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存在しない昨日の話  作者: geko
第二章
9/21

第一話

 目が覚めた瞬間、ほんの少しだけ期待していた。

 もしかしたら、全部夢だったんじゃないかって。

 立ち上がって、鏡を見て――夢じゃなかったことに、嫌でも気づかされる。


 窓を開けると、やわらかな光が差し込んだ。春の風が、胸の奥をくすぐる。

 胸の奥が、ふわふわと浮いている気がした。


 今日から高校二年生。

 春休みが終わって、またいつもの毎日が始まるはずだった。

 なのに、“いつも通り”が、こんなに遠くなるなんて、思ってもみなかった。




 顔を洗って、部屋に戻った。

 制服は、昨夜のうちにハンガーにかけておいた。

 ブレザーと、ブラウス。そして……スカート。


 ……やっぱり、恥ずかしい。

 この格好で外を歩く自分が、どうしても想像できなかった。


 まず、ブラウスを着る。

 スカートを手に取って、しばらくじっと見つめた。


 どっちが前で、どのくらいの高さで留めるのか――考えても、正解が分からない。

 スカートに、そっと足を通す。

 腰まで引き上げるだけなのに、なんだか妙に難しく感じた。

 ホックの位置も、向きも、正解があるのかすら分からない。


 ブラウスの裾がスカートの中でもたついて、腰まわりに変なふくらみができる。

 ホックも左右どちらで留めるのが正しいのか分からず、何度かつけ直した。

 それでもしっくりこなくて、鏡の前で何度も裾を引っ張った。


 ――これ、合ってるんだろうか。

 ……女子の制服って、みんなこんな苦労してるの?


 鏡に映った自分は、見た目だけなら“女子高生”だった。

 でも、どう見ても“慣れてない”のが隠しきれていなくて、しばらく視線を逸らすしかなかった。


 なんとか整えようと、鏡の前でブラウスの裾を直していると――

 コン、コン、とドアを叩く音がした。


「お姉ちゃん、何してるの?」


 ドアの向こうから、日和の声がした。

 声の調子はいつもと変わらない。けれど、その声を聞いただけで妙に緊張してしまった。


「……ちょっと。着替え直してただけ」

「もう出る時間だよ。遅れるよー」

「わかってる」


 声を返しながら、ブラウスの裾を、またスカートの中に押し込んだ。

 それでも、違和感は残ったままだった。


 仕方ない、とため息をひとつ。

 ブレザーを羽織って、髪を整える。

 もう一度、鏡の中の自分を見つめた。


 ――これで、いい。たぶん。


 覚悟を決めるように、ドアノブを回した。


「……うわ、どうしたの。なんかスカート、へんなふくらみ方してない?」


 ドアを開けた瞬間、日和が開口一番にそう言った。

 気遣いとか、そういうのを覚える前の遠慮なさが、容赦なく胸に刺さる。


「え、やっぱおかしい?」


 とっさにスカートの後ろを押さえる。

 たしかに、裾のあたりが膨らんでいる気がする。いや、たぶん、してる。


「うん、おかしい」


 きっぱり言い切ったあと、日和は小さくため息をついて、そのまま私の前にしゃがみ込んだ。


「……もー、動かないで。直してあげるから」


 ブラウスの裾をちょっと引っぱって、スカートの中に押し込んでいく。

 慣れた手つきで、無言で。


「ほら、これで良いよ」


 そう言われて、スカートの後ろを押さえる。

 さっきのもたつきが、嘘みたいになくなっていた。


「……ありがと」


 “陽菜”なら、こんなふうに苦労せずに着こなしていたのかもしれない――

 そんなことを思いながら、お礼を言った。

 日和は何も言わず、私のスカートの裾をひと撫でするように整えて、すっと立ち上がった。


 そのときだった。


 がちゃり、とドアが開く音。

 わたしの部屋の奥――陽斗の部屋だ。


 足音がして、すぐそばまで近づいてくる。


「……あ」


 顔を上げると、そこに陽斗がいた。

 手にスマホ。無造作な髪。

 制服のボタンはまだ途中で、肩に鞄を引っかけたまま、部屋から出てきたところだった。

 相変わらず、“俺”の支度はギリギリみたいだ。


 そして、わたしと視線がぶつかった。


 一瞬だけ、沈黙。


「……ああ、なんかごめん」


 ぽつりと、そんなふうに言って、目を逸らす。


 わたしはとっさにスカートの裾を押さえた。

 もう直すところなんてなかったのに。


「お、おはよう」


 なにか言わなきゃ、と思って。

 朝のあいさつがまだだったことに、ようやく気がつく。


「おはよう、お姉ちゃん」

「おい、俺もいるんだけど?」


 陽斗の不満そうな声。

 “陽斗”だったときは、こういうやり取りの中の日和をちょっと憎らしく思ってはいたものの、

 こうして、ひとつ外側から眺めてみると、

 日和の陽斗に対しての、照れみたいなものが見えて――ちょっと面白い。


 ……それと同時に、“陽菜”として、この輪の中にいることが、どこか不思議だった。


 少しだけ間が空いて、日和がそっとわたしの方を見上げた。


「……ねえ、変じゃない? この制服」


 そう言って、スカートのすそをちょっとだけつまむ。

 さっきまでのツンとした態度が嘘みたいに、どこか不安げな目だった。


 こんなこと、ふだんの日和ならきっと言わない。

 今日は中学の制服を初めて着る日で――

 そのせいか、そわそわとした気配が、スカートのすそをつまむ指先にもにじんでいた。


「変じゃないよ。ちゃんと似合ってる」


 そう答えると、日和はふいっと目をそらす。


「……ふつうに言わないでよ、そういうの」

「……馬子にも衣裳、ってやつ?」


 陽斗が、わざと聞こえるように、ぼそっと言った。


「はあ!? なにそれ! 最っ低!」


 日和は思いきり睨みつけながらも、頬をふくらませて、ぷいっとそっぽを向く。

 その顔がなんだか、怒ってるというより――照れてるみたいだった。


 わたしは思わず、ちいさく笑ってしまった。

 たぶん、わたしが“陽斗”のままだったら、同じように言っていた気がする。


 でも、だからこそ分かった。

 陽斗は、真面目に返すことに――少しだけ、照れがある。


 そんなことに、ようやく気がついた。

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