第三章 非対称な想いと素振り
1、
「うーん。首のない死体ならやっぱエジプト十字架でしょ」
奈美香は中井夏美の部屋で彼女のベッドに腰掛けて言った。
中井夏美はH大の三年生で、去年の夏に知り合った。互いにミステリー好きということで意気投合し、ちょくちょく彼女のアパートにお邪魔している。
「うわあ、王道だねえ」中井は本棚から何かを探そうとしている。
「何、悪い?」奈美香は頬を膨らませて抗議する。その表情を見て中井はケラケラと笑った。それを見てますます奈美香は機嫌を悪くしていく。微笑ましい悪循環である。
「いやあ、ごめんごめん。別に王道が悪いなんて言ってないじゃん。あ、これこれ」中井は本棚からお望みの物を見つけそれを投げて奈美香によこす。奈美香はそれを慌てて捕って、拍子に折れてしまわなかったか確認するとほっと一息ついた。
「有栖川? こんな作品あったっけ?」
「知らないか。シリーズ外だからね。首のない死体だと私はそれが好き」
「え、これを渡したってことは読めってこと?」奈美香は眉を吊り上げる。見せてくれるのはありがたいが、あいにく読む時間がない。彼女も三年生なのだからわかっているはずだ。自己分析をしたり、業界研究、企業研究、SPI対策もしなくてはいけない。
「いや、何となく。読みたかったら持ってっていいよ」
「読んじゃうとハマりそうだからやめとくわ」
就職活動はまだ本格化していないので、時間がないわけではなかったが、一冊読むとまた別の本が読みたくなり、とどんどんのめり込んでしまう。彼女はその本をベッドの傍らに置いた。そして、足を投げ出してベッドに寝っころがった。他人のベッドだが、中井なら文句は言わないだろう。
「どっち道ね、首は切断されてるけど、その場に残ってるのよ」
「何が?」
「この前の事件」
「ちょっと待って、聞いてないって! また? ああ、だから急に首のない死体とか言い出したの。何々? 何だったの? ああ、ちょっと待ってね。お茶出すから」早口でまくし立てると中井は台所へと向かう。
「うん。夏美を見てると、不謹慎だって言われてる私もまだマシなんじゃないかって思えるわ」奈美香は台所で作業をしている中井に向かって言った。
「それ酷くない? 私、そんなに不謹慎?」台所から返答が帰ってくる。不満の声が感じて取れる。
「そこまで殺人事件に興味津々だとね。ああ、なるほど。あいつはいつもこう思ってたのか」
「私、事件に遭遇してないし。見てないし。当事者じゃないし」そう言いながら中井がハーブティーを淹れて戻ってきたので、起き上がる。カモミールというものらしいが、コーヒー派の奈美香にはよくわからなかった。ティーカップの一つを奈美香に渡すと自身もベッドに腰掛ける。
「で? で? で?」
「わかったわかった。話すから」奈美香は苦笑しながらも今までの経緯を話し始めた。
美術館で首のない死体が見つかったこと、カメラには不審な人物の出入りは確認できなかったこと、その他、死亡推定時刻や警備員の見回りなど、知っている範囲の情報はおおかた話した。
話した後で、情報漏えいだな、と思ったが仕方ないと言い聞かせた。中井なら誰にも漏らすことはないだろう。こんな話題で盛り上がれる人間はそういない。
「はあ。要するに密室ってわけね」
「え? ああ、そうか。かなり広義の意味になるけどね。穴が大きすぎる気はするけど」
「この場合、やっぱり、どうして首を切ったかより、どうやって出入りしたかだよね」
「やっぱりそうなるか……。絞殺らしいから、首を切ったのは絞殺痕を誤魔化すためだと思ったのよ。身長を割り出せないようにしたのかと思ってたけど、絞殺は身長関係なく水平に後がつくらしいのよ。切る意味なし。それに、どうにもカメラの方がね。もしかしてそっちと関係あるのかなあとか思ったりもしたんだけど」
「首とカメラ?」
「うん」
「ないんじゃない?」
「やっぱり?」
「首がその場に残ってた時点で、絞殺痕を消すくらいしか用途はないと思うけど。それとも、頭と胴体が違うとか?」
「あ、それ面白い」
「すぐわかるけどね」
「現代科学の進歩が推理小説の可能性を狭めたよね。もちろん、現実では大歓迎だけど、小説を書くとなると……。リアルを求めると書きにくくなっただろうなあ」
「だからこそクローズドサークルが出てきたんだろうね。孤島のホテル。島と本土を行き来するボートは壊され、電話も通じない。なぜか客に医者がいて死亡推定時刻くらいは割り出せる。その時刻にはなぜか全員にアリバイが。うわあ、リアルの欠片もない」二人は笑いあう。
「ま、どうせ今回も猪狩くんがちゃちゃっと解決しちゃうんでしょ?」
「ちゃちゃっと、ねえ……。使わないわよ、今日日」
「いや、それこそ使わないでしょ」
「まあ、あいつなら解決するでしょうね」言い返されたのがちょっと気恥ずかしくて、中井の話を無視して話題を変えた。「けど、いつもあいつに先を越されるのは気に食わないけどね」
「そもそも、警察が解決するのが理想だよね」
「手伝いよ、手伝い。普段だって、一般人の目撃情報とかがないと警察だって何もできないでしょ? それと同じよ」
「それ、無理がない?」
「いいのよ、それくらい。そのくらいが丁度いいのよ」
「彼、頭いいから、まあ、有りかもね」
「ふん。所詮H大落ちよ」
H大落ち。地元ではH大が周辺大学のトップであり、その次にややランクが下がってO大、そしてまたさらに下がってその他の大学が多数ある形となっている。
そのためH大、O大の二強状態となっていて、しかしそれでも両者の間にはそこそこの隔たりがある。だいたい、地元で成績のよいものはH大とO大を受けるため、後期試験でO大に入学した者はH大落ちなどと言われる。猪狩と奈美香はこの後期試験入学者である。ちなみに蛇足だがO大の後期試験は実はなく、センター試験の得点のみとなっている。だからこそ、H大・O大の組み合わせが多いのである。
「そうそう、そこ。そこがわかんないのさ。何であんなに、いやまあ、ほとんど会ったことないんだけどさ、頭いいのにO大なの? って話さ。まあ、奈美香もだけど」
「私はね、前日に三十九度の熱出したから」
「うわあ、運悪っ!」
「ほんと最悪。全く解けなかったから」
「で、何? 猪狩くんも?」
「いや、あいつはまあ……。自業自得というか。まあ、半分は私のせいなんだけどさ……」
奈美香はその時のことを思い出して、顔をしかめる。
「どういうこと?」
「あいつ、最初の一科目、受けてないのよ」
「はあ? 何? 寝坊でもしたの?」
「うん。あいつが悪いのよ? 私が熱出して寝込んでたら、あいつメロン持ってお見舞いに来てさ」
「……なんてベタな」
「でもって、あろうことか私の部屋で勉強し始めたし」
「うわあ」
「風邪うつるって言っても『大丈夫だ』しか言わないし。知らないわよって言って私寝てたんだけどさ。そのうち『あ、やべ、帰らなきゃ』とか言って帰っていったんだけど。何時だったかなあ? 真夜中ってわけじゃなかったけど、あいつ朝に弱いからさ。母親譲りなんだよね。基本的におばさんは朝起きないから、起こしてくれないのよ。で、アウト。サヨナラH大って感じ。けどね、腹立つことにね、一科目受けてないのに、成績開示したら、あと一点だったっていうのが、ね」
「……嘘でしょ」
「嘘のようでほんとの話。浪人すると思ってたけど、すんなりO大行くって言うからびっくりしたわ。ね? 半分は私が悪いけど、基本的にあいつの自業自得なの。って何よ、気色悪い」
奈美香が言い終わる頃には中井は何やらニヤニヤとした表情で奈美香を見ていた。獲物を見つけた痴漢もこんな感じだろうか。
「いやあ、いいなあ、って思ってさ。それだけ奈美香のこと心配してたんでしょ? いいなあ、愛を感じるわ」
「何言ってんのよ」そう言ってティーカップに口をつける。若干顔が火照っているのを感じる。愛だなんて、冗談冗談。
「いやいや、いいなあ。二人っていつから付き合ってるの?」
吹き出すのは懸命に我慢した。そんな漫画みたいな場面はあってはならないと、そんなことをしては中井に笑われるだけだと言い聞かせた。
「付き合ってないし。あんな唐変木」中井を睨みながら、落ち着こうともう一度ハーブティーに口をつける。
「はは、唐変木ね。でも好きなんでしょ?」
不覚にも少し吹き出しそうになって、そうはなるまいと無理矢理飲み込んで、咳き込んでしまった。落ち着いたところで中井を睨みつける。
「……私と康平は姉弟みたいなものだし」
「ああ、わかる。幼馴染ってそういうものだもんね。その距離が縮まらなくて恋に悩む乙女……って、漫画じゃあるまいし」
「あの、何か勝手に盛り上がってない?」
「もう大学生なんだよ? 苦節十ウン年の恋、さっさと実らせないと。恥ずかしいよ、大学生にもなって」
「あのねえ、私だって彼氏の一人や二人いたし」
「どうせアレでしょ? 告白されて何となく付き合って、けど猪狩くんのことが気になってすぐ別れちゃったんでしょ? 乙女かっての!」中井は演歌歌手のように握り拳を作って熱弁している。
なにやら暴走気味である。熱が入りすぎだ。勝手に決め付けないでほしい。これ以上喋らない方がいいかもしれない。
「その様子だとクリスマスも予定もなし?」
これ以上、絶対喋ってやるもんか。
「おうおう。だんまりかい。いいよ、じゃあ、猪狩くんに奈美香が君のこと好きだよって言ってやるんだから」
「ああっ! 私のケータイ!! いい加減にしてよ!!!」
「これを返して欲しくば、猪狩くんをクリスマスに誘うことだね」仲居は携帯電話についているストラップを持って本体をぶらぶらとさせている。数年前に買ったブドゥー人形とかいうストラップである。ここで、猪狩が買ったものだなんて言ったら、大変なことになる。
「……ああ、もうわけわかんない」
考えるのがいやになって、奈美香はその場に大の字になって倒れた。
2、
「うおい!!」
「奇妙な声を出すな」蝿でも見つけてしまったかのような表情で鬱陶しそうに猪狩は言った。
「何か、最近ぞんざい過ぎないか?」
「何が?」
「俺の扱い」
「ああ、何だそのことか」
「何だとは何だ! 何で俺だけ仲間はずれなんだよお!」
ここは駅前のドトールである。ガラス張りの開放感のある店舗だが、スーツ姿のサラリーマンが歩く姿を眺めていたところで、何の感慨もない。かく言う自分たちもスーツ姿なのだが。
脈絡もなしに面白い話をしろと藤井が言うので、事件の話をしたところで先ほどの奇声を上げたのだった。
「お前みたいなキャラの宿命だろ。木根って呼んでやろうか? 川上? 千田?」ぬるくなったコーヒーを飲みながら猪狩は言う。猫舌なので冷めているくらいが丁度よい。
「ふざけんなよ。誰が好き好んでこの立ち位置にいると思ってんだよ?」
「何、お前そのキャラ変えたいのか?」
「俺はなあ、もっと集団のトップっていうか、中心になりたいんだよお!」
猪狩は高校の頃を思い出す。が、あまり変わっていない、目立つが中心というよりはいじられキャラの色の方が濃かった。
「奈美香がいる限り無理だな」
「くそう……」
「諦めろ」
「くそう」藤井は繰り返す。「何、じゃあ、事件は進んでるの?」どうやら諦めたようで、話題を事件へと変えた。
「知らない。警察の仕事だし」そう言って外に視線を走らす。人々が首を窄めて少しでも寒さを凌ごうとしながら歩いている。やはり、面白くない。
「言うと思ったよ」
「そう言うと思ったよ」
「何も聞いてないの?」藤井はホットドックを頬張りながら尋ねてきた。食べながら喋らないでほしい。
「少しは聞いた。けど、あまり突っ込みたくない。奈美香は勝手にやってるかもな」
「あいつもよくやるよな。昔からああなの?」
「いまさらな質問だな」
「いいだろ、別に」
「まあ、何にでも興味持つやつではあったな」
「へえ。それにしても、幼馴染なんて人種がほんとにいるなんてなあ。漫画くらいだと思ってた」
「何をいまさら」
「いや、ね。この時期になると、女の子が恋しくなるんだよ」
「……お前、奈美香が好きなのか?」
「はあ? 違うって。気い強い女の子はパス。羨ましいって話だよ。人の女に手ぇ出したりしねえよ」
「…………ちょっと待て。俺と奈美香は付き合ってないぞ」
「知ってるよ」
「じゃあ……」
「だって、そういう次元とっくに越してるだろ」
「意味がわからん」
「あ、そ。わかんなくていいんじゃない? ただ、自覚はあるよな?」
「ないよ、そんなの」あるはずがない。
「だって、”人の女”って言って、自分だと思ったろ」
そう言った藤井の表情はニヤニヤしていて、下品で、無性に腹が立って、とりあえず頭に一発拳骨を入れた。
「ってえ……。わかったよ、もうこの話なしな。それより事件のこと教えろよ」
「ったく」そう言いながらも猪狩は事件のことを話した。とはいえ自分自身たいして知っているわけではない。それに、途中から藤井が考えることを放棄して上の空になりつつあったため、話すのが嫌になった。
「おい、寝るな」
「……ん? いやいや、寝てない。で?」欠伸をしながら藤井は言う。わざとやっているのではと思ってしまう。コーヒーを飲む。さすがに冷めすぎていて不味かった。
「ほんとかよ、カメラに映ってないって」
「らしい」
「ふーん。じゃあ、アレじゃね? 犯人は複数だよ」
「ほう」
「実行犯をスーツケースに入れて……」
「吃驚人間ショーじゃないんだぞ」
猪狩はため息をついた。