第五話
帰り道を、日和と並んで歩いていた。
モールのざわめきが遠ざかって、足音と風の音だけが耳に残る。
あれほどの人混みの中を歩いたのに、不思議と疲れは残っていなかった。
「今日、楽しかったね」
日和がそう言って、歩きながら小さく笑った。いつもの、肩の力が抜けた笑い方で。
わたしはほんの少しだけ間を置いて、日和の歩幅にそっと合わせた。
ちらりと横顔を見て、小さく笑う。
「うん。わたしも、楽しかった」
たしかに、楽しかった。
だけど、その楽しさの奥に、言いようのない落ち着かなさが、かすかに残っていた。
それを受け入れるには、もう少し時間がかかりそうだった。
通りの角を曲がると、見慣れた玄関が見えてきた。
日和が少し前で立ち止まるのが見えて、わたしも歩みを止める。
買い物袋を持ち直すと、手のひらにはうっすら汗がにじんでいた。
日和が手を伸ばしかけた、そのとき。
がちゃり、と小さな音を立てて、玄関のドアが内側から開いた。
思わず手を引いた日和の前に、扉の隙間が広がり、その向こうに人影が浮かび上がった。
その人影は、“俺”だった。
視線が合う。
たったそれだけなのに、なにか大事なものが、胸の奥でぐらりと揺れた。
心の底にしまっていたものが、暴き出される――そんな気がした。
視線が合ったその瞬間、俺だけが、世界の流れから、ひとりだけ外れてしまった気がした。
……それなのに、世界は何ひとつ変わらずに進んでいく。
そこへ、日和の声が重なった。
「……もうちょっと早く開けてくれればよかったのに」
その言い方には、冗談めいた軽さが混じっていた。
陽斗は扉をわずかに押し広げて、日和が通れるだけの隙間をつくる。
「開けようとしたら、ちょうどお前が来ただけだろ」
「はいはい、言い訳は結構ですー」
日和は軽口をたたきながら、するりと玄関を抜けていった。
その軽い足取りが、いかにも日和らしかった。
ああ、これは――“俺”と日和の、いつものやりとりだ。
その中に、いまの“わたし”の居場所はなかった。
目の前にあるのは、たしかに“わたし”の家の玄関のはずなのに。
それなのに、どこにも帰る場所がないように思えた。
足元が、少しだけふわりと浮いた気がした。
空気の密度が変わったみたいに、呼吸の仕方すら分からなくなる。
音も、色も、すこしずつ遠のいていく。
見えているのに、手ごたえだけが、なぜかどこにもなかった。
まるで、自分だけが世界からほんの少し外れてしまったみたいだった。
――そのときだった。
気づけば、陽斗の手が、わたしの目の前で揺れていた。
ひらり、と空を掻くように、ためらうように。
その動きに、張りつめていた意識がふっと緩んだ。
触れられたわけじゃないのに、どこかを確かに掬い上げられた気がした。
ぼやけていた世界に、少しずつ、輪郭が戻ってくる。
「大丈夫か?」
「……俺って、ここにいていいんだっけ」
気づいたときには、もう言葉にしていた。
誰に向けたものなのか、自分でもはっきりしない。
けれどその問いは、ずっと胸の奥に沈んでいたもの――そんな気がした。
陽斗は、一瞬だけ言葉を失ったように目を見開いた。
でもすぐに、どこか呆れたような、それでいて優しい声で続ける。
「なに言ってんだよ。……ここ、お前の家だろ」
その言葉に、返す言葉が見つからなかった。
それは、あまりにも自然で、あっけらかんとしていて――
まるで、俺がここにいることを、最初から疑ってなどいなかったようだった。
そう思いたくても、まだ疑いは消えなかった。
俺はいつから、ここにいたんだろう。
みんなにとっては、ずっと前から“わたし”がここにいたみたいで――
自分にはまだ、それが嘘みたいに思えて仕方なかった。
いつもの空気に馴染もうとしても、自分だけが外れている気がした。
さっきまで楽しかったはずなのに。
その笑顔は、誰のものだったんだろう。
俺は、まだ“わたし”になりきれていないままなのに。
玄関の内側から、日和の声が軽く響いた。
「おーい、なに沈んでんの。陽斗も、どっか行くんでしょ?」
その何気ない軽口に救われるように、わたしは一歩、玄関へと足を踏み入れた。
玄関の中に一歩踏み入れたとき、陽斗がちらりとこちらを見た。
一瞬だけ視線が交差する。けれど、すぐに目をそらし、外へと向かう。
――さっきの言葉、気にしてた? それとも、あえて流してくれたんだろうか。
どちらとも取れるその距離感が、胸の奥を静かにざわつかせた。
「コンビニ行く。欲しいものあったら連絡してこいよ」
陽斗はぼそっとそう言って、玄関の外へと姿を消した。
――なんだろう、ちょっと、意外だった。
俺が陽斗だったとき、日和に「欲しいものあったら言えよ」なんて、言ったことがあっただろうか。
気を遣っていたつもりでも、こんなふうに、何気なく、さりげない形で口にしたことなんて
――たぶん、一度もなかった。
けれど、いまの陽斗は、そんな言葉を、ためらいもせずに言ってくる。
それが、ちょっと不思議だった。
気づいていたのか、いなかったのかは分からない。
でも、気づかないふりをしてくれたようにも思えた。
わたしの知らない“陽斗”が、そこにいた。
けれど、それは遠い存在じゃなかった。
この世界では、最初から“陽菜”がいて。
“陽菜”がいる前提で、陽斗は育ってきた。
そんなふうにできている関係性が、
なんの違和感もなく、いま目の前にある。
それが、どうしようもなく――少し、うれしかった。
寂しさや戸惑いも、たしかにある。
でも、こんなふうに誰かの優しさを感じたことを、忘れずにいられたら……。
いまは、ただ、それだけが――かすかに、わたしの中に、残っていた。