幕間 -日和視点-
夜。
喉が渇いて、私はそっと布団を抜け出した。
階段を下りかけたところで、リビングの扉のすき間から明かりが漏れているのに気づく。
……誰か、起きてる?
そっと足音をしのばせて、リビングのドアを開ける。
そこにいたのは、陽斗だった。
「何してるの、陽斗」
陽斗の肩が、ぴくりと小さく動く。
まるで、見られたくない瞬間を見られたみたいに、背中にぎこちなさが走った。
「……なんだ、日和かよ」
ゆっくりと振り返った陽斗の手にはプリンが握られていた。
ちょっとバツが悪そうに、視線をそらす。
人に見せるつもりじゃなかったものを、見つかったみたいな顔だった。
「なにそれ、なんで持ってんの?」
思わず声が上ずった。
プリンを見ただけで声が上ずるなんて、自分でもちょっと笑える。
プリンは私の大好物だ。
「陽菜の。買ってきたけど、いらないってさ」
言葉の意味が、一瞬だけうまく入ってこなかった。
……まさか陽斗が、そんなことをするなんて。
「私にそんなこと、してくれたことなんてなかったのに」
私が軽くにらむと、陽斗は視線を外して、肩をすくめた。
「……別に、陽菜にしてやったのも初めてだよ」
その言い方が、なんとなく引っかかった。
――きっと、陽斗も何かを感じたんだ。今日のお姉ちゃんに。
ちょっとだけ、言葉の奥に、ためらう気配があった。
そのわずかな揺れが、胸に残る。
一瞬、言葉が途切れる。
冷蔵庫のモーター音が、妙に大きく感じられた。
陽斗が、ぽつりとつぶやく。
「なんか……今日の陽菜、ちょっと変じゃなかったか?」
驚いた、というより――ドキッとした。
そんなふうに思ってたの、私だけだと思ってたのに。
その違和感は、私も感じていた。
でも、誰にも話すつもりなんてなかった。
うまく言葉にできなかったし、陽斗に言ったところで、どうせ伝わらないと思ってた。
だからこそ、返事に迷った。
「そんなことないよ」って、笑って流せば終わる。
でも、口を開くよりも先に、思い出してしまった。
今日のお姉ちゃん。
なんだか、笑うタイミングが、いつもとちょっと違っていた気がする。
話の途中で、一瞬だけ迷ったみたいに、間ができて。
言葉の選び方も、どこか――いつもより雑っぽかった。
気のせい、ってことにしたかった。
でも、それがちゃんと引っかかってるってことは……やっぱり、分かってたのかもしれない。
私が返事をためらっていると、
陽斗は手にしていたプリンを、ふいにこちらへ差し出してきた。
「……これ、いる?」
その声はいつもの調子だったけど、
どこか――少しだけ、優しかった。
「……いる」
なんか、悔しかった。
この優しさも、察しの良さも、陽斗らしくなかった。
お姉ちゃんのことなら、私が一番わかってる。
そう思ってた。思ってたのに――
どうして、陽斗のほうが先に気づいてるみたいな顔、するの。
まるで気持ちを先回りするみたいに、そんなふうに差し出すの。
でも、そんなふうにしてくれる陽斗を、悪いとも思えなかった。
だから、嬉しくなった自分が、なんか、すごく悔しかった。
スプーンを口に運びながら、私たちはぽつぽつと他愛ない話をする。
テレビもついていない。時計の針の音だけが、静かに耳に届いていた。
こんな時間に、プリン食べて、どうでもいい話して。
それだけなのに、調子狂うじゃん……。
「ていうかさ、お姉ちゃんにプリン断られたの、けっこうショックだったでしょ?」
私がそう言うと、陽斗はむすっとしたような顔で、スプーンをくわえる私のほうをちらりと見た。
「別に。甘いもん食いたい気分じゃなかっただけだろ」
「ふーん。陽斗がそんな気を使うの、珍しいよね」
ちょっとからかう感じで言うと、陽斗は少しだけ間を置いて、ぼそっとつぶやく。
「……なんか、今日の陽菜、ちょっと疲れてそうだったし」
その言葉が胸に触れた。
さっきのざわつきが、また戻ってくる。
――やっぱり、陽斗は気づいてたんだ。私が感じてたのと、同じことを。
私はもう一口、プリンをすくって口に運ぶ。
冷たくて、甘いその味が、少しだけ気持ちを和らげてくれる。
スプーンを動かすたびに、胸の中に溜まっていたもやもやが、少しずつほどけていく気がした。
たぶん、陽斗が特別に鋭いわけじゃない。
お姉ちゃんが、今日はいつもとちょっと違ってただけ。
いつものお姉ちゃんは、ちゃんとしてて、余裕があって、誰にでも優しくて――
一見、隙があるみたいに見えるのに、肝心なところは絶対に触れさせてくれない。
そういうふうに、なんだか“できすぎてる”感じがあった。
だから今日みたいに、ちょっと言葉を迷ったり、うまく笑えなかったりするのって、いつも以上に目立っちゃうんだと思う。
たぶん、それだけ。たまたま、そう見えただけ。
それだけのことなのに、ちゃんと気づいてくれてた。それが嬉しかった。
明日から、また学校。
私はお姉ちゃんのそばにいることはできない。
でも陽斗は、同じ学校。
だから、ちょっとは――お願いしても、いいよね。
私は、食べ終えたスプーンをそっとテーブルに置いて、少しだけ息を吐いて、言う。
「ちゃんと見ててよ。お兄ちゃんなんだから」