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存在しない昨日の話  作者: geko
第一章
8/15

幕間 -日和視点-

 夜。

 喉が渇いて、私はそっと布団を抜け出した。


 階段を下りかけたところで、リビングの扉のすき間から明かりが漏れているのに気づく。

 ……誰か、起きてる?

 そっと足音をしのばせて、リビングのドアを開ける。

 そこにいたのは、陽斗だった。


「何してるの、陽斗」


 陽斗の肩が、ぴくりと小さく動く。

 まるで、見られたくない瞬間を見られたみたいに、背中にぎこちなさが走った。


「……なんだ、日和かよ」


 ゆっくりと振り返った陽斗の手にはプリンが握られていた。

 ちょっとバツが悪そうに、視線をそらす。

 人に見せるつもりじゃなかったものを、見つかったみたいな顔だった。


「なにそれ、なんで持ってんの?」


 思わず声が上ずった。

 プリンを見ただけで声が上ずるなんて、自分でもちょっと笑える。

 プリンは私の大好物だ。


「陽菜の。買ってきたけど、いらないってさ」


 言葉の意味が、一瞬だけうまく入ってこなかった。

 ……まさか陽斗が、そんなことをするなんて。


「私にそんなこと、してくれたことなんてなかったのに」


 私が軽くにらむと、陽斗は視線を外して、肩をすくめた。


「……別に、陽菜にしてやったのも初めてだよ」


 その言い方が、なんとなく引っかかった。

 ――きっと、陽斗も何かを感じたんだ。今日のお姉ちゃんに。

 ちょっとだけ、言葉の奥に、ためらう気配があった。

 そのわずかな揺れが、胸に残る。


 一瞬、言葉が途切れる。

 冷蔵庫のモーター音が、妙に大きく感じられた。


 陽斗が、ぽつりとつぶやく。


「なんか……今日の陽菜、ちょっと変じゃなかったか?」


 驚いた、というより――ドキッとした。

 そんなふうに思ってたの、私だけだと思ってたのに。


 その違和感は、私も感じていた。

 でも、誰にも話すつもりなんてなかった。

 うまく言葉にできなかったし、陽斗に言ったところで、どうせ伝わらないと思ってた。


 だからこそ、返事に迷った。

 「そんなことないよ」って、笑って流せば終わる。

 でも、口を開くよりも先に、思い出してしまった。


 今日のお姉ちゃん。

 なんだか、笑うタイミングが、いつもとちょっと違っていた気がする。

 話の途中で、一瞬だけ迷ったみたいに、間ができて。

 言葉の選び方も、どこか――いつもより雑っぽかった。


 気のせい、ってことにしたかった。

 でも、それがちゃんと引っかかってるってことは……やっぱり、分かってたのかもしれない。


 私が返事をためらっていると、

 陽斗は手にしていたプリンを、ふいにこちらへ差し出してきた。


「……これ、いる?」


 その声はいつもの調子だったけど、

 どこか――少しだけ、優しかった。


「……いる」


 なんか、悔しかった。

 この優しさも、察しの良さも、陽斗らしくなかった。


 お姉ちゃんのことなら、私が一番わかってる。

 そう思ってた。思ってたのに――

 どうして、陽斗のほうが先に気づいてるみたいな顔、するの。

 まるで気持ちを先回りするみたいに、そんなふうに差し出すの。


 でも、そんなふうにしてくれる陽斗を、悪いとも思えなかった。

 だから、嬉しくなった自分が、なんか、すごく悔しかった。




 スプーンを口に運びながら、私たちはぽつぽつと他愛ない話をする。

 テレビもついていない。時計の針の音だけが、静かに耳に届いていた。

 こんな時間に、プリン食べて、どうでもいい話して。

 それだけなのに、調子狂うじゃん……。


「ていうかさ、お姉ちゃんにプリン断られたの、けっこうショックだったでしょ?」


 私がそう言うと、陽斗はむすっとしたような顔で、スプーンをくわえる私のほうをちらりと見た。


「別に。甘いもん食いたい気分じゃなかっただけだろ」


「ふーん。陽斗がそんな気を使うの、珍しいよね」


 ちょっとからかう感じで言うと、陽斗は少しだけ間を置いて、ぼそっとつぶやく。


「……なんか、今日の陽菜、ちょっと疲れてそうだったし」


 その言葉が胸に触れた。

 さっきのざわつきが、また戻ってくる。

 ――やっぱり、陽斗は気づいてたんだ。私が感じてたのと、同じことを。


 私はもう一口、プリンをすくって口に運ぶ。

 冷たくて、甘いその味が、少しだけ気持ちを和らげてくれる。

 スプーンを動かすたびに、胸の中に溜まっていたもやもやが、少しずつほどけていく気がした。


 たぶん、陽斗が特別に鋭いわけじゃない。

 お姉ちゃんが、今日はいつもとちょっと違ってただけ。


 いつものお姉ちゃんは、ちゃんとしてて、余裕があって、誰にでも優しくて――

 一見、隙があるみたいに見えるのに、肝心なところは絶対に触れさせてくれない。

 そういうふうに、なんだか“できすぎてる”感じがあった。

 だから今日みたいに、ちょっと言葉を迷ったり、うまく笑えなかったりするのって、いつも以上に目立っちゃうんだと思う。


 たぶん、それだけ。たまたま、そう見えただけ。

 それだけのことなのに、ちゃんと気づいてくれてた。それが嬉しかった。


 明日から、また学校。

 私はお姉ちゃんのそばにいることはできない。

 でも陽斗は、同じ学校。

 だから、ちょっとは――お願いしても、いいよね。


 私は、食べ終えたスプーンをそっとテーブルに置いて、少しだけ息を吐いて、言う。


「ちゃんと見ててよ。お兄ちゃんなんだから」

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