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存在しない昨日の話  作者: geko
第一章
7/15

第六話

 夕食を終えて、部屋に戻る。


 ドアをそっと閉めた途端、静けさが押し寄せてきた。

 さっきまで耳に残っていた食器の音や、家族の声が、もうずっと昔のことのように思えた。


 ベッドの端に腰を下ろし、ふっと息を吐く。

 しばらくのあいだ、カーテン越しに漏れてくる月明かりを、ただ眺めていた。


 食卓には、五人分の湯気と、取りとめのない会話がぽつぽつと交わされていた。


 母さんが「足りてる?」と声をかけ、

 父さんはテレビに相づちを打ち、

 陽斗はカレーをおかわりし、日和は黙々と食べていた。


 わたしはその輪の中にいながら、気持ちだけがどこか、少し離れたところに置き去りにされたような気がしていた。


 会話はあっても、静かな食卓だった。

 その沈黙の奥に、どこか気遣いのようなものがにじんでいた。

 やっぱり、母さんも父さんも、“陽菜”のことを変だとは思っていないようだった。

 まるで、最初からこの家にいたかのように。


 たった一日。けれど、思い返すと、ずいぶんと長い一日だった。

 “陽菜”として過ごした時間の名残が、今も身体のどこかに、うっすらと染みついていた。


 小さなノックの音が、静けさを破る。


「お風呂、空いたよ」


 日和の声だった。

 返事をして立ち上がると、その動きがどこか機械的に感じられ、わたしは少しだけ深く息をついた。



 脱衣所に入り、ドアを閉める。

 洗面台の上の鏡が、視界の端をかすめた。

 けれど、自然と視線はそちらを避けていた。

 そう決めていたわけじゃないのに、自然と目を逸らしていた。


 ブラウスのボタンを外していく。

 ひとつずつ、静かに、手元の動きだけに集中するように。


 裾を引いて腕を抜くと、空気が、肌をさらりとなでていった。

 続けて、ワイドパンツの留め具に手をかけたとき――

 ふと、なにかに見られているような気がして、視線が勝手に、洗面台の方へ引き寄せられる。


 鏡の中に映っていたのは、“陽菜”の下着姿の上半身だった。


 俺は一瞬、息を止めた。

 それはまるで、自分のものじゃない誰かの身体を、勝手に覗き見てしまったようで。


 ……“陽菜”に、悪いことをしている気がした。


 朝、シャワーを浴びたときには、こんな気持ちはなかった。

 そのときの俺は、まだこの身体に、現実として向き合うことができていなかった。


 けれど、“陽菜”として一日を過ごしたあとの今は、もう、それだけじゃ済まされなかった。

 この身体には、“陽菜”がちゃんと、息づいていた。

 それを勝手に覗き見てしまった自分が、ひどく無神経なことをしたようで――

 自分でも驚くくらい、動揺していた。


 できるだけ何も考えないようにして、そっとブラのホックに手を伸ばす。

 金具が外れる、かすかな音がやけに耳に残った。

 肩から滑り落ちたストラップをそっと指で払って、ブラを外す。

 迷いを振り切るように、ワイドパンツを下ろし、ショーツもすばやく脱いだ。


 洗面台の鏡を避けるようにして、視線を落とした。


 意識すればするほど、まともに動けなくなりそうだったから――

 だから、せめて、早く済ませたかった。



 風呂場に入り、シャワーをひねる。

 あたたかい湯が肌を流れ、足元から湯気が立ちのぼる。


 朝のように、流すだけで済ますわけにはいかなかった。

 汗もかいたし、髪の根元も、少し湿っぽくまとわりついていた。

 ちゃんと、洗わなきゃいけない。


 でもそれは、この身体に触れるということだった。

 それが、予想していたよりも、ずっと抵抗があった。


 まずは髪を濡らす。

 シャワーの湯が頭皮に当たり、髪をつたって湯が流れ落ちていく。

 シャンプーを泡立て、指先をゆっくりと髪に通していく。


 動きそのものは、たぶん以前とそれほど変わらない。

 でも、泡立てた手のひらが触れる髪の感触も、

 細くなった指先のすき間を流れていく湯の動きも、

 どこか頼りなくて、心許なかった。


 顔を洗う。

 額、頬、顎……たしかに触れているのに、それが“自分”だと信じきれなかった。

 肌に触れているはずなのに、自分のものだという感覚が追いつかない。

 まるで、他人の顔を撫でているような――そんな、他人事めいた感覚だった。


 泡を流して目を開けたとたん、視界の隅に鏡が入り込んできた。

 ――見ないようにして、目を伏せる。

 そこにいるのが自分だとは、どうしても思えなかった。


 石けんの泡を手に取り、肌の上に広げていく。

 いつもなら、ナイロンタオルでごしごし洗っていたはずなのに――

 そうするには、この肌はあまりにも繊細すぎる気がした。


 腕、肩、背中、腹。順に泡を広げていく。

 そのたびに、肌の感触が指先に伝わってくる。


 今まで避けていた、胸元に近づくにつれて、意識だけが、するすると後ずさっていく。


 石けんの泡を手に取り、胸元に、そっと目を落とす。

 ほんの一瞬だけ、手が止まる。


 触れなきゃいけない。そう分かっているのに、なのに、どうしても、手が動かなかった。

 自分の肌なのに、まるで他人のものみたいで、

 その“誰か”を傷つけてしまいそうな感覚が、指先を鈍らせる。


 それでも、泡立てた手でそっとなぞる。

 できるだけ短く、できるだけ無表情に。

 ただ、必要な動作として、通り過ぎるように。


 ……それでも、胸の奥にうっすらと残る違和感は、拭いきれなかった。


 脚に手を伸ばす。

 足首から膝、太ももへと順に洗っていく。

 その動きには、迷いも戸惑いもなかった。

 むしろ、ここまでの動作のほうが、よほど機械的でいられた気がする。


 けれど、太ももの内側まで手を伸ばしたところで、

 ――その先に、まだ洗っていない場所があることを意識してしまった。


 触れなければならない。

 でも、どこまでが“洗う”で、どこからが“踏み込みすぎ”なのか。

 その境目がまったく分からなかった。


 自分の手が、自分の身体に触れているはずなのに、

 まるで誰か他人のものに、遠慮がちに触れているみたいで。

 目を閉じ、できるだけ何も考えないようにして、そのあたりを、そっと流した。


 シャワーを止めると、静けさが戻ってきた。


 身体を湯船に沈める。

 肌をそっと包むように、お湯が肩まで広がっていく。


 昼間にかいた汗も、服の感触も、もうどこにも残っていないはずなのに、

 湯の中に沈んでいる自分の身体が、どこか馴染まないままだった。


 湯の熱が肌を通じて内側に染みこんでくる。

 そのぬくもりが、“陽菜”として過ごした今日一日の輪郭を、少しずつ浮かび上がらせてきた。


 日和と過ごした時間。笑ったこと。パスタを食べたこと、歩いた距離、陽斗の言葉――

 すべてが、“わたし”の記憶として身体に刻まれている。


 なのに、今こうして湯に浸かっていると、どれもが自分のこととは思えなかった。

 思い返してみれば、今日受け取った優しさは、全部、“陽菜”に向けられたものだった。


 日和のさりげない気遣いも、

 陽斗の――かつての自分にはできなかったような、他人を思う言葉も。

 それはきっと、“陽菜”としてのわたしが、今日をちゃんと過ごしたからこそ返ってきたものだ。


 だからこそ、その優しさを、裏切るようなことはしたくないと思った。


 “俺”じゃなくて、“わたし”として。

 この世界で、“陽菜”として。


 できるだけ、ちゃんと、そう生きていかなければならない。


 だから、わたしは――


 笑顔を浮かべてみた。

 陽菜らしく、少しだけ。


 それが自然になる日は、まだ遠いかもしれない。

 でも今はそれで、十分だった。

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