惑星Eの呼吸
シーニャの容体が急変したのは、彼女がこの惑星に来てから二か月が経とうか、という日だった。
「おとうさま、おかあさま……」
白いベッドに寝かされ、熱に魘されている小さな少女。セウには見守るだけしかできなかった。
もともと長くはない命だ、と本国から来た報告で聞かされていた。「君は彼女を看取り、どんな最期だったかを記録し、こちらに提出してくれ」とまで言われていた。
シーニャはここ数日間ベッドから起き上がれないでいる。たまに意識を取り戻したかと思えば、前とは尋常じゃない量の種を吐く。その痛みは喉を焼くような痛みだという彼女に、セウはただうろたえ震える手で水差しをあげることしかできなかった。
セウは地表に上がることをやめた。少しでも彼女のそばにいなければ、という気持ちで心が締め付けられていた。本国から彼女を看取れ、と命令されているからではない。彼女の友人として、同居人として彼女を見守りたいのだ。
「シーニャ、起きれますか」
浅い呼吸を繰り返す少女は返事を返さない。おそらくセウの声は彼女には届いていないのだろう。セウは彼女の白い手を握った。
親に捨てられ、本国からですら研究対象としてしか扱われていない可愛そうで哀れな少女。せめて自分だけは彼女の命を尊重してあげたいと思っていた。
惑星Eの呼吸
シーニャが幾度目かの覚醒を迎えた時、セウは一人で温室にいた。
色とりどりの花が咲く温室は、もともとは惑星Eのプロジェクトのための研究施設だった。シーニャが来てからここを花でいっぱいにしようと思い立ち、鉢植えに種をまき、育て始めたのだった。
結局鉢植えでは十分な根が張らず、途中で枯れてしまった花もあったが、彼女が来る前と来た後の温室の変わり具合は驚くほどであった。
彼女が一番好きだった花は黄色の大輪の花だった。彼女はいつもその花だけいっとうに水やりを丁寧にしていた。
温室で育てた花は、全部彼女から吐き出された種からできていた。それを彼女が知っていたかは知らない。けれどセウは彼女から生まれた花々を彼女が世話をしているのを見ると、とても穏やかな気持ちになれたものだった。
「……セウ」
寝室から糸のようにか細い呼び声が聞こえた。すぐさま振り返ってそちらへ行く。
「どうしましたか、シーニャ」
彼女はかろうじて意識を保ててはいたが、顔は幽霊のように青ざめていて目は虚ろをさまよっている。必死で取り繕い、動揺を隠しながらシーニャのそばに寄った。
「セウ、お願いがあるの」
「はい、なんでしょう……」
「私を、地表に、連れて行ってほしいの」
消え入りそうな声で訴える。
「私に、空を、見せて……」
セウは静かな声で「はい」と答えた。
セウはシーニャに自分がいつも来ている厚い大きな砂塵除けの服を着せ、彼女をおんぶした。思った以上に彼女は軽かった。地下シェルターから地表へとつながっている階段を上がり、地表へと出た。
外はいつものように砂が吹きすさんでいた。砂漠の地面に足を取られながら、一歩一歩前へ進む。
じゃくっじゃくっという砂を踏む音が妙に耳障りで、許されるなら発狂したかった。
「もう少し歩いてみましょう。もしかしたら晴れるかもしれません」
セウは祈りにも似た声色で、背中のシーニャに声かけた。
「私ね、知ってたの」
歩き始めて暫くしてシーニャが語りはじめた。
「私ね、知ってたの……私が病気になって一番喜んだのは惑星Eの再生プロジェクトの研究員だって。私は家族に病気もちだから捨てられたんじゃないの……。種を吐く奇病の女だから、惑星Eの再生に最適の道具だって言われて、惑星Eに送られたの」
彼女は続けて話す。
「最初は絶望したわ。でも後にでもそれでもいいって思えたわ。どうせ長くない命だもの。死んだように白い壁の病院で生きるくらいなら、誰かの役に立って死にたいって」
「ロケットから降り立ったあの日、あなたが出迎えてくれた。あの時私、とてもうれしかった。惑星Eの研究員ってことは見てすぐに分かったけど、少なくともこれで、独りで死ぬってことはなくなったから」
汗が噴き出る。体が重い。自重で今にも砂の中へ沈み込んでしまいそうな錯覚に陥る。
首元が寒い。ささやく声が怖い。セウは眩暈が襲う中、それでも前へ前へ未踏の道へと進んだ。
砂をまきあげた風は視界を悪くする。もうどこへ行っているのかわからない。このままだとシェルターに戻れるかどうかすらわからない。
「ねえセウ」
「なんでしょう、シーニャ」
もうすでにシーニャの声さえ聴くのが怖かった。
耳をふさげるならふさいでしまいたい。はい、と返事をして、何かに耐えるようにギュッと目をつぶった。
「私が死んだらね、私の体まるごと、どこかに捨ててきてほしいの」
動く足が止まった。そのまま心臓も止まるかと思った。止まってしまえばよかったのだ。いっそのこと。
「は」
いつもの癖で返事が中途半端にでかかった。返事は最後まで言わないでそのまま出かかった言葉ごと唾を飲みこむ。
「……」
彼女の言葉が理解できない訳ではない。つまりは彼女は『いずれ種まみれになる自分の体をどこかに捨て置いて種子を地表に芽吹かせてほしい』ということを訴えているのだ。
「それは……」
おそらくそれが一番賢い選択だということも知っていた。そのために彼女は惑星Eに捨てられたのだから。彼女は彼女の任務を果たそうとしているだけなのだ。
合理的判断に基づいてもそれが一番スマートで手っ取り早いということも知っている。だが、どうしてもセウの心の奥に芽生えた何かが計画の邪魔をする。
「それは、それは無理なお願いでございます。私には、到底、できません」
それがセウの答えだった。
「できることなら、まだずっとシーニャのそばにいたいのです。シーニャだけ地表に置いて、私だけ地下シェルターに帰ることなど、できません。無理です。申し訳ありません、申し訳ありません……」
希望に縋るように申し訳ありません、と繰り返した。彼女の意思も研究員としての使命もかなぐり捨ててもいい、彼女のそばにいたい、という思いが膨れ上がって自分ではどうしようもできなかった。
「そう……。セウはそう思ってくれているのね……」
シーニャがふふ、と力なく笑っているのが分かった。
はい、とセウは返事をした。目には熱いものが零れて、それは砂の中に吸い込まれて消える。
「私もね、セウのこと、好きよ……」
その瞬間、彼女の体から力が抜けていくのを、背中で感じ取った。セウの首元に回されていたはずの手は最後の力を失い、離される。彼女の上半身がふわっと宙に沿った。支えを失った体はそのまま後ろに倒れ――どさり、と音を立てて、砂漠の地へと重く落ちた。
何もかも一瞬だった。けれどセウにはそれが永遠に感じられた。
シーニャが惑星Eに来て間もないころ、よくシーニャは暴れていた。
「私を本国へ帰して!」
セウはそれを必死でなだめるのだが、ますます彼女の怒りを買うだけで、一日の終わりは必ずため息が漏れたものだった。
彼女の癇癪は日にちが経てばだんだん収まっていった。今思えばそれは、彼女が運命を受け入れて気持ちが落ち着いたのではなく、彼女自身病気に冒されて暴れる体力すらなくなっていったからでは、と確信している。
彼女はよく地表の様子を知りたがっていた。そのたびにどう説明していいのかわからず、適当に言葉を濁していた。
今思えば、彼女にはもっとしてあげられることがあったはずだ。彼女が白い天井を仰ぎ見るたびに、少しでも彼女の望む外の世界というやつを、夢物語を、語ってあげられたはずだった。
もう遅い。
何もかももう遅い。
セウの腕の中、彼女はもう息をしていなかった。
「私も、シーニャのことが好きです」
その言葉は永遠に届かない。
一か月後、本国から戦勝の知らせが届いた。
◇◆◇◆◇
「パパ、みて、あれ。きれいだね」
「ああ、あれは惑星Eだね。黄緑色の光が特徴で、宇宙で一番美しいと言われている惑星たるゆえんだよ」
「きみどり色のひかり?」
「ああそうだ。あの惑星はね、常に地表が新緑で覆われているんだ。だからきれいに黄緑色にかがやいているのさ」
「どうして?」
「昔、あそこは砂漠の星だったと言われていてね。とある偉い人があの星を砂漠の地から救うために、植物を植え始めたんだ」
「なんで?」
「さあね、パパもそこまでは詳しく知らないなぁ」
「わくせい、きらきらしてるね」
「そうだね。あの惑星の光の揺らぎ方はとても美しい。一説にはあの光は『惑星Eの呼吸』と呼ばれているんだ」
「こきゅう?」
「きらきらとした星のまたたきが、まるで惑星が生きていて、呼吸をしているみたいに見えるからなんだ。星のまたたきなんて、惑星では珍しいものなのに」
「いき、してるんだねえ」
「動物植物、生きていくには呼吸が必要だからね。きっと、あの惑星の地表に生えた植物も、私たちと一緒に呼吸をしているんだ」
「しょくぶつも、いきするんだねぇ」
「そうだよ。生きているからね」
――その惑星は、天の川銀河団の端に位置する。
その形はほぼ回転楕円体で、地殻は酸素とケイ素で構成されている。地表は薄い酸素の膜が張っている。
その惑星の表面は全て植物で覆われており、宇宙からみると美しい黄緑色一色に光っているのが見える。
その光は、見る人の心を癒し、孤独な心を明るく照らしてくれる。
ここは、通称「惑星E」。文化は失われたが、自然豊かな惑星。
宇宙の宝石。芽吹きの楽園。安らぎの星。かつてその地に住んでいたはずの人類は、今、その惑星をそう語り、再び故郷へ帰るための支度を始めている。
拙作を最後まで読んでくださった方に感謝します。