ハッピーエンドに悪役令嬢の断罪を
玉座の間に王太子アルフォンスの氷のように冷徹な声が響き渡った。
「公爵令嬢セレスティーナ・フォン・リーゼンベルク!貴様との婚約を、これより破棄する!」
その宣告は静まり返った大広間に集う貴族たちの間にさざ波のような動揺を広げた。
ある者は扇で口元を隠して侮蔑の視線を私に向け、ある者は驚きに目を見開き、そしてごく一部の古い家臣たちは、憂いを帯びた表情で床を見つめている。
壇上に立つ私の目の前では庇護欲をかき立てる可憐な男爵令嬢リリアーナが、まるで嵐の中の小鳥のように王太子の腕の中でか細く震えていた。
これ以上ないほど完璧に仕上がった「断罪イベント」の舞台だった。
「まあ、殿下。今さら何を仰いますの?」
私はゆっくりと扇を広げ、作り上げた傲慢な笑みで口元を隠した。
内心で荒れ狂う絶望と悲しみの嵐を分厚い氷の下に封じ込める。完璧な悪役令嬢を演じきること。
それこそが私がこの世界で「善く生きる」ための、唯一の方法なのだから。
幼い頃、庭園で一緒に花を摘んだアルフォンスの優しい笑顔が脳裏をよぎり、胸の奥に鈍い痛みが走る。
その記憶さえ、私は今日、この場で殺さなければならない。
私が「前世」の記憶、自分が『星降る夜のセレナーデ』という乙女ゲームの悪役令嬢セレスティーナに転生したというお伽話のような事実を思い出したのは十歳の誕生日だった。
熱に浮かされたように三日三晩寝込んだ後、唐突に流れ込んできたのは、現代日本で生きていた平凡な女子高生の記憶とそしてこのゲームのシナリオのすべて。
悪夢のような啓示だった。
この物語においてセレスティーナは、聖女の力を持つヒロインでたるリリアーナに嫉妬し、その尊い力を我が物にしようと数々の悪事を働き、最終的には王太子アルフォンスに断罪され、幽閉ののち毒杯を賜る運命にある。
しかし、悲劇はそれだけではなかった。
ゲームにはプレイヤーでも滅多に辿り着けない隠されたシナリオが存在したのだ。
もし、何らかの理由でセレスティーナの断罪イベントが発生せず、彼女が順当に王太子妃となった場合、この国は三年後に「大いなる厄災」と呼ばれる天変地異によって滅亡する、という最悪のバッドエンドが待っていた。
理不尽な話だ。
だが世界の理とはそういうものらしい。
厄災を鎮めることができるのは王家の血筋と聖女の力が合わさった時にのみ発動する「救国の奇跡」だけ。
そしてその奇跡が起こる絶対条件は、二人が真実の愛で結ばれていること。
つまり、私が大人しくアルフォンス殿下と結婚してしまえば国が滅ぶのだ。
記憶が戻った当初、私は運命を呪った。
なぜ私が。
なぜこんな役割を押し付けられなければならないのか。
すべてを放り出してどこか遠くへ逃げてしまいたいとさえ思った。しかし、そのたびに私の脳裏に浮かぶのは愛する人々の顔だった。
国の未来を憂いながらも私にだけは優しい眼差しを向ける厳格な父公爵。
生まれつき病弱で微笑む姿さえ儚げな、それでも世界で一番美しい母。
そして「姉様、姉様」と無邪気に私の後をついて回る愛しい弟のフェリクス。
彼らはゲームのキャラクターではない。
温かい血の通ったかけがえのない私の家族だ。
彼らが生きる未来を守れるのなら悪役令嬢の汚名など喜んで受け入れよう。シナリオという名の「悪法」も、それが世界を救うための法であるならば、かの哲人ソクラテスが毒杯を仰いだように、私は従容と受け入れなくてはならない。
私の命一つでこの物語がハッピーエンドを迎えるのならそれこそがセレスティーナ・フォン・リーゼンベルクとしての、私の「善き生」の在り方なのだ。
そう覚悟を決めた時、私の心から迷いは消えた。
その日から私の「悪役」としての第二の人生が始まった。
リリアーナが特例として王立学園に入学してくると私はシナリオ通りに彼女に絡んだ。
「まあ、そのような安物の生地で作られたドレスで、殿方のお気を引こうとお思い?学園の品位が下がりますわね」
わざと聞こえよがしに囁き、取り巻きたちと甲高い声で笑う。リリアーナが悔しさに唇を噛みしめ、健気に耐える姿はアルフォンス殿下や他の攻略対象者たちの庇護欲を的確に刺激した。
建国記念の夜会ではシナリオ通りに彼女のドレスにワインを「誤って」こぼし、殿下とのファーストダンスの約束を台無しにした。
アルフォンス殿下が怒りに燃える瞳で私を睨みつけ、リリアーナを慰めるために彼女の手を取ってバルコニーへ向かう。
その背中を見送ると、胸の奥が氷の刃で抉られるように痛んだ。
殿下にはわざと異国の高価な宝石をねだり、無理難題を言って困らせ続けた。
彼の眉間に刻まれる深い皺を見るたびに、私の心もまた同じように皺を刻んだ。
本当は知的な彼と国の未来について語り合うのが好きだった。彼が淹れてくれる異国の紅茶が好きだった。
けれど、その感傷もすべて輝かしいハッピーエンドのための必要なのだと、何度も自分に言い聞かせた。
もちろん、ただ悪事を働いていただけではない。
前世の知識と、ゲームで得たシナリオの情報を総動員し、私は水面下で来るべき日に備えていた。
「大いなる厄災」の正体は大規模な河川の氾濫と、それに伴う疫病の蔓延だ。
私はリーゼンベルク公爵家の名を使い、匿名で有能だが不遇をかこっていた治水技官に多額の資金援助を行った。
『きたる未曾有の水害に備え、国土の北方を流れるラトス川の堤防を強化されたし』という手紙を添えて。
また、来るべき食糧難に備え、父には冷害に強い隣国の作物の種子を取り寄せるよう進言し、領地の民にはその栽培を奨励し、備蓄倉庫を拡張させた。
私の表向きの悪行が派手であればあるほど、人々の目はそちらに集まり、私の本当の狙いに気づく者はいなかった。
それでよかった。
すべてはあの輝かしいハッピーエンドのために。
そして今、私は断罪の舞台に立っている。
「これが決定的な証拠だ!」
アルフォンス殿下が突きつけたのはリリアーナの聖女の力を封じようとしたとされる、呪いの魔道具の「購入記録」だった。
もちろん、そんな物は買っていない。
巧妙に偽造された罠だ。
しかし、私が反論することはない。
「言い逃れはできまい!セレスティーナ、貴様の陰湿で嫉妬深い魂には、もううんざりだ!」
「……」
「私は、心優しく、誰にでも慈愛を注ぐことのできるリリアーナをこそ、妃として迎え入れたい!彼女こそ、この国の未来を照らす真の光だ!」
アルフォンス殿下の言葉が刃となって突き刺さる。
そうだ、それでいいのです、殿下。
あなたの選択は百点満点の正解です。
あなたは世界を救うヒーローなのだから。
私は唇の端をこれ以上ないほど優雅に吊り上げ、最後の悪態をついた。
「そうですか。そのような粗末な出自の女がお好みでしたとは。王家の威光も地に落ちたものですわね。どうぞ、お二人でお幸せに。わたくしには、もう関係のないことですわ」
私の言葉にアルフォンス殿下の顔が怒りで真紅に染まる。リリアーナが泣きそうな顔で彼を見上げる。
ああ、完璧だ。
これで物語の歯車は正しく噛み合った。
判決は、幽閉ののち、毒杯を賜うというものだった。
リーゼンベルク公爵家の面子を保った、最大限の「慈悲」らしい。
石造りの冷たい塔の一室。
鉄格子の嵌まった窓から非情なほど美しい月明かりが差し込んでいる。そこに一人の騎士が訪れた。
私の護衛を長年務めてくれた実直な男、コンラート。
「お嬢様。なぜ、何もおっしゃらなかったのですか。あなた様が、あのような卑劣な真似をなさるはずがない!あの購入記録の署名は、お嬢様の筆跡とは微妙に違いました。私が証言すれば……!」
「お黙りなさい、コンラート」
私は彼の必死の言葉を、冷たく遮った。
「私を誰だと思っているの?すべて、私がやったことよ。……でも」
一瞬だけ、悪役令嬢の仮面を外し、私は彼にだけ本当の微笑みを見せた。
「ありがとう。あなただけは、最後まで私の騎士でいてくれたわね。その忠誠心に、感謝します」
コンラートが息を呑むのがわかった。
彼は私の変化にずっと前から気づいていたのかもしれない。
「父様たちには、こう伝えてちょうだい。『リーゼンベルク家の娘として、最後まで誇りを失わなかった』と。それから……弟のフェリクスには、『これからはお前が、この家と国を守るのですよ。臆病風に吹かれてはなりません』とね」
それは表向き、出来の悪い弟への叱咤に聞こえるだろう。だが、フェリクスならわかるはずだ。
幼い頃、嵐の夜に怖がる彼のベッドサイドで私がいつも言い聞かせていた言葉だから。『お姉様が守ってあげるから、大丈夫よ』と。
コンラートが苦悶の表情で退出した後、入れ替わるようにして看守に連れられた神官が毒杯を運んできた。
紫色の液体が、銀の杯の中で妖しく揺れている。
私はそれを受け取るとゆっくりと窓辺に歩み寄った。
夜空を見上げる。
そこにはゲームのハッピーエンドを象徴する、ひときわ大きく輝く「祝福の星」が見えた。
ああ、シナリオは正しく進行している。
私の選択はやはり間違っていなかったのだ。
「これで、よかったのです」
誰に言うともなく呟き、私は杯を口元へと運んだ。
ソクラテスは友人たちと語らいながら死んでいったという。
私には誰もいない。
けれど孤独ではなかった。
私の胸の中には愛する人々の笑顔が、未来の平和な国の景色が、鮮やかに広がっていたから。
覚悟を決めて、杯を呷る。苦い液体が喉を焼く。
毒が体を駆け巡り、視界が急速に霞んでいく。
手足の感覚がなくなり、冷たい石の床に崩れ落ちた。
薄れゆく意識の中、私は未来を幻視する。
氾濫することなく穏やかに流れるラトス川。
そのほとりで、黄金色に輝く麦畑が風に揺れている。
そして、人々の屈託のない笑い声。
アルフォンス殿下とリリアーナが、民に祝福されながら寄り添っている。私の愛しい弟フェリクスが、たくましく成長し、父の隣で民を導いている。
ああ、なんて美しい、ハッピーエンド。
私の死の上に築かれる、光り輝く世界。
その光景に私は心の底から満足し、静かに微笑みを浮かべた。悪役令嬢セレスティーナの物語はここで終わり。これで良いんだよね。
セレスティーナが死んで半年が過ぎた。
あの日、彼女の死と時を同じくして王太子アルフォンスと聖女リリアーナの力が共鳴し「救国の奇跡」が発動した。専門家たちが予測していた「大いなる厄災」の兆候は奇跡の光によって完全に消滅したと発表され、国中が新たな王太子妃の誕生に沸き立った。
しかし、祝祭の喧騒の中、アルフォンスの心は鉛のように重かった。
セレスティーナの死後、心を痛めたリリアーナの頼みで二人で彼女の部屋を訪れた。
埃をかぶった机の引き出しの奥から、一冊の古い日記が見つかったのだ。
それはアルフォンスの手に渡り、彼はそこに記された、信じがたい真実を知ることになった。
『今日、すべてを思い出した。私はこの世界を救うために「悪役」を演じなければならない。愛する人たちの未来のために』
『殿下に嫌われるのは、心を引き裂かれるほど辛い。けれど、これが私の運命。私の愛の形』
『ラトス川の治水工事は順調。これで少しは被害が減るだろうか。父様には内緒の出費が嵩むけれど、仕方ない』
『フェリクスが、私の淹れたお茶を「世界で一番おいしい」と言ってくれた。この子の笑顔を守れるなら、私は……どんな罪でも背負える』
日記と共に治水技官との詳細なやり取りを記した手紙の下書きや、凶作に備えた食糧計画の緻密な計算書が何枚も見つかった。
彼女の「我儘」や「浪費」とされた金銭の多くが人知れず国の未来のために使われていたのだ。
彼女の悪行はすべて自分を断罪させ、国を救うための、悲しいほどに完璧な芝居だった。
自分はヒーローではなかった。
ただ、彼女がたった一人で書き上げた脚本の上で、主役を演じさせられていただけの、愚かな道化だった。
アルフォンスはセレスティーナの墓前に一人、崩れるように膝をついた。質素な墓石にはただ『セレスティーナ・フォン・リーゼンベルク』と、その名前だけが寂しく刻まれている。
「私が救ったのではない……。私たちは……あなたに、救われたのだ、セレスティーナ」
絞り出した声は、嗚咽に震えていた。
隣に立つリリアーナもただ、涙を流すことしかできなかった。
自分たちが手にした幸福が、尊い犠牲の上に成り立っているという事実に彼女の清らかな魂もまた深く傷ついていた。
空は半年前と同じように憎らしいほど青く澄み渡っている。
人々が謳歌するこの平和は、一人の気高い少女の、誰にも知られることのなかった自己犠牲の上に成り立っている。
その重すぎる真実を胸に抱き、アルフォンスはこれからを生きていかなければならない。
彼女が命を賭して守ったこの世界で彼女のいないハッピーエンドを。
それは彼と、そしてリリアーナに与えられた、永遠に終わることのない事実だった。