム。マザーのエム。
病院に辿り着いた別れ際、僕は泣くのを堪えるが、彼女は泣きわめく。
「パパー、行っちゃやだよー。お願いだよー。お母さんが叩くんだよー」
僕は大人だから堪えるが、ユズは子供だから泣きわめく。毎晩彼女は、見えない『お母さん』に叩かれている。そうしてユズは、幼いころの紗織の身代わりになってきた。
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マチコ……それが紗織の母親の名前だ。僕の義理の母にあたると同時に天敵だ。
『あんたのせいで、うちの娘がおかしくなったのよ』
何度も何度も責められた。ノイローゼになりそうだった。
紗織は僕と結婚するまで、少なくともユズも便利屋も表に出て来ることは、なかったそうだ。だが紗織は毎晩震えていた。虐待された記憶がフラッシュバックすることを僕に打ち明けたのは、結婚前。毎晩紗織の頭を撫でながら眠った。だが紗織は眠らない人だった。眠れない人だった。
それから結婚して、子供が生まれて、グータラな僕は家族のために仕事を頑張れる人間に生まれ変わった。仮に頑張れる彼をエックスと名付けよう。
いっしょに過ごす時間が少なくなって紗織は寂しかったのだと思う。ある日突然、紗織の身体は食べ物を受け付けなくなった。
摂食障害、拒食症。
もっと前から僕は紗織の変化に薄々気付いていた。紗織の出すSOSに気付いていた。だがエックスは気付かなかった。気付こうともしなかった。
最初に病院で診断された病名は『適応障害』、現在の環境に適応できないみたいな感じなのであろうか? ぼくはその時、ろくに調べる事さえしなかった。母親が子供のいる環境に適応できないほど困ることはない。エックスは、そんな紗織を哀れんだ。
薬を貰った。不眠症の紗織に元々処方されていた睡眠薬、精神安定剤に加えて抗精神病薬。
ハルシオン、ロヒプノール、コントミン、セルシン、ドラール、リスパダール、ワイバックス、エビリファイ。
正体不明のカタカナが並ぶ『自殺でもするんですか?』みたいな大量の錠剤の中、あるひとつの薬品と出会ってしまう。その名は『ジプレキサ』。元々統合失調症という精神疾患使用される薬で、その他にも様々な精神的疾患や神経症に使われる副作用の多い薬だ。沢山ある副作用の中に、こんな物がある。簡単に言うと……凄くお腹がへる。
あれ? 紗織ってば、拒食症なわけだから、お腹減った方がいいんじゃない? この時ばかりは、ぼくもエックスも同じ見解だった。
しかし話はそんなに簡単ではないことを知る僕とエックス。紗織の『食べない』は絶対的ルールなのだ。そしてジプレキサのもたらす暴力的な程の空腹感も言わば絶対。絶対の空腹と絶対のルール。食べたい紗織とそれを拒絶する紗織。生まれる矛盾。自分同士の対立。
とある月の綺麗な晩のこと、トイレに起きたぼくは、冷蔵庫の前で加熱前の冷凍肉を食いちらかしている紗織を見付けてしまった。虚ろな目、頬いっぱいに詰め込んだ加熱前の食品。
「ママお腹空いたよー。オムライス作って」
翌朝の紗織はそのことを、きれいさっぱり覚えていない。食べた自分に嫌悪して、胃に残った物を全て吐き出すだけだ。僕はそれが無意識な人間の生存本能で、夢遊病みたいな物だと最初は思っていたんだ。しかし違った。これが、またその日の夜、紗織が言った台詞だ。
「ママ、昨日のオムライス美味しかったよ」
なぜこの僕がママなのか。なぜ覚えていないはずの昨夜の記憶があるのか。なぜこんなにも子供みたいな顔で笑うのか。それを大学病院の担当医と相談してから、通院する度に診断される病名は変わっていき、一ヶ月程で『解離性同一性障害』に落ち着く。
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「まあ、映画とかでよくある多重人格ってやつだな」
色んな人格が入れ替わり立ち替わりで出て来るなか、自宅のソファーに座った便利屋は言った。
便利屋は便利だから『便利屋』だ。唯一自分が人格のひとつであることを知っていて、唯一全てを記憶している。彼は紗織の入院を勧める。
「子供はどうする? 僕の仕事は?」
「今はまだ子供が小さいから出てこないけどさ、紗織は心の中に自分の母親を飼っているんだ。ありゃ紗織の中じゃバケモノだ」
つまり紗織の中にいる紗織の母親は、僕たちの子供にまで虐待するっていうのだ。便利屋はそんなぼくの顔を見透かして、「あれは虐待ってより拷問だよ」なんて軽い口調で言う。
「……オムライス好きだったやつみたいに殺せないのか?」
先日ぼくは、担当のカウンセラーといっしょに、僕をママと呼ぶ食欲旺盛な人格を自殺させた。
古典的で簡単な儀式だ。その昔、狐憑きと呼ばれ人格が変わってしまった人間に、陰陽師などがする悪魔払いと変わらない自殺の真似事だ。自殺させる寸前、『ママ、ママ』と僕にすがりついてきたのは、一生忘れられない。
「あれは必要ないからな。でも現代医学いわく、それをやると元の人格まで崩壊しちまうらしい。人格ってやつは必要だから生まれるんだ」
僕は便利屋の言葉に頷きながらも、きっと心のどこかで、紗織の病気を信じていない。いつでも『ドッキリでした』って言われる準備をしている。嘘であって欲しいと思っている。
>>>
エムがいるかぎり、紗織とは暮らせない。遊園地から紗織を病院に送り、実家に預けた娘を迎えにいく。
「パパー」
僕に抱きつく、僕の本当の娘。インターネットで調べたんだ。幼い頃のトラウマによって二十歳前後から発病するって。
だからそれを知った時、紗織があんな風になったのは、僕のせいじゃないなんて思った。なんて愚かで醜いのだろう。苦しかったから、誰かのせいにしたかったんだ。
「パパ泣いてるの?」
「遅くなってごめんね。帰ってお風呂入ろっか」
紗織のことを愛している。見捨てるつもりもない。だけどだけどエムがもしもこの子を傷付けるなら……。
モンスター
マザー
マチコ
エム
「ママ早く帰ってくるといいね」
娘はいつも少し寂しそうだ。仕事人間のエックスが息をひそめたとはいえ、娘にかけてやれる時間は僅かだった。
僕と娘が実家から自宅についたのは、夜遅く。玄関の鍵を開ける。電気をつけて、風呂を沸かしながら、コンビニの惣菜をレンジに入れる。
紗織が入院すること半年、紗織の代わりに電子レンジが僕の夕食を温めてくれる。無機質な『チン』って音が嫌いで、たまに喧嘩する。へそを曲げるとたまに動かない。買い替えを考えると同時に、やっぱりぼくは紗織が好きだと気付く。
十五分で食べ終わり、娘と風呂に入る。バスタブの海に沈む僕と娘。
娘はブクブクと口で水面に泡をたてるから、僕も負けじと湯船から出てボディーソープで身体に泡をたてた。
身体の泡に息を吹き掛け、シャボン玉みたいに飛ばせば、それにいちいち喜ぶ娘。
そして天井まで辿り着けず、すぐに消えてしまうシャボン玉みたいな泡沫の幸せ。
いったい僕たちは何度試されればいいのだろうか? 何を選べばいいのだろうか?
>>>
数ヶ月して紗織は退院した。
我が子を抱き締める紗織。最近少し調子が良いと医師から聞いている。完治したわけではない。
急いで迎えにきた院内待合ロビー。広い大学病院の待合、若い車椅子の患者にぶつかられて、たじろぐ老人。色んな人がいる。どんな難病を抱えているかも知らないくせに何故か幸せそうに見える。何も悪いことをしていないのに、後ろめたい。自分たちだけが世界から置いていかれている気がする。
「コーヒー買ってくるわ。紗織何飲む?」
振り返ったその時、僕が目にしたのは、紗織が自分の子供の首を絞める光景だった。エムが自分の子供の首を絞める光景だった。
エムは僕と職員たちにすぐに取り押さえられた。
「お前なんか生まなければよかった。お前なんか」
そこで気を失うエム。いったい誰を責めればいいのだろうか?
それでも予定通り紗織を車に乗せて、自宅に連れて帰る僕。酷く怯えた娘は実家の両親に迎えにきてもらう。これ以上紗織を入院させられる予算が無い。
「あらら、すまんね」
「別にお前が謝ることじゃないさ」
帰り道の車内、意識の取り戻した紗織は、紗織でもエムでもユズでもなく便利屋だった。
誰と話しているのか。紗織と話しているのだ。だがそれが紗織ではなく、便利屋だと受け入れてしまう僕が、罪なのかもしれない。
「あのさ……」
「なに?」
便利屋はシートベルトを巻きながら言いにくそうに口ごもる。
「不治の病じゃないんだぜ」
一応調べたから知っている。莫大な費用と時間が掛かることも、極めて完治する可能性が低いことも。
「最近調子がいいんだ。治るかもしれねーな」
「だと、いいんだけど」
何が言いたい? 嫌な口振りだ。
「もしも治ったら……二つ定義があるんだけど……全ての人格がいなくなって元の紗織に戻ったら……」
何が言いたい? 問いただしたいが、不覚にも僕は次の言葉を予測してしまった。
「お前のことも忘れちゃうんだろうな」
僕が愛して、僕が結婚した紗織は、数ある紗織の人格の断片に過ぎない。
「本当の紗織は……小さな頃からずっと眠ったままだよ」
便利屋はそう言ったあと、シートを倒して眠りについた。
それでも僕は、紗織といることを望んだ。毎日辛いが、最近は本当に調子が良くなってきた気がする。
夜寝る前に、子供みたいなユズが少しだけ僕に甘えてくる。僕は自分の空想で綴った、ハッピーエンドの冒険物語を彼女が眠りにつくまで毎晩聞かせる。
完