帰れる場所
前作の続編です。
森での穏やかな暮らしの中で、ナナが一歩を踏み出すお話になります。
よろしくお願いします。
朝の空気は、少しだけ冷たかった。
森の中に差し込む光が、やわらかく揺れている。
耳を澄ませば、どこかで歌うような声。
精霊に語りかける、いつもの旋律。
「セナ」
名前を呼ぶと、小さな背中が振り返った。
木漏れ日の中で、その髪がふわりと揺れる。
「なに?」
無邪気な声。
その足元で、風がくるりと回った。
——まるで、応えるみたいに。
「なんでもない」
思わず、笑みがこぼれる。
この子は、生まれたときからずっとこうだ。
精霊の気配を当たり前のように感じて、当たり前のように応える。
エルフの子どもたちの中でも、それは少しだけ特別だった。
そして——
この森は、それを当たり前のように受け入れてくれる。
あの日、何も持たずに迷い込んだ私を、受け入れてくれたように。
——あの日から、五年。
ここで過ごした時間は、
穏やかで、やさしくて。
気づけば、それが当たり前になっていた。
*
「ナナー!」
明るい声が、森に響いた。
振り返ると、軽やかに駆けてくる影。
長い耳を揺らしながら、にこやかに手を振っている。
「おはよう!」
「おはよう、アルス」
本当は、もっと長い名前があるらしいけれど。
みんなは、そう呼んでいた。
——アルセリオス。
けれど、その軽やかな笑顔には、短い名前の方がよく似合う。
「今日もいい天気だね!」
「そうね」
「こういう日はさ、外の方まで行くと景色が違うんだよ」
「外?」
「うん、森の外。ちょっと行ったところに、人族の街があってさ」
「危なくないの?」
「んー、まあ魔物はいるけどね。でも、慣れればどうってことないよ」
にこっと笑う。
悪びれる様子もない。
この森の中では、魔物の気配なんてほとんど感じない。
精霊たちが守ってくれている、この場所は——
ずっと、安全だった。
「結界の外は、ちゃんと“外”だからね」
アルスが肩をすくめる。
「でもさ」
少しだけ、声のトーンが変わる。
「その分、広いよ」
木々の向こうを見るように、視線を遠くへ向ける。
「森だけじゃないからさ。人族の街もあるし、もっと先には王都もある」
その言葉は、どこか楽しそうで。
少しだけ——眩しく見えた。
そのとき。
「ねえ!」
弾む声が、会話を遮った。
振り向くと、セナがこちらへ駆けてくる。
その足元で、風がくるりと舞う。
「見て!」
差し出された手のひら。
何もない——はずなのに。
ふわりと、空気が揺れる。
小さな光が、瞬いた気がした。
「すごいね」
自然と、言葉が出る。
驚きはある。
けれど、もう見慣れた光景でもあった。
風が、やさしく頬を撫でる。
まるで——応えているように。
「ほんと、すごいよね」
アルスが、ぽつりと呟いた。
「ここまで自然にやるの、あんまり見ないよ」
「そうなの?」
自分にとっては当たり前でも、外から見れば違うのかもしれない。
「こら、走るんじゃないよ!」
マルタの声が、森に響いた。
子どもたちが一斉に散っていく。
セナも、くすくす笑いながらその中へ戻っていった。
「元気ねぇ」
どこか呆れたように、けれど優しく呟く。
「あんたの子だろう?」
呆れたような声。
いつの間にか、マルタが隣に立っていた。
「でもまあ——」
マルタの視線が、セナの背中を追う。
「……元気ってだけじゃ、済まないかもね」
「そう、かもね……」
否定はできなかった。
「悪い意味じゃないよ」
「あの子は、この森にちゃんと愛されてるよ」
少しだけ間を置いて、マルタは視線を落とす。
「……うーん」
「……あたしじゃ、うまく説明できないね」
肩をすくめる。
「心配なら、リゼに聞きな」
*
リゼの家は、いつもと同じ匂いがした。
乾いた薬草と、少し甘い香り。
「どうしたの?」
「少し、聞きたいことがあって」
「セナのこと?」
「うん」
「やっぱりね」
リゼは静かに頷いた。
「エルフの中でも、あそこまで精霊と近い子は珍しいわ」
「精霊が寄ってくるんじゃないの」
「……あの子の方が、自然に触れてるの」
「普通はね、呼びかけて応えてもらうものなの」
「でもあの子は、もう“そこにいる”」
リゼの言葉に、ふとセナのことを思い浮かべる。
「だから、この森にいる限りは困らないわ」
「でも——」
その一言で、空気が少しだけ変わる。
「外では、少し勝手が違うの」
「人族は、精霊に頼らずに魔力を使うでしょう?」
「祝福の儀で、自分の力を知って、それを伸ばしていく」
「でも、あの子はどちらでもない」
「精霊と近すぎる」
「でも、人族として生きていくなら、そのままでは扱いにくいの」
「目立つわ」
「良くも悪くもね」
わずかに、息を呑む。
「それに——」
「寿命も違う」
「エルフと、人族では」
「この森にいれば、あまり意識しないかもしれないけど」
「外では、そうもいかないわ」
「いずれ、あの子は人族の中で生きていくことになる」
「出会う人も、選ぶ道も、きっと増える」
「だからこそ——」
リゼは、静かにナナを見る。
「知っておいた方がいいと思うの」
「外の世界を」
「そして、あの子自身の在り方を」
リゼの家を出ると、森の空気が少しだけ違って感じた。
変わったわけじゃない。
けれど——
自分の中で、何かが揺れている。
このままでもいい。
ここは安全で、優しくて、守られている。
それでも。
「……このままで、いいのかな」
ふと、セナの姿が思い浮かぶ。
笑って、風と遊んでいる姿。
この子は、この森で生きていける。
でも——
そのとき。
風が、止んだ。
静けさの中で、ひとつの気配。
木々の奥から現れたのは——
鹿だった。
あのときと同じ、やわらかな気配。
「……あ」
思わず、声が漏れる。
あのとき、導いてくれた存在。
鹿は、静かにこちらを見ていた。
そして。
ゆっくりと視線を動かす。
その先には——
セナ。
風が、やさしく巡る。
鹿は、それを見守るように目を細めた。
まるで——
確かめるように。
そして。
小さく、頷いたように見えた。
次の瞬間には、もういなかった。
「……」
胸の奥の迷いが、少しずつほどけていく。
ここは、終わりじゃない。
離れることは、失うことじゃない。
ちゃんと、繋がっている。
そう思えた。
「セナ」
「なに?」
「少し、遠くに行ってみようか」
「とおく?」
「うん。森の外」
一瞬のあと。
「……おかあさんと?」
その言葉に、思わず笑ってしまう。
「もちろん」
「いく!」
迷いのない声。
自然と、笑みがこぼれた。
怖さは、消えない。
それでも——
「大丈夫」
小さく、そう呟く。
ここは——
帰れる場所だ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
前作に続くお話として、ナナの次の一歩を書きました。
また続きを書けたらと思っています。




