19.【Side.景朔】回想
采蓮の家を出た景朔は、桃園の端にある池の畔に立っていた。
匂い立つ桃の花々は、花弁を散らしながら水面を淡く染め上げている。
所々に、みずみずしく薄っすらと花弁の先を透かした白い睡蓮たち。
ここは天界の外れである。
「いやはや、全くあの男は……」
かつて、憂いに満ちた瞳でこの水面に視線を落としていた同胞に思いを馳せる。
触れれば消えてしまいそうなほど儚く、危うかったあの者が。
「ああも突き抜けましたか」
ぷっ、とまた思い出して吹き出した。
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パチン
囲碁を打つ音が響いた。
それだけで下界の何かが動いている。
「凌霄よ」
男とも女とも取れる、老人とも子どもともつかない冷たい声が隣の友を呼んだ。
「御前に」
凌霄が一歩前に出て拱手する。
それを一瞥することもなく、ただ一言。
「この、人の王は……歪だ」
パチン
どのように歪かなど説明はしない。
察する必要すらない。
今その一言で、一人の命運が決まったのだ。
「…………」
すぐに返答しない凌霄に、景朔は内心でヒヤヒヤした。
つまらなそうに碁を打っている彼らは、景朔達天仙であっても理解の及ばぬ“理”そのものだ。
凌霄と付き合いの長い景朔は、彼の背中を見て何を考えているのか察した。
(さっさと頷けばいいものを。本当に、不器用ですねぇ……)
結局、そのとき凌霄は、何も言うことなくただ深く頭を下げた。
御前を辞した後、互いに一言も発さぬまま、いつもの場所へ向かった。
桃色の楽園。桃源郷とも呼ばれるそこは、ただひたすらに美しく完璧だ。
その中に、小さな池がある。
凌霄は物思いに耽るときはそこにいることが多かった。
そして、それを知る景朔もまた、よくここに来た。
凌霄が舞い落ちる花弁の中で静かに瞳を伏せた。
「景朔よ。おかしいとは思わぬか」
「思ってはいけないのですよ、おばかさん」
そんなことだろうと思っていた。
凌霄は天仙となってから物憂げに考え込むことが増えた。
「“無為自然”とはなんだ。私の信じた道は、こんなことではない」
「あー、もう」
凌霄の口を手のひらで塞いで黙らせた。
もがもがとなにやら言っているが、気にしない。
「あなたは危なっかしいんですよ。いいでしょう? ”理”に従う。何もおかしくない」
景朔の手から逃れて ぷはっと息継ぎをした凌霄は、桃の木の幹に背を預けた。
彼の頭上にひらひらと花弁が舞い落ちる。
「人の世は人のものだ。
蟻だろうと木々だろうと同じこと。
このような薄ら寒いところで天から碁盤で弄り回すようなものではない」
「凌霄、もうそのへんに……」
「見よ。この池を。蓮が咲いているというのに水が澄み渡っている。これのどこが自然なのだ」
景朔がこれ以上言わせないよう、また彼に手を伸ばしたのを、凌霄の黒曜石の瞳が射抜いた。
ただ前を向く、きらきらと煌めいた瞳。
(ああ、またあなたはそういう顔をして……)
「景朔よ……私は、天界を降ろうと思う」
(そういうことを、言う人なんですよねぇ。)
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……随分と昔のことを思い出した。
景朔は、あのとき彼へと伸ばした自らの手を見下ろして、ふっと笑みを浮かべた。
自分は今でも“理”に従い、この場所にいるというのに。
自分が、天が、間違えているとは思っていない。
それによって世界は回っているのだから。
けれど、あの真っ直ぐな瞳を眩しいと思うことはあった。
(それにしても……)
あの、”まじり”の少女。
「采蓮、ですか。実に面白い。」
凌霄は、泥池に咲く蓮を見つけたのだろうか。




