第四話
買い物袋を片手に、モールの通路を歩く。
陽射しの差しこむ吹き抜けには、ベンチで休む家族連れや、買い物袋を抱えた人たちの姿があった。
行き交う人のざわめきに混じって、どこかから甘いシナモンの香りが漂ってくる。
「……ねえ、お昼どうする?」
隣からの問いに、一瞬だけ言葉に詰まって、それからそっと視線を向けた。
「うん……おなかすいてきたかも」
日和はポケットからスマホを取り出し、さっと画面を確認する。
「けっこういい時間だね。三階にフードコートあるよ。歩いてすぐ」
俺はこくりと頷いて、買い物袋を持ち直す。
日和がくるりと向きを変える。わたしは隣に並ぶように歩き出した。
モールのエスカレーターは広くて、吹き抜けに静かな駆動音がかすかに響いている。
上がるにつれて、いろんな匂いが空気に混ざってくるのが分かった。
パンの焼ける香ばしさ、スパイスの香り、甘ったるい匂い――いろんな匂いが、空気に溶けていた。
人の声も増えてくる。ざわざわとした気配が、耳に柔らかくまとわりつく。
さっきまでいた服売り場よりも、にぎやかで、生活の熱みたいなものが漂っていた。
フードコートの入口が見えたとき、俺は無意識に足を緩めていた。
フードコートに入ると、思っていた以上の人混みだった。
昼時ということもあって、空席はほとんど見当たらない。
注文カウンターの前には列ができていて、あちこちからトレイを運ぶ音や、飲み物の氷がカランと鳴る音が響いてくる。
ずらりと並んだ店舗の看板には、パスタ、カレー、ラーメン、丼もの、クレープ――さまざまな料理の名前が並んでいた。
人の波に視線を泳がせながら、俺は何を食べたいのか、そもそも何がいま“わたし”に合っているのかが分からなくなっていく。
「……じゃあ、私並んでくるから、お姉ちゃんは席取っといて」
日和はそう言うと、もう列の方へと歩き出していた。
「あ、ちょっ……」
思わず呼び止めそうになって、口をつぐむ。
妹に並ばせるなんて、なんとなく引っかかった。
でも、“前”がどうだったかなんて、思い出せない。
そもそも、日和とふたりで出かけたことなんて、ないんだ。
それなのに、日和に任せるのが、あたりまえみたいになっていた。
……今日の俺、なんか変だ。
よく分からない感情を飲み込んで、俺は空いた席を探し始めた。
フードコートの通路には、人やトレイ、荷物が行き交っていた。
親に手を引かれた小さな子どもが、まだおぼつかない足取りで歩いている。
すぐ横を、スマホを片手に持ったサラリーマン風の男性がすり抜けていく。
その雑多な流れのなかで、俺は視線を滑らせて、ようやく二人分空いているテーブルを見つけた。
隅の方。壁際。
あまり目立たなくて、でもちゃんと居場所として存在している。そんな席だった。
椅子を引いて、そっと腰を下ろす。
ショルダーバッグを膝に乗せて、買い物袋を椅子の隣に置く。
それだけの動作なのに、どこかぎこちなさが残っていた。
――別に、誰も見てない。
そう思ってはみても、視線の端で誰かと目が合ったような気がして、すぐに目をそらす。
スマホを取り出そうとして、やめた。
何を開くつもりだったのか、自分でも分からなかったから。
ただ座っているだけなのに、妙に落ち着かない。
背筋や指先が、微妙に力んでしまうのを自分でも意識してしまって、それがまた気になる。
――この姿は、ちゃんと“陽菜”に見えているんだろうか。
ふとそんな考えが浮かんでから、時間の流れが妙にゆっくりになった気がした。
周囲からはトレイを運ぶ音や、席を探す人たちのざわめきが絶え間なく聞こえてくる。
隣のテーブルでは、小さな子どもがスプーンを床に落として、すぐに親に拾われていた。
気配や視線に過敏になってしまっている自分が、どこか落ち着かない。
ショルダーバッグのストラップを握り直した指先が、少し汗ばんでいた。
そんな思いの中に、日和の姿が視界に入ってきた。
両手でトレイを持って、歩幅は少しだけ小さめ。
それでも、動きは落ち着いていて、どこか見慣れた雰囲気だった。
日和はそのままテーブルに近づき、トレイをそっと置くと、椅子を引いて腰を下ろした。
「けっこう混んでた」
ぽつりとそう言って、紙カップのフタに指を添えながら、ゆっくりとストローをさす。
俺はまだ、何を言えばいいか分からずに、目の前の料理に視線を落とした。
それでも、何か言わなきゃと思って、ぽつりと声を出す。
「……ありがと。並んでくれて」
言いながら視線を上げると、日和はストローをくわえたまま、わずかにうなずいた。
声はなかったけど、たぶんちゃんと伝わっていたと思う。
視線を戻すと、目の前にはまだ湯気を立てた料理が置かれていた。
ふわりと、あたたかい匂いが立ちのぼる。
パスタだった。トマトベースの、ほどよく酸味のあるソースがかかっている。
湯気といっしょに、ハーブの香りがほんのり鼻をくすぐった。
「それ、好きだったよね?」
日和の声が、不意に届く。
思わず顔を上げると、日和はすでにフォークを手にしていて、ひと口ぶんを口に運んだところだった。
特にこちらを見るでもなく、さらりと続ける。
「前に、“意外とさっぱりしてて美味しかった”って言ってた」
少しだけ、返事に迷ってしまう。
食べた記憶なんて、俺にはない。
でも、日和の言葉を否定する理由もなかった。
「……そうかも。たぶん、好きなんだと思う」
口にした瞬間、自分でもちょっと嘘くさいと思った。
日和は特に反応を見せずに、黙々とフォークを動かしている。
俺も、言葉を埋めるように、ひと口を口に運んだ。
トマトの酸味よりも、ソースの甘みがじんわりと広がっていく。
――思ってたより、甘い。
昔の“俺”だったら、こういう甘さはちょっと重く感じてたかもしれない。
食べきる前に、いつの間にか箸が止まってた気がする。
でも、いまの“わたし”は、それをすんなり受け入れている。
むしろ、ちょっとほっとするくらいに、ちょうどよかった。
記憶じゃなくて、舌がそう言ってる――そんな感じがした。
パスタを食べ終えて、フォークをそっとトレイに置いた。
俺は小さく息をつく。
日和はすでに食べ終えていて、紙コップを手にしながら、ぼんやりと視線を泳がせている。
口を開いたのは、ちょうどそのタイミングだった。
「……ねえ、クレープ食べない? あっちの角のとこにお店あった」
俺は視線を落とす。
空っぽになったお皿を見つめながら、自分の身体に問いかける。
――入るかな。たぶん、入らない。……いや、もうちょっとなら。
昨日までの“俺”なら、このくらいペロッと食べきって、二品目に手を伸ばす余裕だってあった。
でもいまの“わたし”には、それが少しだけ重く感じられた。
「ごめん、ちょっと無理そうかも」
自分で言いながら、ほんの少しだけ違和感が残った。
こんなふうに“無理そう”なんて言葉が出てくるのが、自分でも不思議だった。
日和は特に気にした様子もなく、紙カップをくるりと回しながら、あっさりと返す。
「そっか。じゃあ、また今度にしよ」
その言葉は軽やかで、優しささえ含まれていた。
それなのに、胸の奥にほんの小さなざらつきが残った。
――前だったら、食べられたのに。
その思いが、ふとよぎって、すぐに消えていった。
けれど、言葉にはならなかっただけで、それは胸の奥にちゃんと残っていた。
自分でも気づかないうちに、“今のわたし”を受け入れはじめているのかもしれない。
“陽菜”としての感覚が、少しずつ、自分のものになっていく。
それが、どうしようもなく現実味を帯びてきていること。
小さな変化のひとつひとつが、静かに、でも確かに、積み重なっていく。
まるで、それが最初からそうだったかのように。
ぼんやりしていると、不意に日和の声が届いた。
「春休み、ほんとあっという間だったね」
「……うん」
とりあえず、そう答える。
本当は、今日一日だけで一ヶ月ぶんくらいのことが起きた気分だけど――
それを言葉にする術も、意味も、今の“わたし”にはなかった。
少しだけ沈黙が流れて、それから俺はそっと声をかけた。
「ちょっと、トイレ行ってくるね」
日和は特に気にした様子もなく、軽くうなずいた。
席を立って、ショルダーバッグのストラップを肩にかけ直す。
買い物袋を差し出すと、日和はちらりとこちらを見て、「いいよ」と短く返した。
それだけのやりとりなのに、不思議とほっとする。
日和の中では、“陽菜”である自分が、ちゃんと“いつも通り”にそこにいるみたいで。
※
モールの柱に貼られた案内板を目で追いながら、ゆっくり歩く。
足を進めるうちに、ふと気づく。
そういえば、少し前からトイレには行きたかった気がする――
でもきっと、無意識に、意識しないようにしていたんだ。
ふと顔を上げるたびに、“女子トイレ”の表示が目に入った。
ピンク色のシルエット。丸く広がったスカートの形。
それが自分を指している――という現実に、どうしてもまだ慣れなかった。
足を止めずに歩きながら、なんとなく呼吸が浅くなっているのを自覚する。
誰も、俺のことなんて気にしていない。
それでも、心の奥では、どこか落ち着かなかった。
トイレの入り口をくぐり、白いタイルの床を踏みしめながら奥へ進む。
個室の扉が並ぶ光景は見慣れているのに、その並びが“女子用”であるというだけで、
まるで“自分には本来関係ない世界”に足を踏み入れているような、そんな気分になった。
個室に入ると、空気がすっと静まり返って、ひとりきりになったことがはっきりと分かった。
その静けさが、かえって落ち着かなさを際立たせる。
壁の向こうから聞こえる微かな水音と衣擦れの気配が、“完全なひとり”ではないことを、そっと思い出させた。
ワイドパンツのウエストに手をかけて、そっと引き下ろす。
それだけの動きなのに、やけに意識がそこに向かってしまう。
布が肌を撫でる感触も、どこか馴染まないまま。
便座に腰を下ろすと、ぴたりとした感触が直接伝わってきて、思わず小さく息を呑んだ。
座るという、ごく当たり前の動作すら、いまだにこの身体にはぎこちなさが残っている。
羞恥心というよりは、居心地の悪さに近かった。
誰かに見られているわけでもないのに、自分で自分を見張っているような、そんな感覚。
けれど、用を足している間だけは、不思議と静かだった。
身体は、ちゃんと身体として機能している。
その事実が、なぜか少し怖かった。
――本当に、もう戻れないんじゃないか。
そんな考えが、ふと頭をかすめる。
でも、それを掴む前に、指の隙間から零れるように、意識はまた現実に戻っていった。
立ち上がると、すぐに自動で水が流れた。
下ろしていたワイドパンツを元に戻し、鍵を開けて、外に出る。
個室から出てきたはずなのに、外の空間は不思議と静かで、まるで“ひとりきり”みたいだった。
鏡の前に立って、手を洗う。
ドライヤーの温風が鳴りはじめて、濡れた指先がそっと乾いていく。
それは日常の音のはずなのに、妙に遠く感じられた。
鏡の中には、“陽菜”の顔――
どこからどう見ても、女の子だった。
それでも、俺の中ではまだ、“借りもの”のままだ。
髪を撫でて、服のしわを整える。バッグの紐を肩にかけ直す。
鏡の中の“わたし”に、ひとつ深く息を吐いて――
それから、視線をそらすようにして、トイレを出た。
外の空気は、さっきより少し冷たく感じられた。
モールのざわめきに混ざる音が、また現実の中に引き戻してくる。
さっきまでいた席に戻ると、日和はスマホを見ながら、紙カップを片手に待っていた。
わたしが戻ったことに気づくと、何気ない顔でひとこと。
「おかえり」
「……うん」
たったそれだけのやりとりなのに、その言葉が、胸の奥にふわっと染みこんでくる。
こうして、“陽菜”としての日々が、少しずつ積み重なっていくのだろう。
まだ、自分でもよく分かっていない。
でも――
きっと、もう“戻るだけ”じゃ、済まされない気がした。