34.朱いすずめ
二人から逃げ切った男は、寺院の屋根の上で糸のように細い目で地上を見下ろした。
「悪質……ねぇ」
トン、と屋根を蹴り地面に降り立つと、ちょうどそこには水たまりがあった。
水しぶきが上がり、泥が跳ねる。
「あちゃぁ……やってもた。泥汚れは落ちにくいんやけどなぁ」
泥を拭いながら、ふと水溜りに映る顔を覗き込んだ。赤茶けたざんばら髪をつまんでみる。
「ふふ、朱雀なんて我ながら皮肉がきいとる。ええ名前や」
朱雀とは男が自分で名乗るためにつけた名前だ。本名はあるのかないのかすら知らない。
朱雀は元々浮浪児だった。
過去を振り返れば、頭の中に広がるのは土埃と朱色だ。
彼は西の貧民街で生まれ育った。
乾燥し、砂漠が近いせいで常に土埃が舞う。
ひっきりなしに商人が行き来する街はけばけばしく、朱色の柱に鮮やかな緑の垂木、夜には提灯が灯されてさらに朱を目立たせた。
朱雀の独特な言葉遣いは、商人たちから盗んだものだ。軽い口調で他人の懐に潜り込む。
「なんやぼうず。いっちょ前に俺らの真似しとるんか?」
「せや。かっこええやろ?気取ってへんのがええ。」
「おお、わかっとるやん。せやねん。東のやつの話し方はサブイボ立つわ」
商人に気に入られて手伝いをさせてもらえるようになった。時折金品をくすねたりしたが、一度もバレたことはなかった。
代わりに別のやつが折檻を受けていたが、そいつの要領が悪いのだ。
一応塗り薬を渡してやったが睨まれた。
ある時、商人が運んでいた1つの像が目に止まった。
「なぁおっちゃん。この赤い派手な鳥なに?」
「はは、派手な鳥か。これは朱雀や。
四神言うて、まぁつまり神様やな。あっちに他の四神の像もあるで」
「へぇ……」
赤くて派手な鳥の神様。
それを糸のように細い目がじっと見つめ、自身の赤茶けた髪を摘んでいじった。
「おっちゃん、それ、どんな字書くん?」
“朱雀”
何度もその字を地面に書いた。
意味は「あかいすずめ」らしい。
随分と可愛らしいことだ。気に入った。
「俺は、朱雀や。赤いすずめの、朱雀や」
ある時、朱雀は気づいた。
自分は他人に見えないものが見えていることに。
夜になると光がすう、すうっと目の前を通り過ぎていく。
誰でも見えるものかと思っていたがそうではないらしい。
何かに使えないか、と思った。
「ん? お前、まじりか」
行きずりの道士崩れにそんなことを言われた。
そこから朱雀の人生が一変した。
自分に妖の血が混ざっていることをそのとき初めて知った。
きっと親にはそのせいで捨てられたんだろうが、そんなことはもういい。
「俺には“気”が金に見えるわ」
術の基礎を面白半分にその道士が教えてくれた。
朱雀にとってはそれで十分だった。
訓練すれば気は明るかろうといつでも見えるようになった。扱い方さえわかれば、あとは簡単だ。
「陰陽の気を狂わすだけ。そんだけでみぃんな俺をありがたがる。ちょろくて笑えるわ」
くすくすと笑いながら気の光に手を伸ばした。
ただ手を伸ばしただけでは気は動かない。
その手をすり抜けて、すう、すう、と光の筋が走るだけ。
だが、朱雀は知っているのだ。どうしたらこれを動かせるのか。だからやる。
『いずれ取り返しがつかなくなるぞ』
きらめく黒曜石の瞳を思い出して、伸ばした指先を握り込む。
「そんときはそんときや。退治でも何でもしたらええ。バチが当たるまでは好きにさせてもらうで」




