7.5話「乃愛のモノローグ」
夜の街をひとり歩きながら、私はヘッドホン越しに低く唸るようなベースの音を聴いていた。
音楽は、ずっと私の隣にあった。
小学生の頃、家にいるのが嫌で、夕暮れになると外をふらふらと歩いていた。暗くなるまで公園にいて、誰とも話さずに、ただ音だけを聴いていた。
最初はスマホに入っていた曲を聴くだけだったけど、あるとき、兄が部屋でベースを弾いていたのを偶然聴いた。
――これだ、と思った。
その重くて、でも芯がある音が、何もなかった自分を、少しだけ救ってくれた気がした。
その日から、私はベースを握りしめた。指が痛くても、誰にも聞かせるあてもなくても、それでも音を出すことが楽しかった。
……そんなとき、詩織に出会った。
家が近所だった。最初は偶然、庭でギターを鳴らしているのを見かけた。
小さなアンプを抱えて、無表情で音を出していた彼女。
声をかけると、最初は無愛想だった。でも、音楽の話だけは不思議と噛み合った。
気づけば、私たちはいつも一緒にいた。
あの頃は、私が詩織を引っ張っていた。
人前で演奏するのが怖いと言っていた詩織の背中を押して、文化祭で二人だけのライブをしたこともあった。
――でも、いつの間にか。
気づけば、今の詩織は、軽音部の中心にいる。
静かで、強くて、ギターを弾くその姿に、みんなが憧れている。
私だって、その一人だ。
そんな詩織が、あの日、あの“桐島智也”って男に笑いかけたのを見たとき。
胸の奥が、きゅうっと苦しくなった。
詩織が笑った。
私がどれだけ隣にいたって見せなかった、あの柔らかい表情を……あいつにだけ。
……なんか、詩織を奪われたような気がした。
別に、桐島が悪いわけじゃない。
ただ……私はたぶん、誰かに“ちゃんと”認めてほしかったんだと思う。
ちゃんと見てほしい。
詩織にだって、誰にだって。
強がって、尖って、ツンツンしてるけど――本当は、ずっと、誰かに“それでいいよ”って言ってほしかった。
だから、私はきっと、またベースを弾く。
その音で、誰かの心を動かせたなら――きっと、私にも“居場所”があるはずだから。
<現在>
旧校舎の、埃っぽい階段を上がるたび、部室に近づく音がする。
……あのギターの音。詩織の弾く音は、今日も澄んでいて、どこか優しい。
私は少しだけ立ち止まってから、扉を開けた。
「……詩織、また同じフレーズ繰り返してる」
「うん。ちょっと、指がなじまなくて」
そう言って、彼女は肩をすくめた。
部室の空気は静かだった。いつもより、少しだけ柔らかくて……その理由は、たぶん、あの男の子。
桐島智也――あの陰キャ男子。
最初は本当にただの“空気”だった。
でも、何度か顔を合わせて、部室で音を合わせて。今日、ドラムを叩く彼を見ていて、ちょっとだけ、胸の奥がザラついた。
(……まさか、リズム感、悪くないじゃん)
言わなかったけど、本当は思ってた。
そして、悔しいけどちょっとだけ……嬉しくもあった。
私と詩織は、音楽で繋がっている。
でも、桐島が入ってきたことで、彼女のギターがまた変わった気がした。
柔らかくて、今までより“誰かに聴かせる音”になっていた。
(……ちょっと、ズルいよ)
放課後のセッションのあと、美月が楽しそうにはしゃぐ横で、私はベースの弦を巻きながら、そんなことを思っていた。
「乃愛ちゃんって、ちょっとだけ怖いけど、でも実はすっごく優しいよね!」
不意に、美月が笑いながらそう言ってきた。
「は? 意味わかんないし」
ツンと返す。でも、否定できない自分がいた。
別に優しいわけじゃない。ただ、ちゃんとしたいだけ。
音楽だってそう。
中途半端な気持ちで踏み込んでほしくない。それだけのはずだったのに。
……なのに、どうして。
あいつのリズムが、詩織のギターにぴったりだった時、胸の奥が少しだけチクリとしたんだろう。
(ほんと、ズルい)
夕暮れの空が、窓の外で赤く滲んでいる。
私はベースを片付けながら、小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……また来るよね、あいつ」
そしてたぶん、私も――
次も、また音を合わせてしまうんだろうな。




