第三話
俺はしゃがみこんで、スニーカーに足を入れた。
男物よりも生地が薄くて、つま先がすっと細い。
足の甲をふわっと包まれているような、まだ馴染まない感覚。
靴ひもをしっかり結び、立ち上がる。
玄関を出た瞬間、ひやりとした風が頬に触れた。
空気が変わるだけで、心の張りつめたものが少しほどける。
ドアを静かに閉める。
澄んだ春の空気が、喉をすっと抜けていく。
胸の奥までしみ込むようなその感覚に、わたしは少しだけ肩の力を抜いた。
玄関の前で、日和が静かに待っていた。
黒っぽいスニーカーに、落ち着いたモノトーンの服。
地味なのに、ちゃんと決まってるのがなんか悔しい。
俺は日和の隣に立つ。
日和はとくに急かすでもなく、さりげなくこちらを見てくる。
「……で、今日はどこに行くんだっけ?」
“陽菜”のスケジュール帳には、ただ『日和と買い物』とだけ。
肝心の行き先までは、どこにも書いてなかった。
「いつものショッピングモール。お姉ちゃんに服選んでもらうって、前から決めてたよ?」
――“前から”という言葉に、声が喉の奥で引っかかったけど、なんとか笑ってごまかすように言う。
「そうだっけ、ごめん」
俺の言葉に、日和はほっぺを膨らませて抗議の意を示す。
無言のまま、じっとこっちを見上げてくる。
ただ、本気で怒っているわけではなさそうだった。
陽斗のときなら、たぶん言い合いになってた。
けど“陽菜”だと、こうやって無言で睨まれて終わるらしい。
そう思ったら、ふっと笑ってしまった。
その笑みに気づいたのかどうか、日和は何も言わずに視線を前に戻して、すっと歩き出す。
急ぐでもなく、立ち止まるでもなく、ごく自然な足取りで。
俺もそのあとに続いて、肩を並べるように歩き出した。
日和の歩幅が、わずかにこっちに合わせられているのが分かる。
それなのに、ほんのさりげない仕草にしか見えなかった。
歩きながら、なんとなく口を開いた。
「なんか、今日はちょっと冷えるね」
日和はちょっとだけ空を見上げる。
「うん。昨日より、花粉も少ない気がする」
「……そこ?」
思わず笑ってしまって、日和がちらりとこっちを見る。
「重要だよ。鼻のコンディションは生活の質に直結するから」
「なるほどね」
何気ない会話。
でも、こうして並んで歩くのは――なんだか、新鮮に感じた。
※
ショッピングモールに着いた途端、思ったよりも人が多くて、少し身構えた。
春休みのせいか、私服の中高生グループが目につく。
正面の吹き抜けでは、何組かの学生グループが待ち合わせをしているようだった。
少しざわついてはいるけれど、まだ騒がしいというほどではない。
そんな空気のなかで、俺はなんとなく周囲の景色を見渡した。
スマホを見せ合ったり、しゃがみこんで話し込んだり。
春休みの空気のせいか、どの顔もどこか楽しげで、気の抜けた雰囲気が漂っていた。
隣にいた日和が、なにも言わずに手を伸ばしてきた。
その手は、ごく自然に、俺の手を包んだ。
少し驚いたけれど、そのままでもいいような気がした。
むしろ、そのぬくもりが、思いのほか心強かった。
日和はそのまま、手を繋いだまま歩き出した。
俺も何も言わず、そのあとについていく。
通路を歩いていると、ふと視界の隅に、自分の姿が映った。
モールの壁一面に貼られたガラスの装飾。
そこに映る“わたし”は、整えられた髪と、女の子らしいシルエットの服をまとっていた。
きちんと歩幅を合わせて、日和の隣を歩いている。
他人の目には、きっと姉妹に見えるだろう。
でも、そのガラスに映った“わたし”の姿を、俺はまだ自分だと思いきれずにいた。
「……着いたよ」
日和の声に、はっとして前を見る。
目の前には、こじんまりとした服屋があった。
明るい照明と、可愛らしい飾りつけが目を引く。
店の入口には、春物のワンピースがいくつかディスプレイされていた。
やわらかい色味のものが多く、どれもふんわりとした印象だ。
今朝見た、“陽菜”のクローゼットを思い出す。
気づけば、その場に立ち止まっていた。
日和が繋いでいた手を離し、くるりとこちらを振り返る。
「今日は、お姉ちゃんとおそろいの服にするって決めてたから」
さらっとした口調はいつも通り淡々としているのに、どこか楽しげだった。
普段はモノトーンばかりのくせに、今日はこんな明るい店を選んでくるなんて。
自分の趣味じゃないのに、“おそろい”がしたくて、この店を選んだのかもしれない。
陽斗だった時には、きっと気づけなかった日和の一面。
それを見て、少しだけ気が緩んだ。
店内には、春らしい色があふれていた。
壁際に並んだブラウスは、どれも淡い色合いで、レースやリボンがついている。
トルソーに着せられたワンピースは、柔らかなベージュに小花柄。
棚の上には、パステルカラーのヘアピンや小物たちが丁寧に並んでいた。
ふわっとした色。やわらかそうな素材。
――いかにも、“女の子の服”って感じがする。
可愛いとは思う。たぶん、そう見えるように作られてるんだろうな、って。
でも、その“可愛い”が、自分にとってどういう意味を持つのかは、まだ分からなかった。
そう感じている自分のことも、なんだか借りものみたいだった。
気づけば、棚の前で立ち尽くしていた。
手を伸ばすわけでもなく、声をかけるわけでもなく、ただその空気に、うまく馴染めずにいる。
「……お姉ちゃん、これ、どう?」
ふいに日和の声がして、視線を向けると、彼女がブラウスを二枚、両手に広げて見せていた。
ひとつはラベンダー。もうひとつは、ミントグリーン。
どちらも、控えめなフリルと丸い襟のついた、やわらかい印象のブラウスだった。
「私、ラベンダーにするから……お姉ちゃんは、ミントでもいい?」
言いながら、ラベンダーの方を軽く持ち上げる。
それはもう、ほとんど決定事項のような口ぶりだったけれど、確認だけはしておきたい――そんな日和らしい間合いだった。
差し出されたミントグリーンのブラウスを、そっと受け取る。
触れた布地は思ったよりも軽くて、指先にふわっと馴染んだ。
色味はやわらかく、少し青みがかっている。
きっと、春の日差しの下なら映えるだろう。
“陽菜”なら、そういうのも似合う気がする。
そう考えでもしないと、心のどこかが落ち着かなかった。
これは“わたしが選んだ”服じゃない。
でも、“わたしが着ることになる”服だ。
「試着、してみよっか」
日和がそう言って、ラベンダーのブラウスを抱えたまま、試着室の方へ向かう。
その背中を見つめながら、俺は、ミントグリーンのブラウスをぎゅっと持ち直した。
――袖を通すだけ。そう思えば、たいしたことじゃない。
けれど、足を踏み出す直前に、もう一度だけ視線を落とす。
この服を着た“わたし”が、どんな風に見えるのか。
それを想像するのが、少しだけ怖かった。
試着室のカーテンをそっと引いて中に入る。
明るい照明と、少し狭い空間。
壁に備えつけられた鏡が、真っ正面からこちらを映していた。
手に持っていたブラウスを、ハンガーフックに掛ける。
その動作ひとつにも、まだぎこちなさが滲んでいた。
制服でも、ジャージでもない。
“陽斗”の頃に着ていた、どこか無難なものとは違う。
これは、“わたしが選んだ”わけでもない服。
ゆっくりと最初に着ていたブラウスを脱ぎ、ミントグリーンのものに袖を通す。
するすると肌の上を滑る布地は、思った以上に柔らかくて、少しだけひんやりしていた。
フリルのある襟元が、鎖骨のあたりに軽く触れる。
――うまく、呼吸が整わなかった。
着る前より、着たあとの方が、自分の身体の輪郭がわからなくなる。
鏡の中で、ミントグリーンのブラウスを着た“わたし”が、そこにいた。
服の色に肌が明るく見える気がして、髪の色も少しやわらかく映った。
たしかに――“それっぽく”見える。
でも、それが“似合っている”のかどうかは、やっぱり分からなかった。
カーテンに手をかける。
まだ、胸の奥にわずかなためらいが残っていたけれど、
それをひとつ呼吸に変えて、そっと開いた。
視界がひらける。
すぐ目の前にいた日和が、こちらを見上げていた。
ぱっと見て評価するでもなく、
ただ、静かに、こちらの姿を受け止めているような目だった。
言葉がこぼれるまでに、ほんの数秒の間があった。
「……うん。似合ってる」
それだけの一言。
でも、その声は、思っていたよりもやわらかくて――どこか安心したような響きがあった。
わたしは、何も返せなかった。
否定も肯定もできなくて、ただ立ち尽くしていた。
日和はもう一度だけ、そっと視線を向けた。
「その色、やっぱりお姉ちゃんっぽいよ」
それが褒め言葉なのかどうか、よく分からなかった。
でも、不思議と、胸の奥にざわつくものはなかった。
きっと、それは否定でも肯定でもなくて。
ただ、“わたし”としての姿を、そのまま見てくれていた。
自分がどう見られているのか。
それを日和から教えられることが、少しだけ、救いみたいに感じられた。
元の服に着替えて試着室から出ると、日和がちらりとこちらを見る。
「これにする?」
俺が小さくうなずくと、それに合わせて日和は、棚から同じブラウスを手に取った。
日和はそのままレジの方へ歩き出す。
俺も、少しだけ遅れてそのあとをついていく。
後ろを歩きながら、日和の手元に目がいった。
腕にかけられたラベンダーのブラウスは、さっき日和が試着していたものだ。
落ち着いた色合いが、雰囲気によく似合っていた。
「……その色、似合ってたね」
わたしがそう言うと、日和は少しだけ目を合わせてくる。
返事はなかったけれど、その横顔には、かすかに笑みのようなものが浮かんでいた。
その隣にある、ミントグリーンのブラウスがふわりと揺れる。
緩やかな光沢のある生地が、歩くたびに小さく揺れていた。
――これが、“わたし”の服になる。
そう思った瞬間、胸の奥にふっと、小さなざわめきが生まれた。
それは戸惑いでも、違和感でもなくて、
ほんの少しだけ、照れくさいような、そんな気持ちだった。