第六話
夕食を終えて、部屋に戻る。
ドアをそっと閉めた途端、静けさが押し寄せてきた。
さっきまで耳に残っていた食器の音や、家族の声が、もうずっと昔のことのように思えた。
ベッドの端に腰を下ろし、ふっと息を吐く。
しばらくのあいだ、カーテン越しに漏れてくる月明かりを、ただ眺めていた。
食卓には、五人分の湯気と、取りとめのない会話がぽつぽつと交わされていた。
母さんが「足りてる?」と声をかけ、
父さんはテレビに相づちを打ち、
陽斗はカレーをおかわりし、日和は黙々と食べていた。
わたしはその輪の中にいながら、気持ちだけがどこか、少し離れたところに置き去りにされたような気がしていた。
会話はあっても、静かな食卓だった。
その沈黙の奥に、どこか気遣いのようなものがにじんでいた。
やっぱり、母さんも父さんも、“陽菜”のことを変だとは思っていないようだった。
まるで、最初からこの家にいたかのように。
たった一日。けれど、思い返すと、ずいぶんと長い一日だった。
“陽菜”として過ごした時間の名残が、今も身体のどこかに、うっすらと染みついていた。
小さなノックの音が、静けさを破る。
「お風呂、空いたよ」
日和の声だった。
返事をして立ち上がると、その動きがどこか機械的に感じられ、わたしは少しだけ深く息をついた。
※
脱衣所に入り、ドアを閉める。
洗面台の上の鏡が、視界の端をかすめた。
けれど、自然と視線はそちらを避けていた。
そう決めていたわけじゃないのに、自然と目を逸らしていた。
ブラウスのボタンを外していく。
ひとつずつ、静かに、手元の動きだけに集中するように。
裾を引いて腕を抜くと、空気が、肌をさらりとなでていった。
続けて、ワイドパンツの留め具に手をかけたとき――
ふと、なにかに見られているような気がして、視線が勝手に、洗面台の方へ引き寄せられる。
鏡の中に映っていたのは、“陽菜”の下着姿の上半身だった。
俺は一瞬、息を止めた。
それはまるで、自分のものじゃない誰かの身体を、勝手に覗き見てしまったようで。
……“陽菜”に、悪いことをしている気がした。
朝、シャワーを浴びたときには、こんな気持ちはなかった。
そのときの俺は、まだこの身体に、現実として向き合うことができていなかった。
けれど、“陽菜”として一日を過ごしたあとの今は、もう、それだけじゃ済まされなかった。
この身体には、“陽菜”がちゃんと、息づいていた。
それを勝手に覗き見てしまった自分が、ひどく無神経なことをしたようで――
自分でも驚くくらい、動揺していた。
できるだけ何も考えないようにして、そっとブラのホックに手を伸ばす。
金具が外れる、かすかな音がやけに耳に残った。
肩から滑り落ちたストラップをそっと指で払って、ブラを外す。
迷いを振り切るように、ワイドパンツを下ろし、ショーツもすばやく脱いだ。
洗面台の鏡を避けるようにして、視線を落とした。
意識すればするほど、まともに動けなくなりそうだったから――
だから、せめて、早く済ませたかった。
※
風呂場に入り、シャワーをひねる。
あたたかい湯が肌を流れ、足元から湯気が立ちのぼる。
朝のように、流すだけで済ますわけにはいかなかった。
汗もかいたし、髪の根元も、少し湿っぽくまとわりついていた。
ちゃんと、洗わなきゃいけない。
でもそれは、この身体に触れるということだった。
それが、予想していたよりも、ずっと抵抗があった。
まずは髪を濡らす。
シャワーの湯が頭皮に当たり、髪をつたって湯が流れ落ちていく。
シャンプーを泡立て、指先をゆっくりと髪に通していく。
動きそのものは、たぶん以前とそれほど変わらない。
でも、泡立てた手のひらが触れる髪の感触も、
細くなった指先のすき間を流れていく湯の動きも、
どこか頼りなくて、心許なかった。
顔を洗う。
額、頬、顎……たしかに触れているのに、それが“自分”だと信じきれなかった。
肌に触れているはずなのに、自分のものだという感覚が追いつかない。
まるで、他人の顔を撫でているような――そんな、他人事めいた感覚だった。
泡を流して目を開けたとたん、視界の隅に鏡が入り込んできた。
――見ないようにして、目を伏せる。
そこにいるのが自分だとは、どうしても思えなかった。
石けんの泡を手に取り、肌の上に広げていく。
いつもなら、ナイロンタオルでごしごし洗っていたはずなのに――
そうするには、この肌はあまりにも繊細すぎる気がした。
腕、肩、背中、腹。順に泡を広げていく。
そのたびに、肌の感触が指先に伝わってくる。
今まで避けていた、胸元に近づくにつれて、意識だけが、するすると後ずさっていく。
石けんの泡を手に取り、胸元に、そっと目を落とす。
ほんの一瞬だけ、手が止まる。
触れなきゃいけない。そう分かっているのに、なのに、どうしても、手が動かなかった。
自分の肌なのに、まるで他人のものみたいで、
その“誰か”を傷つけてしまいそうな感覚が、指先を鈍らせる。
それでも、泡立てた手でそっとなぞる。
できるだけ短く、できるだけ無表情に。
ただ、必要な動作として、通り過ぎるように。
……それでも、胸の奥にうっすらと残る違和感は、拭いきれなかった。
脚に手を伸ばす。
足首から膝、太ももへと順に洗っていく。
その動きには、迷いも戸惑いもなかった。
むしろ、ここまでの動作のほうが、よほど機械的でいられた気がする。
けれど、太ももの内側まで手を伸ばしたところで、
――その先に、まだ洗っていない場所があることを意識してしまった。
触れなければならない。
でも、どこまでが“洗う”で、どこからが“踏み込みすぎ”なのか。
その境目がまったく分からなかった。
自分の手が、自分の身体に触れているはずなのに、
まるで誰か他人のものに、遠慮がちに触れているみたいで。
目を閉じ、できるだけ何も考えないようにして、そのあたりを、そっと流した。
シャワーを止めると、静けさが戻ってきた。
身体を湯船に沈める。
肌をそっと包むように、お湯が肩まで広がっていく。
昼間にかいた汗も、服の感触も、もうどこにも残っていないはずなのに、
湯の中に沈んでいる自分の身体が、どこか馴染まないままだった。
湯の熱が肌を通じて内側に染みこんでくる。
そのぬくもりが、“陽菜”として過ごした今日一日の輪郭を、少しずつ浮かび上がらせてきた。
日和と過ごした時間。笑ったこと。パスタを食べたこと、歩いた距離、陽斗の言葉――
すべてが、“わたし”の記憶として身体に刻まれている。
なのに、今こうして湯に浸かっていると、どれもが自分のこととは思えなかった。
思い返してみれば、今日受け取った優しさは、全部、“陽菜”に向けられたものだった。
日和のさりげない気遣いも、
陽斗の――かつての自分にはできなかったような、他人を思う言葉も。
それはきっと、“陽菜”としてのわたしが、今日をちゃんと過ごしたからこそ返ってきたものだ。
だからこそ、その優しさを、裏切るようなことはしたくないと思った。
“俺”じゃなくて、“わたし”として。
この世界で、“陽菜”として。
できるだけ、ちゃんと、そう生きていかなければならない。
だから、わたしは――
笑顔を浮かべてみた。
陽菜らしく、少しだけ。
それが自然になる日は、まだ遠いかもしれない。
でも今はそれで、十分だった。