第五章 非対称な犯人と結末
第四章が第五章になっていることに三日間気が付かなかった……。
1、
全く、何年同じことの繰り返しか。
いつもなら平気なのに、なんともないのに。こういう日に限って、尻込みしてしまう。押しが弱い。そんな自分に嫌気がさす。中井の呆れ顔も容易に想像できて、さらに気分が沈む。彼女に言われなくてもやろうとしてはいるのだ。
ただ、自販機で硬貨を入れて買おうか迷っているうちに硬貨が戻ってきてしまうだけなのだ。そんな風にして時間だけが過ぎていって、結局間に合わない。
母は笑って馬鹿にしてきた。無性に腹が立ったけど言い返せなかった。
怜奈でも呼ぼうか。彼女だってたぶん今日は何もないはず。
……何かあったら嫌だな。
全てはあいつが悪いんだ。どうせ何もわかってない。無神経に「セミナーがある」だなんて。神経がない人間を想像して可笑しくなったが、すぐに気持ちは沈んでいく。
セミナーの後は? 別に何もないんでしょ? とは聞けなかった。100%何もないはずなのに。
「はあ……」
自然とため息が出る。
インターフォンが鳴った。こんな時間に誰だろうか。
「奈美香ー!」
私? 一体誰だろうか。
「だれー?」
「お友達」
怜奈だろうか。それ以外に思いつく人物は……たくさんいた。自分の友人網は伊達ではない。ただ、本当に押しかけでこんな時間にやって来そうなのは怜奈くらいだろうとは思う。
階段を下りて玄関へと向かう。そこにいたのは、
「メリークリスマス」
小さいケーキの箱をぶら下げた、あいつだった。
何となく幼稚な、何となく中学生みたいだと思った。
でも、
「メリークリスマス」
こいつだから、許してあげよう。
2、
「なあ、ゴッホの絵が高いのはどうしてだと思う?」
急に何を言い出すのか。こういう突拍子もない会話がたまにある。
奈美香はベッドに腰掛け、猪狩は奈美香の机の椅子に座って回転式のそれを左右に回している。無愛想で大人びているくせに、こういうガキみたいな一面もあるのだと改めて思った。
「そりゃ、絵が上手だからでしょ」首をかしげながらも奈美香は答える。
「じゃあ、ピカソの絵は?」
「だから、絵が上手だからじゃないの?」
「ピカソの絵が上手だと思うの?」
「それってピカソに失礼よね? 人それぞれなんじゃない?」
「だろうね。俺自身はどうとも思ってない。俺が言いたいのは、価値と価格は非対称だってことだよ」
「は?」言っていることがわからず、奈美香は思わず首を捻った。
「ゴッホの絵が高いのはそれがゴッホの絵であるからだし、ピカソの絵が高いのはそれがピカソの絵だからだよ」
「わかるようでわからない」
「例えば、ゴッホの絵の贋作は本物より安いよな?」
「当たり前でしょ。偽物なんだから」
「そこには贋作であるという査定は入っても、その絵の良し悪しは見られてないんだよ」
「あー……」わかりそうで、やっぱりわからない。
「もし、本物よりも優れた技術で描かれた贋作があったとしても、それはやっぱり贋作であって、本物より価格は低い」
「本物より優れた贋作って何よ?」
「例えば、自身の最高の作品が一千万の評価を得ている画家の絵を、自身の最高の作品が一億円の評価を得ている画家が真似たら、どうなる?」
「うーん。難しいわね」
「本物より優れた贋作ってのはそういう意味。実際どっちなんだろうな? 自分で言って、自信がなくなってきた」
「何よ、それ」
「とにかく、最初は全うに評価した人がいたんだろうね。それが、次第に膨れ上がって、価格が一人歩きして価値を大きく上回ったんだろうね。数千円で買った絵が、数千万になったって話は結構あるだろ? その数千円が本当の価値だ、までは言わないけど。そういうこと」
「まあ、とりあえずわかったわ。それがどうしたのよ?」
「別にどうも。ただ、思っただけ」
「あ、そ」
それきり会話が途切れる。こういう会話をした後は満足するのか、基本的に猪狩は喋ろうとしない。元が大人しいので特に気まずいということはないが。
「そういえばあんた、ここ知ってるの?」適当な話題を見つけて猪狩に振る。
猪狩が買ってきたケーキは予想外なものだった。どうせそこらの名もなき(とても失礼ではあるが)ケーキ屋だと思っていたのだが、S駅内に入っている有名なケーキ屋だった。
こういったものに疎い猪狩が知っていたとは到底思えない。
「今日初めて知った。伊勢さんに聞いた」
猪狩のその言葉に奈美香はピクリと反応した。聞き出したい衝動を必死に抑える。いくらなんでも、クリスマスにまでその話題はしたくない。
したくない、のだが。
「……我慢しているのが見え見えだぞ」
すっかり見透かされた。
「事件、わかったの?」
「回答は出した。合ってるかは知らない」
「じゃあ、聞かせてよ」
「……本当に?」
「うん。すっきりしない」
こんな日にこんな話をするのはどうかと思うが、すっきりしないのは事実だ。どうせなら聞いてしまおう。どの道そのうち会話に困るのだ。先ほどみたいなよくわからない会話を除けば、猪狩はこちらから話さないと喋らないのだから。
「じゃあ、結論から言おう」
「ダメ」
「…………。おい」
「だって、つまらないじゃない」
「わかったよ。時系列順に話そう。
まず、館長・寺坂陽一の死亡推定時刻は夜中の十二時頃。館長以外の人間はいなかったと警備員の証言がある。彼の警備をかいくぐれば話は別だけれど。
そして、防犯カメラでもそれは確認できる。といってもカメラがあるのは出入り口二つと展示室だけ。とにかくそれでは出入りした人間を確認できなかった。
出入り口二つ以外から入れそうなのは事務室の窓のみ。ただ、高くて、背が高くないと入るのは困難。出たときも窓を閉めるのは難しい。もちろん鍵は閉められない」
「そもそも、前の晩の八時頃に警備員が施錠を確認してるわよ」
「あ、やっぱり? まあ、そうだろうとは思ったけど。とりあえず置いておこう。
朝、一番先に来たのは岸さん。ちなみに蛇足だけど彼は長身だ。その次に来たのが新川さん。まあ、その後はなあなあだけど気にしなくていい。みんな事務室で仕事をしていたけど、副館長の由美さんだけは二階で作業をしていた、と。その後、しばらくして館長室を訪れた由美さんが館長を発見したと」
「こうしてみると岸さんがとても怪しいんだけど……」
「そう。長身の彼なら、事務室の窓から侵入し、館長を殺害することは可能だったはずだ。鍵が開いていて、警備員をかいくぐれば、の話だけど」
「けど、殺された」
「そう。この事件をどう見るかが問題。一つは岸さんが犯人ではない可能性。もう一つは岸さんが犯人で、それを知った別の誰かに復讐された。そして、岸さんが犯人で今回の事件とは無関係に殺された。三つ目だと俺の出る幕がないからとりあえず除外するよ。
岸さん犯人説を考察しよう。彼が犯人だとする。とすると不自然な状況が出来上がるんだよ」
「鍵が開かない」
「それもある。けど、例えば、何か理由があって館長と岸さんが内密に話をしたかったとする。誰にも聞かれない場所として、館長室を指定して、内側から鍵を開けてもらう。これも十分不自然だけど。
とにかく、彼が犯人だとする。彼は夜中に侵入して館長を殺害する。その後彼が取ったとされる行動はどちらかだ。血が固まるまでその場で待ったか、一度その場を去り、血が固まった頃を見計らってもう一度訪れるかだ」
「後者じゃないの? 一番最初に出勤して、窓の鍵を閉める。そして、館長室に向かって館長の首を切断したんじゃないの?」
「まあ、二階にもトイレがあったから仮に血が付いてしまったとしても洗えるしね」
「え、トイレなんてあった?」
「あった。最初に俺たちがスタッフルームに入って真っ直ぐに。俺たちは左に曲がったけど、真っ直ぐにトイレの看板があった」
「よく見てるわね」
「お前と違って、血眼になって死体なんて探してなかったからな」
そこで奈美香は猪狩を睨む。どうしてこいつはこんな日にもこんな憎まれ口を叩くのだろうか。猪狩はおっと、といってわざとらしく口元に手を当てた。ちょっと腹が立つ。けれど我慢。
「けど、一番に来れる保障は何処にある?」
「あー……。でも早く来ようとすれば来れるんじゃない?」
「けど、早く来すぎるとカメラに映る。言い訳しようと思えば、できるわけだけど、警備員もいる」
「それじゃあ、血が固まるまで待ったの?」
「正気じゃないな。自分が殺した相手と数時間も同じ空間にいたくない。外に出れば警備員だ。俺なら返り血承知ですぐ切っちまうけどな。血まみれで警備員に遭遇しようが、綺麗な服装で遭遇しようが、見つかったらアウトだし。少なくとも二度来るよりはリスクが低い」
「そんなこと言ったら、誰が犯人だって一緒じゃない!」
「そう。そこが今回のポイントだよ」
「ポイント?」
「ああ。とりあえず先に進もう。事件発生後の話だ。館長室の絵が一枚盗まれていた。そして岸さんの口座には結構な金額のお金が振り込まれていた。このことからわかることは?」
「岸さんが絵を盗んだ? でも、カメラは?」
「カメラを気にせずに絵を出し入れする機会が一度だけあった。この前、美術品を他館に貸し出したんだ。その時にはカメラを気にせずに外に出すことができた。実際指揮をとっていたのは岸さんだったしね。つまり、倉庫に盗んだ絵を保管しておいたんだ。美術館の作品と紛れさせて」
「でも絵を盗んだってことは岸さんが犯人じゃないの?」
「さっきも言ったけど岸さんが犯人だとすると不自然だ」
「でも、その不自然って誰にでも通じるでしょ?」
「そう。まだわからないかな?」
「……わかんないわよ」
「じゃあ、次。岸さんの口座にはもう一回お金が振り込まれていた。それと、状況からして彼が絵を盗んだのは間違いない。けれど彼が犯人だとすると不自然だ」
彼女は腕を組んで考える。
まず、状況の整理。
防犯カメラ。
警備員の証言。
盗まれた絵。
切断された首。
二階、倉庫、トイレ……。
「…………え」彼女の脳裏にある答えが浮かんだ。しかし、それは到底考えにくいものだった。
「ちょっと待って! 有り得ない! そんな……」
「有り得ないことじゃない。岸さんが絵を盗んだ、且つ、犯人ではない。そんな状況が成立する答えは一つしかない」
「……自殺」
「そう、自殺。館長は自殺したんだ。経営苦かもしれない。岸さんは何の事情があったか知らないけど、朝一で館長室へと向かった。そこで館長が首を吊っているのを目撃する。
そこで彼は一つの考えを思いついた。絵を盗もう、と。館長のコレクションは有名でも、内容を把握している人は少なかったみたいだし。いずればれるとしても、田原さんくらいしかわからないし、時間は稼げる。絵を倉庫に隠して、他の作品を貸し出すときに一緒に外に出す。館長の自殺は誰か他の人が見つければいい。そう考えて彼はずっと事務室で仕事をしていたんだ。
そして、別の誰かが館長を見つけた。彼女は気が動転したはずだ。夫が自殺してしまった。すぐに誰かを呼ぼうとも思ったはずだ。けど、ふと頭の中で警告がなった『自殺じゃ保険金は降りない』と。だから、首を切断して他殺に見せかけたんだ。首を切断する動機を持つのは彼女しかいない」
「由美さんが首を切ったのね。でも首を吊ったロープは? どう処分したの?」
「簡単だよ。倉庫に放っておいたのさ。というか、館長は倉庫のロープを使ったんじゃないかな? 何かと必要だろ、たぶん。
おそらく、暖房用のパイプにロープを括ってたはずだ。ソファのちょっと前に吊るしておけば、蹴る椅子がなくても前のめりになるだけで首は吊れる。倉庫っていうくらいだから脚立くらいはあるだろうから、由美さんでも降ろせる」
「ちょっと待って。てことは、みんながいる中で犯行を行ったってこと? それじゃ、さっきといってること矛盾するわよ」
「岸さんをはじめ、他の人と由美さんの決定的な違いは、二階に行く理由の有無だよ。基本的に二階での作業はほとんどない。けれど当日由美さんだけは仕事があった。そこだよ」
「うーん。まあ、由美さんにしたら多少のリスクを背負ってもどうにかしなくちゃいけなかったんだ。お金に困ってたのかな? 続けて」
「で、首のない館長を見つけて、事務所にいた岸さんはすぐわかったわけだ。職員の中で長い時間席を空けていたのは由美さんしかいない。自殺を見ている彼にしたら保険金のくだりはすぐ理解しただろうね。それで、強請ろうと思いついたわけだ」
「二回目の振込みはそれで?」
「そう。伊勢さんの話だとたいした額じゃなかったそうだから、前金みたいなものだろうね。残りは直接もらうつもりで、いや、もしかしたら由美さんが指定したのかも知れないけど、とにかく殺された」
「ちょっと待って! 岸さんだって……」
「言ったもの勝ちだよ。やましいことを指摘されれば絶対に動揺する。それに岸さんは自殺を発見しただけ。由美さんは首を切断までしてるんだ。それにこれがバレれば保険金も降りない。もしかしたら絵を盗んだことは知らなかったんじゃないかな。それどころじゃなかっただろうし。共倒れしたとしても自分の方が大倒れするとしたら黙ってもらうしかないさ。絵を盗んだことがわかってればまた違ったかもな」
「そっか。……そりゃカメラに映らないわけだ」
「そう、これでだいたいは終わりかな? 質問は?」
「ない。疲れた」ベッドに倒れこむ。
「全くだ。今日する話題じゃないな」
「何よ。あんたなんて今日が何の日か覚えてなかったくせに」
「……否定はしない」
「……ホント、私たちっておかしい」そう言って奈美香は微笑む。
「右に同じ」
「ねえ、初詣は一緒に行こうか?」
「何だよ、急に」
「別に。嫌?」
「俺が朝苦手なの知ってるよな」
「うん」
それから猪狩は少し黙った。彼の表情はよくわからないが、特に機嫌が悪いわけではないようだ。
「……わかった。行こう」
少し前進したかな、と奈美香は思った。