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第二章 非対称な思考と行動

1、

 新川彰はいつもの通勤の道をいつものように歩いてた。だが、いつものような気分ではさすがにいられなかった。

 いつものように裏口に回り、いつものようにそこから事務室へと向かう。だが、さすがにその心内は重い。

「おはようございます」入り口で皆に向かって挨拶するが、いつもよりもやや声のトーンが落ちていることを自覚する。それに対して返ってくる声も心許ない。

 皆、一緒なのだ。自分の職場で、自分の上司が、さも無残に殺されていた。これで、平常でいられる方がどうかしている。

「おはようございます、美作さん」新川は隣の席の美作幸子に改めて挨拶する。

「あ、お、おはよう。新川くん」美作はおどおどした様子で返答した。だが、これは事件の影響ではない。彼女は常からこうなのだ。自分より七、八ほど年上のはずだが、その振る舞いは社会に出て十年以上経ってるとは思えないほど拙いものだった。化粧も薄く、冴えない顔で、おそらく自分に自信がないのだろうなという印象を日ごろから受けている。

 もし、この美術館でリストラが行われるとしたら、真っ先にクビを切られるのは彼女だろう。考えるまでもない。もっとも、彼女が真面目に働いているのを知っているため、個人的には応援していた。

 だが、何にしろクビにする側の人間がもういないのだ。

「……この美術館、どうなるんですかね?」彼女に尋ねて妥当な答えが得られるとは思えなかったが、社交辞令で尋ねた。案の定、彼女はあたふたとした反応を示し考える仕草をした。

「ど、どうだろうね。由美さん、が続けるんじゃ、ない?」

 寺坂由美。この美術館の副館長で、被害者の寺坂陽一の妻である。今回の事件の第一発見者でもある。だが、経営が苦しくても美術館の継続の道を模索していた館長と比べ、彼女はそれほどこの美術館に執着があるようには思えなかった。

 別に反対をしていたというわけではなく、ただ、館長に任せていた、というのが正しい。つまり、もし彼女が館長になるとすれば、何もなければ続けるし、閉館の声が上がれば閉館する、そうなるだろう。経営が悪い以上、ここを続けていく合理的な理由は特にない。

「どうですかね? 新しい働き口を探さなきゃいけないことにならなければいいですけど」新川はため息混じりに言い、机の上の書類に目を通し始める。

「そう、だよね。ここが、な、なくなっちゃうかもしれないもんね」

「ええ。あ、そろそろ仕事したほうがいいですよ。岸さんが見てますから」岸が二つ向こうの机からこちらを睨んでいた。そう言うと、彼女は跳ね上がるように肩を震わせた後、慌てて机に向かい始めた。

 もし、岸が館長になることがあれば、彼女はそれこそすぐにクビになるだろうな、と思った。


 廊下を歩いていると、ロビーと繋がっている扉が無造作に閉まる音がした。欠伸をしながら警備員が歩いてくる。まだ二十代の若い警備員で、高木健という。短髪で堀の深い顔は高校球児を思わせる好青年に見えるが、話すと必要以上にフランクで、調子のいいことも言えば、仕事の文句を言ったりする、そんな人物である。

「お疲れ様です」新川は挨拶する。他の警備員と話したことはないが、彼だけは年が近いこともあって、何度か話したことがある。

「ああ、お疲れ様です」高木はもう一度欠伸をして会釈した。

「夜勤、ですか?」聞いてから、夜勤がこんな時間まで勤務していることは有り得ないと気が付いた。もう既に日は上がりきっているのだ。

「いんや。ちょっと、警察の仕事に付き合わされましてね。その後での勤務っすよ。ああ、しんどいしんどい」高木は首を回したり、肩を上げ下げして凝りをほぐそうとしている。「ああ、非番だったのに」

「警察の仕事、ですか?」

 実際の年齢は知らないが、おそらく高木の方が年下だろうと思いつつ、彼の軽口にはもう慣れてている。そして、こちらが敬語を使ってしまうのは、年上ばかりの環境に慣れてしまったからである。

「そうっすよ。防犯カメラの映像で、怪しい人が映ってないか探すんです。非番の人がやるしかないでしょう?」

「ああ、なるほど。で、映ってたんですか?」

「全然ですよ。だから大変だったんすよ。映像見て、この人はいつ入って、いつ出たかって、服の特徴見ながら、ちまちまちまちま……。だいたいは警察の人がやってたんすけど、僕もその場を離れられなかったんで」

「それでも見つからなかったんですか?」

「ええ。だから、前日に隠れてたってのはないみたいっすよ。そもそも、加藤さんも荒井さんも何も見てない聞いてないって言ってるんすよ。十二時頃って言ったらちょうど見回りの時間すから」

 加藤とはここの警備員で一番年長の者である。荒井も年配の警備員である。どうやら彼らが事件当時の当直だったらしい。そして話が抜けているが、どうやら十二時頃が犯行のあった時刻のようだ。

「加藤さんが見回りして、荒井さんが警備員室にいたんですけどね。あの二人、真面目だから手ぇ抜かないっすよ」

「二人をかいくぐって入り込むってのいうのは無理ですか?」新川は尋ねた。ところで、彼は手を抜いているのだろうか。

「無理じゃないすか? ほら、入り込めそうなところって事務所の窓くらいでしょう? 事務室って警備員室のまん前だから。寝てない限り音で気づきますよ」

「そうですよね。すみません、疲れてるのに邪魔してしまって」新川は頭を下げる。高木はいえいえ、と欠伸をしながら事務室前の警備員室に入っていった。


 この時期となると日が落ちるのはとても早い。たとえ定時で帰ることができたとしても、既に外は真っ暗、なんてことは当たり前である。オレンジ色の街灯に照らされて、新川は帰路に着いていた。

 駅でふとあるケーキ屋に目が止まる。そういえば、妻が何やら騒いでいた店がこんな名前だった気がする。妻と娘の分を買っていってやろうかと考えた。時たま、こうやって特に何もない日でもお土産を買いたくなるときがある。

 だが、今自分が置かれている境遇――つまり、いつ職を失うかわからない――を思い出し、思い悩む。さすがに、市民の反対で存続した美術館が、館長がいなくなっただけで閉鎖するとは思えないが、そうでなくても無駄遣いはよくないと、自分に言い聞かせて買うのは控えた。

 長い帰宅時間だった。彼の家はS市の隣のE市である。といっても数百メートル先はS市なのだが。彼が家の前に着いたときには事件のことが頭を埋め尽くしていた。どうやら、事件当夜は誰も出入りしていないらしい。少なくともカメラには映っていない。だとしたらどうやって犯人は館長の部屋までたどり着いたのだろうか。

 何とも、小説のような話だが、こういった事件はよくあることなのだろうか。警察ならばこの程度の奇妙さは日常茶飯事なのだろうか。警察ならば解決できるのだろうか。そんな思考の堂々巡りである。

「お帰りなさい」

 家に入ると妻の香代が夕食の用意をしていた。結婚四年目、娘が一人。割と順調に思えた人生も雲行きが怪しくなってきた。

 事件のことは香代に話したが、さほど心配していないようで「べつに潰れたりしないでしょ?」と言っていた。そのときは誤魔化して答えたが、実際にあの美術館を続けられると思っているのは館長くらいではないだろうか。もちろん、誰も潰れればいいとは思ってはいないだろう。単純に職を失うのが怖いのだ。愛着はあれど、続けたいと思っていても、続けられるかどうかは別問題なのだ。

「桜は? もう寝た?」コートを掛けながら新川は尋ねた。

「寝てるよ。けど、たぶん起きる。夕食まだだから。ああ、そういえば、誰だっけ? あの、従妹の」台所から香代の声が聞こえてくる。

「誰? 美緒? 恵理子? 怜奈?」

「ああ、そう怜奈ちゃん。電話来てたよ」

「怜奈? わかった」電話のところまで向かい、電話帳から彼女の家の番号を探す。まだまだアナログだなあと思いつつ、番号をプッシュする。しばらくした後、女が電話に出た。

『はい、新川です』電話の嫌なところは顔が見えないところである。特に叔母の和江と従妹の怜奈は声が似ていて電話だとよく間違えてしまう。どちらだろうか。

「あ、彰です。E市の」

『ああ! 彰さん。怜奈です、こんばんは』

「こんばんは。どうしたの? 電話くれたみたいだけど」

『あの、せっかくチケットくれたのに、風邪引いちゃって行けなくて。謝ってなかったなと思って』

「全然いいのに。わざわざそんなことで電話してくれたの?」

『ええ。あと、何か大変だったみたいですね』

「そう、知ってるんだ? まあ、大変だよ。この先どうなるかわからないしね」

『そうなんですか?』

「うん。あんまり採算取れてなかったから。その辺は偉い人たちでどうにかするでしょ。まあ、とにかく、今は早く犯人が捕まってほしいよ」

『捜査はどうなんですか? あ、まだ始まったばかりですね」

「昨日の今日だからね。ん? 一昨日か。けどね、何か大変みたいだよ。小説みたいなことになってる」

 そう言ってから怜奈からの返答はなかった。どうしたのだろうかと思い、声を掛けるとややあってようやく返事があった。

『あの、いい人紹介しましょうか?』


2、

 今年は近年続く傾向どおり、例年より(近年続くとなると例年とは何を基準に言っているかよくわからなくなるが)雪が少ない。普通なら真っ白であるはずのO大には黒が目立っていた。道路が露出しているための黒もあるが、もっと目に付くのは人の黒である。

 毎年十月から三年生は就職活動が始まる。東京はもっと早いらしいが知ったことではない。ここは北海道だ。十月、十一月と流されるままに動いていた者たちもそろそろ本腰を入れ始めたところである。中には年が明けてから動き出す者もいるようだが。

 そんな者たちが学内セミナーのために黒いスーツに身を包み登校してくるのだ。

「なあ、どこ行く?」おそらく学校一スーツが似合わないであろう藤井基樹が尋ねてきた。彼に似合うのはどう考えても運動に適した服装である。ある意味ジャージが一番似合うかもしれない。

 O大の学内セミナーは複数の企業が一日に訪れ、その中で三つほどを自分で選び説明を受ける形式である。すべての企業を見ることができるわけではない。

「ん。三丸地所かな」二人で階段を上がりながら猪狩は答える。

「それより北優銀行行こうぜ」

「金融興味ない」猪狩はパンフレットに目を向けたまま答えた。この時期には友人と行動したがる学生が多いと先日のセミナーで、ある企業の人事が半ば文句のように言っていたのを猪狩は思い出した。

 友人と同じ企業に行くわけではないのだから、自分の行きたいところに行けば良いのだ。逆に言えば行きたくない企業には行く必要はない。

「ちぇ。じゃあ、また後でな」藤井はそう言って二階の教室へと向かっていった。彼はそのあたりをまだ理解していないようだ。猪狩はそのまま三階へと向かう。

「ちぇ、とか死語だよな……」

 目的の教室へと入ると、見慣れた顔を見つけた。新川怜奈である。

 余談だが、この時期になるとやたらと見慣れない顔が増える。二年半同じ大学に通っていたはずなのに、初めて見る顔も多い。学科が違い、授業でも会うことのなかった学生もセミナーという同じ空間に集まるためであろう。今まである意味では風景と捉えていた他人が、同じ格好をしているためしっかりと認識するというのもあるのだろう。その中で見慣れた顔を見るのはウォーリーを見つけたときのようなちょっとばかりの嬉さがある。

「あ、おはよう。猪狩くん」怜奈は笑顔で挨拶すると隣に置いてあった鞄を退けた。「この間は大変だったんだって?」

 事件が起こってから三日が経過していた。今のところ伊勢からの連絡はない。本当に自分たちを特別扱いしているようだ。そして頼る気もまだないらしい。猪狩としてはその方がありがたかった。

「ああ。奈美香が喜びそうな話だ」

「そんな風に言ったら奈美香に失礼だよ。空気ぐらい読めてるよ。殺人事件で喜ぶはずないよ」

「それくらいの気遣いがあいつにも欲しい」

「で、どうだったの?」

「……前言撤回」

「嘘うそ」怜奈は舌を出して笑った。「彰さんから少しは聞いたんだけど」

「そういや従兄妹だったな」

「うん。館長さんが亡くなっちゃったから、あそこがどうなるかも怪しいんだって」

「奥さんはいないの?」

「あれ? 奥さんが見つけたんじゃなかったっけ?」

「ああ、あの人がそうなのか」

「寺坂さん」

「そんな名前だった気がするな。奥さんが館長やったりはしないの?」

「うーん。そこまで熱心だったわけじゃないみたい」

「じゃあ、なくなるかもしれないのか?」

「あるかも。あんまり採算も取れてなかったらしいから。努力はしてるみたいだけど」

 そう言われて、当日客が疎らで閑散としていたのを思い出した。市民の反対で存続が決まったのに、その市民がそこを利用しない。何とも理不尽だと猪狩は感じた。

 時間になり企業の説明が始まったので、猪狩はそちらに集中しようとしたが、怜奈が再び話しかけてくる。

「あのね……」


3、 

「……誰かの悪意を感じるな」猪狩はその場にいない第三者のことを言うように、その場にいる奈美香を非難した。

「さて、何のことやら。私たちは新川彰さんに呼ばれただけよ」

「うん。呼ばれた。是非猪狩くんを連れてきてくれって」怜奈も奈美香に同調する。

「藤井は?」

「あいつはいらないでしょ」即答、である。

「っていうか、バイトだって。一応呼んだんだけど」

「一応、ね……」猪狩は藤井の待遇の悪さを不憫に思った。

 日曜日(つまり、事件からちょうど一週間が経った)三人は新川彰の自宅に向かっていた。彰によると、警察の捜査はさほど進んでいないらしい。全くのゼロというわけではないのだが、ある点が決定的な壁になっているらしい。自分の職場の館長が殺されたとなれば、一刻も早く犯人を見つけ出してほしいものだ。 

 そこで、何度か殺人事件を解決したことのある猪狩の知恵を借りたいのだとか。なぜ彼がそのことを知っているのかと言えば、もちろん新川怜奈のせいであり、それを積極的に唆したのはやはり矢式奈美香に他ならないだろう。

 となれば藤井が必要にならないのは残念ながら必然である。どうせなら自分も必要なかったらよかったのに、と猪狩は思った。何度事件を解決しようが、殺人事件に首を突っ込むなんて不謹慎極まりないのだ。

 三人は電車に乗る。対面式の車両で猪狩は進行方向に背を向ける形で座ることになった。この向きだと若干酔いやすいのだが、女性二人には一応気を使わなくてはなるまい。

 奈美香と怜奈が二人でお喋りに興じている間、猪狩は一人物思いに耽っていた。また、面倒なことになったと。

 いつだったか事件を呼び込んでくる疫病神は誰かと考えたことがある。

 一度目は藤井が言い出した。怜奈が場所を用意した。

 二度目も藤井が言い出した。

 三度目は奈美香だ。

 四度目は誰でもない。強いて言えば自分ということになるだろうか。だが、自分の知らないところで奈美香も巻き込まれたようである。

 今回は奈美香が言い出したが、チケットは怜奈が用意した。

 こう考えると自分は完全にとばっちりを受けているだけのように思える。自分は引き金を引いていない。だが、五回すべてに関わったのは自分と奈美香だけである。

 そう考えると、自分が誰かに引き金を引かせていると考えられなくもない。まるで小説や漫画の主人公のように事件に吸い寄せられている。

「……はっ」

 そこまで考えて馬鹿馬鹿しいと一蹴する。誰が疫病神だろうが、誰がとばっちりを受けていようが、結局は無意味に等しい。

 確かに呆れるほどの事件との遭遇率は迷惑極まりないが運が悪いとしか言いようがない。

 誰の運が悪かろうと、四人でいれば四人が事件に遭遇する。諦め、とはまた違うが、誰が、を探したところで何の意味もない。

「何よ、気持ち悪い」奈美香が気味悪そうに猪狩を睨んでいた。

「別に。そろそろ着くんじゃないか?」停車駅を告げるコールを聞いて猪狩は立ち上がった。

 駅を降りてさらにバスで三十分、住宅街に入った。真新しい立派な建物が目立ち、道路脇には冬でも枯れない針葉樹が植えられていて、真っ白い傘を被っている。立派な家が多いのは交通の便が悪く土地代が安いからだろう。新興住宅街の道理である。

「やあ、いらっしゃい。待ってたよ」新川彰が笑顔で出迎える。

「お久しぶりです、彰さん」怜奈も笑顔で答える。

 家の中は新築のようで新しく、家具も必要最低限のものしかなかったが、綺麗に纏まっており、モデルルームのような雰囲気だった。

 彰の妻の香代がお茶を淹れてくれた。

 ソファが一つしかないのでそこに三人を腰掛けさせ、彰自身は床に胡坐をかいて座った。

「いやあ、怜奈ちゃん、元気だった?」

「ええ、忙しいですけど」

「そっか、就活だもんね。これから大変だよ。がんばってね」そう言って彰は台所にいる香代を一瞥し、こちらを向いていないことを確認して声を潜めた。「あんなことが起こっちゃって、俺も就活しなきゃいけない、なんてことにならなきゃいいけど……」

「あの、あれからどうなったんですか?」

「俺も詳しい話は聞けなかったけど、警察の話をまとめると、館長の死因は窒息死、つまりおそらく絞殺。で、死後数時間経ってから首を切られたらしいんだ」

「私たちの予想通りですね」

「あそこに鎧があったのを覚えてる?」

「えと……」

「はい、覚えてます」言いよどむ奈美香に代わって猪狩が返事をした。

「あの鎧が持っていた剣で切ったらしいんだけど、無茶苦茶。無理矢理やったもんだから、断面はぐちゃぐちゃ、絞殺痕も見つからなかったらしいよ。素人が人の首を切断するってのは思ってる以上に難しいらしいね」

「飾りなのに刃を落としてなかったんですか?」

「うん。館長の趣味だろうね」

「そんなに酷い断面だったんですか?」

「見てないけど、聞いた話だとね。絞殺痕もないから、おそらく絞殺、としか言えないって言ってたよ」

「そうですか……。最初は、そうやって絞殺痕をわからなくして、身長の割り出しとかをできなくするのが目的だと思ったんですけど、実はできないらしいんですよ」奈美香は腕を組んで考える仕草をした。「そういえば、あんたも何か考えがあるって言ってたわよね?」

「簡単だ。犯人がそのことを知らなかっただけと考えるのが一番納得がいく。防犯カメラはなかったんですか?」猪狩は淡々と答え、新川に尋ねた。

「あったよ。もちろん。けど、むしろそれで苦労してるみたい」

「どういうことですか?」奈美香が興味をそそられたようで食いつく。

「防犯カメラは、展示室のほかには、入り口と裏口に設置してるんだけど、誰も映ってないんだ」

「え!? そんなことあるんですか?」

「俺もちゃんと聞いたわけじゃないけど、聞いたところによると、犯行時刻は夜中の十二時頃なんだ」

「その頃には誰も映っていない……?」

「そう。怪しい人物なんて誰も」

「前の日からどこかに隠れていたんじゃないんですか?」

「警察と一緒にカメラを確認した警備員さんが言ってたんだけど、それはたぶんないって。前の日も、次の日も、服の特徴とかから全部確認したらしいから。第一、夜間は計三回の見回りをするんだ。それをかいくぐるのは難しいと思うよ。まあ、見回りするといっても展示室の方がメインだから、不可能じゃないんだろうけど。あ、でもスタッフルームの方も警備員室に一人いるんだけどさ」

「うーん。あ、そもそも館長はなぜそんな時間に?」

「あの部屋、美術品だらけだったでしょ? たまにあの部屋で一晩過ごしたりするって、奥さんが言ってた。美術品に囲まれて一夜を過ごすんだってさ。警備員さんもわかってるから、別に気にしてなかったらしい」

「……どう思う?」奈美香が猪狩に尋ねる。

「怪しい人物はいるはずがないと思う」お茶をすすりながら猪狩は答える。熱い。

「どういうこと?」

「言わない」猪狩がそう言うと奈美香が睨んできた。それを無視してもう一口お茶をすする。無視するがためにお茶を飲んだが、やはり熱い。もう少し冷めてくれないと飲みづらい。

「俺は構わないよ」何かを察したのか真剣な表情で彰が言う。

「……単純に、場所を考えれば職員やその他の関係者以外には考えられないというだけです」

「……だよね。みんないい人だと思ってたんだけどな」彰は顔をしかめて言う。

「職員の人たちは全員朝に来たんですか?」

「そう聞いたよ。さっきも言ったけど、カメラを見る限り前日から篭っている人はいなかったらしいから。職員も一緒さ」

「どこか出入りできそうな窓とかありませんか?」

「事務室の窓なら外に出られると思うけど、高いんだ。飛び降りれないほどじゃないけど、入るのは難しいと思う」

「無理なんですか?」

「背が高くないとね。それに窓を出て行った後に窓を閉めるのも、高さからして難しい。できなくはないけど、少なくとも鍵は掛けれないよね」

「後で閉めればいいんじゃないですか?」

「……そうなるとできるのは岸さんしかいないよ」

「岸さん?」

「最初に館長を見つけたときにいた人だよ。背の高い」

「ああ……。僕を突き飛ばした人じゃない方ですね」

「そう、君を突き飛ばしたのは田原さん」

「で、岸さんしかできないっていうのは?」

「背が高いってのもあるけど、僕が来たときにいたのは岸さんだけだったからさ」

「そのとき窓は?」

「閉まってたよ。ちょっと寒くて、どこか窓が開いてるんじゃないかと思って確認したからね。まあ、単に暖房を入れたばかりで暖まってなかっただけだったんだけど。」

「じゃあ、岸さん以外は犯行は不可能なんだ……」

「警備員が犯人じゃなければ」猪狩が言った。

「自分が一番疑われやすいのに、そんな時間にする?」

「しないと思う。けど、だからこそしたのかも」

「それに警備は二人体制だったんでしょ?」

「二人が共犯という可能性をすてちゃいけない。むしろそれが合理的だ」

 だいぶん冷めて丁度よくなったお茶を猪狩をすすった。


4、

 なんとも世の中は狭い。猪狩は学外の企業セミナーに出席していた。その帰り、街を歩いている人物で知っている者がいた。

「こんにちは。伊勢さん」

「おうっ!? びっくりした。君か」伊勢は横から話しかけられて飛び上がるようにしてこちらを向いた。「話しかけられたのもびっくりしたけど、君の格好もびっくりだね。どうしたの? スーツなんて着ちゃって」

「就活ですよ」猪狩は短く答える。

「ああ、もうそんな時期か。大変だね」

「他人事ですね。その言い方」

「事実でしょ」

「ええ、まあ。事件の方はどうです?」

「おっと。今回は君には頼らないよ」そうは言っているものの、表情は硬い。

「進んでるんですか?」

「……進んでないよ」硬かった表情がますます硬くなる。そういえば硬くなることしかできないポケモンが昔いたな、と思った。

「そうですか。じゃあ……」伊勢はどちらだろうと考えながら猪狩は踵を返す。

「あー、時間があったら軽くなんか食べないか?」伊勢が苦笑気味に猪狩を引き止める。素直にそう言えばいいのに、と猪狩は思ったが、期待されても困る。内心で苦笑した。

 二人は駅前のドトールに行くことにした。適当に席を見つけて、コーヒーとミラノサンドを注文した。

「カメラのせいでややこしいことになっているらしいですね」

「別にカメラのせいって訳でもないけど……まあ、犯行は不可能だったと言わざるを得ないね。なにせ誰も入っていない出ていない。少なくとも関係者はきっちり朝に来てる。だいたい開館一時間前から三十分前くらいまでだね」

「カメラのデータが改ざんされたっていうのは?」

「ないとは言い切れない。今調べてるところだけど、それができるとしたら結構な技術者じゃないかな? 痕跡を消せる、というとこまで含めてだけど。警察が調べてすぐわかるようならたいしたやつじゃない」

「……結構な技術者だったら、もう完全犯罪ですね」

「まあ、痕跡ってのは残るものだから、この方法は使ってないと思うけどね。第一、この方法を取ったとしたら、警備員以外有り得ないし、警備員だったら、わざわざそうする必要がない。外から回線をジャックしたなら別だけど。ルパンじゃあるまいし」

「ああ、そうだ、美術館の警備員は?」

「何も見てないし聞いてないって言ってる。事務室の窓から入ってきたのなら気づいたはずだって言ってるよ」

「じゃあ、その警備員自体が犯人っていう可能性は? 確かに警備員ならデータの改ざんなんていらないですよね」

「なきにしもあらずだね。ただ、自分しか疑われない状況にあるわけだから。しかも、窓からの侵入はないって言っちゃってるから。彼が犯人なら、その辺を有耶無耶にするだろうね」

「でしょうね。けど、彼らは職業柄、その辺は断言しないといけない事情もありますけどね。……あと、動機的に怪しい人物はいないんですか?」

「動機だけなら、いるよ。まず岸義行。まあ、要するにお金がらみのトラブルってやつだよ」

「借金、ですか?」

「いや、経費の着服が疑われてる」

「わかりやすい」

「ま、殺したからといって疑いが晴れるわけじゃないけど。少なくとも、最近の二人の関係はあまりよくなかったらしい」

「へえ。……あとは? まず、ってことはまだいるんでしょう?」

「後は、うん。いないわけじゃないけど。美作幸子。リストラの最上位リストだったらしいよ。真面目なんだけど仕事ができないって評判らしい。何度も館長に雷を落とされてるのが目撃されてるし」

「……それだけで?」

「だから言ったじゃん。いないわけじゃないけど・・って」

「わかりました。それだけですか?」

「それだけだね。ああ、あと状況だけ見れば妻の寺坂由美。動機はよくわからないんだけど、陽一の保険金が増額されてた」

「めちゃ、怪しいじゃないですか」

「けどねえ……。増額されたのは一年以上前なんだよ」

「怪しまれないように待ったんじゃないですか?」

「それに、額もたいしたものじゃない。あ、いや。そりゃ生保だし、増額してるから結構な額なんだけど。それ目当てに殺すなら、もっと掛けるね僕なら」

「それも怪しまれないように……割りに合わないですか」

「ああ、僕ならやらない」

「いくらですか?」

「教えない」伊勢が片目を瞑って笑って見せた。

「……本人は何て?」

「もしものために、だそうだ」

「夫婦仲自体はどうなんですか?」

「外面はとてもいい。けど実際は知らない」

「そうですか」

「今のところ怪しいのはその3人くらいかな。それじゃ、そろそろ仕事に戻るよ」伊勢は勘定を持って立ち上がった。猪狩が財布を取り出したがそれを制する。

「ご馳走様です。それじゃ。頑張ってください」

 頼らないと言いながら、ほとんど喋ったな、と思った。

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