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第一章 非対称な彼と彼女

季節はずれは許してください……。冬に投稿する予定だったんですよ。

1、

「……なあ」猪狩康平はぶっきらぼうに言った。別に機嫌が悪いわけではない、はず。たいてい彼は抑揚のない声で話す、それが普通なのだ。

 彼はポケットに手を突っ込んでいる。その方が格好良い、といった小学生じみた考えではない。単純に寒いのだ。

 季節は冬。いくら温暖化だの、エルニーニョだの、異常気象だの言っても寒いものは寒い。

 いくら積雪量が減ってきているといっても積もるものは積もる。つまり寒い。

 とはいえ、やはり年々暖かくなってきているのは事実のようで、歩道こそ雪の白で塗装されているものの、車道は車の熱で雪が溶かされてまだまだ黒い。

 クリスマスまでには積もるだろうか。実際、積もらなかったところで全く困らないのだが。

 しかし、積もろうが積もらまいが、結局は寒い。何度も言うが寒い。時折吹き付ける風は刃物のように猪狩の頬を切りつける。耳が熱くなっているのがわかる。鏡を見ればおそらく真っ赤になっているのだろう。髪の毛を掻き分けて耳を触ると、やはり熱い。髪を掻き分けたことで気が付いたが、だいぶん髪が伸びてきた。そろそろ切らなくてはいけないなと彼は思った。しかし、髪を切ってしまうと風通しがよくなって、余計に寒くなってしまう。どうしたものか。

 これだけ言えば察しはつくであろうが、猪狩は寒いのが苦手である。肩も竦めてできるかぎり表面積を減らそうと努力をしている。朝に弱い、寒さに弱いと、まるで駄目な人間だが、猪狩自身は気にしていない。

「何?」大げさなまでに寒がっている猪狩の横で歩いている矢式奈美香が聞き返す。彼女はというとそれほど寒そうではない。

「俺は美術品とか、全然興味ないんだけど」

「あら、奇遇ね。私もあんまり知らないの」

 間髪をいれずにそう切り返す奈美香に猪狩は口を閉ざした。ここまで開き直って言われれば何も言い返すことができない。猪狩は黙り込んだ。そのまま帰ろうかとも思ったが、さすがに彼女の逆鱗に触れると考えて思いとどまった。彼女の逆鱗に触れたところで、あちらにも正当性はないのだが。ところで、竜の鱗が一つだけ逆さまに生えるなんて設定、誰が思いついたのだろうか。

 会話もないまま、綺麗に碁盤の目のように整備された道路を歩く。日曜日の午前中、もっぱら人々は駅前に集まり様々な店舗を見て回っているのだろう。一方、彼らはその駅から次第に離れていった。彼らが向かっているのは駅から少し離れたS市美術館である。

「わかったわよ」やや間があって、奈美香が諦めたように口を開いた。

「何が?」

「訳を言えばいいんでしょ?」

「最初にそれを言うのが普通だと思うけど」

「うるさいわね。怜奈に入場券もらったのよ。親戚にもらったんだって。けど、怜奈が風邪引いちゃって。せっかくもらったのに行かなかったら失礼でしょ? それであんたがピンチヒッター」奈美香は指を差して言う。

「指を差すな、指を。別に俺じゃなくても……いや、いい」

「だって、友達にこういうの好きそうな人いないんだもの」想像通りの答えである。というより、興味ないと堂々と宣言するのは失礼ではないのだろうか。

「俺も全然興味ないんだけど」

「さっき聞いた」

 猪狩は無性に腹が立ってきた。なぜこうも、振り回されなくてはいけないのか。別に藤井でも……、否、彼が美術館でじっと鑑賞している姿を想像できないし、彼と奈美香が二人でいるのも想像できない。東京タワーがS市のテレビ塔の二倍の高さであるとか、スカイツリーが四倍であること以上に想像できない。

 奈美香は藤井を目の敵にし過ぎのような気がする。別に仲が悪いというわけではないのだろうが。

 話を戻すが、なぜ自分が。

「ったく、俺はお前の何なんだよ?」

 そう言うと数歩先を歩いていた奈美香が立ち止まって振り返る。怪訝そうに猪狩を見つめると首を傾げて再び歩き出した。

「おい、何だよ」


2、

 S市美術館は中央区のビル街の外れに位置し、主に明治以降の地元に関する美術品の収集・展示を行っている。数年前に解体の話があり、取り壊される予定であったが、地元住民の反対があり、民間委譲する形で落ち着いたた。そのため、S市の名前はついているが、私営美術館である。

 周りはビルで囲まれ、車の量も多いが、ここだけは芝生の前庭などもあり(今は雪に埋もれて見ることはできないが)、都会のオアシスとでも形容できる。

 真っ白な壁に合掌造りを進化させたような大屋根、ガラス張りの二階、玄関前には抽象的なオブジェと、何とはなしに近代をイメージさせる建物であった。

「綺麗ね」奈美香が呟いた。それに猪狩も同意する。オブジェはよくわからなかったが。

 中に入ると目の前に受付があり、両側には展示室がある。左は自館のコレクションを展示する「常設展」で右が国内外の優れた作品を展示する「特別展」だそうだ。つまり、他の美術館から借りているのだろうか。怜奈がもらってきたのは常設展のチケットだった。

 チケットは既にあるので、受付には寄らずにそのまま展示室の入り口まで行きチケットを見せる。半券を受け取り中へと入った。

 日曜日であるにも関わらず、中は閑散としていた。静かに鑑賞する人がちらほら見れるものの、それほど多くはない。採算は取れているのだろうか、などと考える。

 一階は主に絵画が展示されていた。おそらく油絵だろう。猪狩にとってはまずそこからが怪しい。それほどに美術に乏しいのだ。もしかしたら水彩画かもしれない。水墨画ではないだろう、そのくらいならわかる。

 絵によってそれぞれタッチが異なる、ように見える。複数の画家、おそらく同一年代の絵画の特集なのだろう。綺麗だ、と思うようなものもあれば、よくわからないものまで多岐にわたって展示してあった。

 一つの作品にかける時間はたいがい人それぞれで、猪狩は奈美香よりも早かったが、先に行ってもどうせ待つことになるので、一枚一枚奈美香のペースに合わせていた。

 先へ進むと、途中に螺旋階段があった。先にはまだ展示が続いていたが、ひとまず置いておいて二階へと上がることにした。

 二階はうって変わって、オブジェが並んでいた。ほとんどが木彫で抽象的だった。もっとも、「具体的な作品」というのはないのだろうが。どうやら、同一作者の展示らしい。もちろん名前を見てもわからない。もちろん、とつけるのは失礼か。

 二階の作品も見終わり、一階へと戻り、それも見終わると一度ホールに出て、今度はホールの階段から再び二階へと上り、ロビーで休憩することにした。二回にはレストランもあり、鑑賞に飽きたのであろう子供がしきりに食事をねだっていた。もうそんな時間だろうかと左腕の時計を見るが、まだ十一時を少し回ったところだった。子供には美術品の価値をわかるにはまだ早いのだろう。人のことは言えない猪狩ではあるが。

 二人はソファーに腰掛ける。奈美香が大きく息を吐いた。

「綺麗だったけど、全然知らない人だったわ」

「お前はピカソやゴッホを期待していたのか?」

「うるさいわね。一人くらい知っている画家くらいいると思ったのよ」

「東京に行けば、見れるかもな」

「東京、ね……」そう呟くと奈美香は窓の外に目線を走らせる。

 外から見えていたガラス張り。そこがこのロビーである。大きな前庭を望むことができるここは夏ならば緑で覆われていただろう。もう少し雪が降ってくれればそれもまた趣があるかもしれない。残念ながら雪もまばらな今は物足りなさが勝ってしまう。

「康平はどうするの?」

「何が?」

「就活」

 東京、という単語で想起したのだろう。

「ああ。……考えてない」

 彼らはO大の三年生である。季節は冬、つまり就職活動が始まっているのである。今日ここに来たのも合間を縫って来たのだ。とはいえ、本格化するのは年を越してからだから、合間を縫ってというほどでもないかもしれない。

「東京行くの?」

「さあ? まだ何にも。お前は?」

「私は、ちょっと行きたいかなって」

「そう。いいんじゃない?」

「でも、迷ってる」

「珍しいな」

「何が?」

「北海道民は絶対道内に残りたいか、絶対道外に出たいか、のどちらからしいよ」実際、そんなはずないと思いながらも、どこからか聞いた話題を猪狩は話す。

「あんただって、どっちでもないじゃない」

「ああ、正確な統計じゃないからな。正確な統計だとしても信用できないな。血液型で性格が決まったり、星座で運勢が決まったりしないのと一緒だよ」

「ああ、何かわかる。人間の性格って四種類じゃないでしょ? っていつも思うもの」

「だろ? 話が逸れたな。何だっけ?」

「就活」

「ああ、そうだ」

「康平は志望業界とかあるの?」

「さあ。ただ、商社とか大手メーカーって柄じゃないな、とは思うけど」

「そうかしら? 意外とさまになってるかもよ? ま、営業って柄じゃなさそうだけど。あんた喋り苦手だものね。どっちかって言うと事務系っぽい。でも、今じゃどこも営業ばっかりよ。どうするの?」

「……別にお前に事務って決められる筋合いはないぞ。というか母親かお前は」実は数日前に母に全く同じことを言われていた。ここまで、コミュニケーション能力を疑われると些か腹も立ってくる。「お前はどうなんだよ?」

「私? 私はやっぱりメーカーかな? 別に金融でもいいんだけど」

「やっぱりの意味がわからん。てか、こんなとこまで来てこんな話したくないな」そう言って猪狩はため息をつく。それを見て奈美香も苦笑した。

「はは。それもそうね。せっかくだから特別展の方も見ようか」

 二人はチケットを買うために一度階段を下りようとしたとき、どこからか悲鳴が聞こえた。静かだった美術館中がさらに静まり返る。だが、次第にざわつき始める。

「何!?」いち早く反応したのは奈美香である。

「マジ、勘弁」何が起きているか容易に想像ができた猪狩は、誰に言うわけでもなく呟いた。

 普通に考えればありそうにもないこと。だが今の悲鳴を聞けばそれが一番可能性が高いこと。そういえばいつだったか考えたことがある。呪われているのは誰だ、と。間違いなく自分か奈美香だろうと、認めたくないながらも猪狩はそう思った。

「どこ?」

「たぶん、あっち」猪狩は階段よりも奥にある扉を指差した。「関係者以外立ち入り禁止」の立て札が立っている。猪狩の指した扉を確認すると奈美香が駆け出す。

「おい、関係者以外……」

「そんなこと言ってる場合!?」奈美香は猪狩の制止も聞かずに扉を開け奥へと進んでいく。それを見て猪狩はため息を一つつくとゆっくりと扉をくぐっていった。


3、

 扉をくぐると左手に階段があった。それを無視して進むと、左手に通路があったので左に進む。いくつか部屋があった内の、一番奥の右側の部屋の前で女性が尻餅をつき、恐怖を張り付けた顔で部屋の中を見ている。

「どうしたんですか!?」奈美香が尋ねる。

 女性は答えなかった。代わりに指を部屋の中に向けて差す。奈美香は駆け寄って中を確認しようとした。覗き込んだところですぐに顔を逸らす。

「見ない方がいいわ」

「それって普通、男の台詞だよな」

「知らないわよ」

「見ないよ」

 階段を駆け上がる音が聞こえる。異常に気づいた職員だろう。何と弁解すればよいだろうか。

「どうしたんですか!? ……君たちは?」四十代か五十代ほどの長身の男性が走ってきた。猪狩と奈美香を見て不審げに顔をしかめる。

「すみません。悲鳴が聞こえたもので……」奈美香が申し訳なさそうに言う。だが、もしかしたら申し訳ないとは思っていないかもしれないと猪狩は思った。最近どうも彼女の身振り素振りに対して疑心暗鬼になりつつある。さすがにあまりよい兆候ではない。もっと、素直に感じ取るのも大事かもしれない。

「寺坂さん!?」男は尻餅をついている女性を見て驚きの声を上げた。「どうしたんですか!?」

 女性は首を振るだけで何も言わない。業を煮やした男は猪狩たちを押しのけて部屋へと入る。遅れてさらに三人の職員らしき人たちが階段を上ってきた。

「うっ……」中に入った男は短いうめき声を上げた。「館長……?」

「どうしたんですか、岸さん!? あれ? 君たちは?」二十代後半程の男性が、先ほどの男――岸というらしい――と同じような反応を示した。

「すみません。悲鳴が聞こえたもので」今度は猪狩が言った。奈美香の台詞の丸写しである。

「……だれか、警察を呼んでください。館長が殺されています」岸が部屋の中から出てきて言った。口を押さえて嗚咽を我慢しているようだ。「誰でもいい。美作、君が行きなさい。君は見ない方がいい」

「は、はい!」美作と呼ばれた三十代ほどの女性が駆け出した。途中で躓きそうになりながら、ふらふらと走っていく。

「おい、ちょっと待て! 館長が殺されたってどういうことだ?」最初に来た男と同年代ほどでふくよかな体格の男が不機嫌そうに言う。そして中を確認しようと前に出て、猪狩を押しのける。猪狩は押されるようになって、一緒に部屋の中に転がり込む感じになってしまった。

「っ!? ……これは」男は呟く。

 猪狩は顔を上げる。

 赤い絨毯が敷き詰められた部屋の中は美術品が数多く飾られていた。入り口の左右には鎧が、右の壁には絵画が三点、左には二点飾られ、奥の角には左右とも棚の中に工芸品と思われるものが多数入っていた。

 天井を見渡せば、小洒落た照明が部屋を照らしている。部屋の端から端まで伸びている暖房用の太いパイプが悪目立ちしていた。おそらくこの部屋の持ち主はどうにかしたかったに違いない。

 こんなことを考えているのは現実逃避に他ならない。

 部屋の中心にはテーブルとソファ。いずれも高級品に見える。ドラマの社長室などに置いてありそうである。その奥には机が。

 そしてテーブルの手前には血まみれの剣が。男の体が。その首が。

 見たくなかったのに。猪狩は思った。


4、

「また君か」

 現場に到着した伊勢浩太郎の第一声である。

「あの、その目暮警部みたいな言い方やめてもらえます?」猪狩はできる限り迷惑そうな顔を作って言った。伊勢はその猪狩の表情を見て肩を竦めたが、何も言わない。

「伊勢さん、お久しぶりです」奈美香が礼儀正しくお辞儀をする。

「久しぶりってことは平和だってことだね」

 三人はここ一・二年で頻繁に会うようになった。と言うのも、猪狩と奈美香がよく事件に遭遇し、伊勢が刑事であるという単純な仲である。だが、猪狩が事件を解決することが多く、それ以上の関係にはなりつつある。

「平和になったら、私たち、会えなくなっちゃいますね」

「まあ、そうでしょ。その方がいい」伊勢は片手を挙げて部屋へと入っていった。

 二人は一階の事務室へと通された。無断で入ったとはいえ、この状況で美術館側も邪険に扱うことができなくなったのだろう。事務室の応接用のソファに案内され、先ほどの若い男がお茶を運んできてくれた。男にしては背が低く、ビジネスショートというか、前髪を上げた短髪で爽やかな青年である。

「あ、ありがとうございます。えっと……」

「ああ、新川です。新川彰です」彼自身は向かいのソファには座らずに、立ったまま自己紹介をする。

「あ、それじゃあ、怜奈の従兄さんですか?」

「え? 怜奈の友達?」新川は目を丸くした。急にケント・デリカットが思い浮かんだが、彼ほどではない。

「ええ、大学で一緒なんです」

「へえ。え、じゃあ、怜奈も来てるの? チケットあげたから。あれ、でも三枚もあげたかなあ?」

「風邪引いちゃって……。来たがってたんですけど」

「ああ、そうなの。今の展示会は今日が最終日だからね。仕方ないか。お大事にって言っておいてよ。はあ……これから大変そうだな」そう言って新川は去っていった。

 奈美香はお茶を一口すするとため息をついた。

「新川さんが犯人じゃなきゃいいけど……」

「犯人だといいって人はあまりいないと思うけど」

「あのねえ……。はあ、あんたと話すると疲れるわ。それより、変じゃない?」

「何が?」

「この事件がに決まってるでしょ!」

「変なことだらけだよ」

「真面目に考えてる?」

「真面目に考える必要はないと思うけど、真面目に答えてるよ」

「じゃあ、言ってみなさいよ」

「場所がおかしい。関係者以外立ち入り禁止の場所で犯行を行うなんて、自分は関係者ですと言ってるようなものだ。もちろん、俺たちだって関係者以外で、ここに入ったわけだけど。あと、犯行時間が長すぎる。見たところ現場に血はそれほど吹き出てなかったから、死後数時間たってから首を切ったということになる。ってことは、血が固まるまでその場で待っていたか、血が固まるころを見計らって戻ってきたか。それと、そこまでして何のために首を切断したのか」

「わかってんじゃない」

「首を切断した理由も大体は想像つくけど」

「言ってみなさいよ」

「今度はそっちの番」猪狩はお茶に口をつける。熱い。思わず顔をしかめた。

「いいわ。本来、というか、小説でよく見られる首の切断っていうのは、基本的に被害者を誤認させるため。つまり、顔がわからないから、服装で判断させたりして誤魔化すわけよ。ただ、その為には首を持ち去らなきゃいけないし、最近の科学技術でDNA鑑定なんて出てきたから、この手は使えないわ。今回はそうじゃない」

「御託が長い」

 第一、小説の話を”本来”というのは正しいのだろうか。

「つまり」猪狩を無視して奈美香は続ける。「そういうことをなしに、リスクを承知で首を切らなきゃいけなかったのは、首に何かあったからと考えられるわ。死後に切断されたとすれば、理由は簡単よ。おそらく死因は窒息死、さらに言えば絞殺。で、首を切ったのは絞殺痕を消したかったからよ。たぶん、今の科学技術なら、絞殺痕から犯人の身長くらい割り出せるでしょうから、それを何とかしたかったのね。ってことは犯人はとても大きかったり、その逆だったり特徴的なんでしょうね」

「絞殺じゃ身長はわからないよ。でも、よく考えるね」

 どこからか拍手が聞こえてきた。あたりを見渡すと伊勢がこちらに歩いてくる。

「扼殺だと、指の大きさから身長を割り出せるんだけど、ロープなどによる絞殺だとたいして角度も変わらないからね」

「あ、そうなんですか?」

「うん。だいたい、絞殺だと首に対して水平になるね」

「へえ。他に何かわかったことは?

「例によって僕の立場上詳しくは言えないよ」

「今は、ですよね?」

「君のこと嫌いになってもいいかい?」伊勢は苦笑する。

「やめてくださいよお」対して奈美香は笑顔で受け答えた。

「まあ、言えない代わりと言っちゃなんだけど、君たちはもう帰っていいよ」

「え? いいんですか?」

「いいよ。君たちは犯人じゃないってほぼ決まってるから」

「うわあ、何か推理小説の主人公みたいですね!」

「僕は読まないから知らないけど」

「面白いですよ。読んでみたらどうです?」奈美香は上品に首を傾げて伊勢に尋ねた。

「本物の警察官に作り物を薦める?」


5、

「落ち着きましたか?」伊勢は穏やかな声で尋ねた。

「……はい。すみません」寺坂由美は俯きながら答えた。

 ここは事件現場の隣の部屋である。今は特に使われてないらしく、丁度よく長机とパイプ椅子があったため使わせてもらっている。テーブルの上には部下の池田が下の事務室からもらってきたコーヒーが置いてあるが、彼女は全く手をつけていない。

 池田はといえば、伊勢の後ろでそわそわとしている。何をしているんだ。

「話しづらいとは思いますが、ご主人を発見したときのことをお聞かせ願えませんか?」

 しばらく寺坂は黙って俯いていたが、やがて微かな声で話し始めた。

「ここの隣で作業をしていたんです。二階倉庫の目録の整理です。主人はたまに館長室に篭もって仕事をしていたので、一度も顔を合わせてなくても不思議ではありませんでした。ですけど、主人に聞きたいことができて、部屋に行ったら……」

 寺坂が黙ってしまったので、しばらく間をおく。その間も池田は挙動不審に体を揺らしている。

「朝は、ご主人の方が早いんですか」

「いえ、主人は泊まっていったんです。あの部屋の美術品は全て主人の私物なんです。家に置いておくより安全だからって言って。それをゆっくり見たくて、たまに泊まっていくんです。ソファで寝るのは体に悪いから止めるよう言ってたんですけど」

「朝も挨拶なしで?」

「ええ。一度仕事を始めたら本当に篭もりっぱなしで、邪魔するのも悪いので、主人が下の事務所に下りてくるまでは特に挨拶には行かないんです。今日は私が二階に行くことになりましたけど、仕事中でしたから」

「あなたが出勤したとき、誰が来ていましたか?」

「ほとんどです。ちょっと来るのが遅かったので。誰が来てなかったかは特に見ていませんでした」

「何か、気づきませんでしたか?」

「いえ、特には。……あの?」寺坂は伊勢の肩越しに何かを見ている。伊勢が振り向くと池田を見ているようだった。

「あの……トイレは……?」

 こいつは……。それで先ほどからじっとしていられなかったのか。

「あ、部屋を出て左を行って、突き当りを左です」寺坂がそう言うと池田は礼を言って駆けていった。もう少し仕事中だという自覚を持てないのだろうか。寺坂にため息と思われないように大きく息を吐いた。

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