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存在しない昨日の話  作者: geko
第一章
3/21

第二話

 着替えを終えて、壁の時計を見ると、9時半を少し過ぎていた。


 ――着替えに、三十分。

 自分でも、呆れるしかなかった。


 部屋を出ると、トーストの焦げた香りと、温めたミルクのやさしい匂いが漂ってきた。


 階段を下り、ダイニングをのぞくと、日和が朝ごはんを食べていた。

 すでに服も着替え終わり、髪もきちんと整えてある。

 小さなマグを両手で持って、ちらりとこちらに目を向けた。


「……お姉ちゃん、遅かった」


 呆れているような口ぶり。でも、ほんの少しだけ拗ねているようにも聞こえる。


「……ごめん」


 陽斗のときなら、たぶんここから口論になっていた。

 でも今のわたしは、素直に謝る。

 “陽菜”ならどうするのか――そんなことを考えながら、言葉を紡ぐ。


「まあ、いいけどさ」


 日和は淡々とそう言い、マグをくるくると回し始めた。

 視線はもう、こちらから外れている。


 ……と思ったのに、ふいにまたこちらを見る。


「……体調悪いの?」


 そんなことを聞かれるとは思ってなかったから、言葉が出るのに少し時間がかかった。

 どこを見てそう感じたのか、考えても見当がつかない。


「……なんで?」


 ようやく出てきた声は、自分でも驚くほどかすれていた。

 日和はマグに目を落としたまま、ぽつりと答える。


「うーん……スカートじゃないから、かな」


 一瞬、何も言えなくなった。


「……え、それ、関係ある?」


 思わず聞き返すと、日和はちらりとこちらを見て、肩をすくめた。


「前からそうだったじゃん。お姉ちゃん、生理のときだけズボンじゃなかった?」


 そんなこと、俺は知らない。でも、日和の中では“当たり前のこと”なんだ。

 

「そ、そうじゃないよ。今日は……なんとなく、こっちの気分だっただけ」


 違和感は全部飲み込んで、“陽菜”らしく振舞いたかった。

 だから、できるだけ自然に、そう言ってみた。




 わたしは、日和の向かいの席に静かに腰を下ろす。

 すでに用意されていたトーストに手を伸ばすと、まだほんのりと温かかった。


 ひと口パンをかじりながら、ミルクを含む。

 ぬるくなりかけた温度が、思ったよりやさしかった。


 日和は特に何も言わず、淡々と朝食を終えていく。

 パンの端をちぎって口に運ぶ指先だけが、小さくリズムを刻んでいた。


「出るの、十時半でいい?」


 俺の問いに、日和は軽く頷いた。


「うん。……あ、ちょっとえり乱れてるよ」


「え、まじ?」


 そう言って手を伸ばしかけたら、日和がすっと身を乗り出して、えりを直してくれた。


「ほら。はい、直った」


「……ありがと」


 そう返して笑ってみせる。

 日和は、何も言わずにこちらを見返した。

 今度は、たぶん、ちゃんと笑えた気がした。


 ふと気づけば、日和のマグは空になっていて、皿の上にももうパンは残っていなかった。

 いつのまにか、食べ終わっていたらしい。


 食器を重ねて、シンクへ運ぶ。

 洗わなきゃ、と自然に思ったわけじゃない。

 ただ――“陽菜”なら、きっとこういうとき、日和のぶんも一緒に洗っていた気がした。


 その“らしさ”に、少しでも近づきたくて、

 わたしは水を出し、食器をゆっくりと洗い始めた。


 水切りかごに、ふたりぶんの食器がカチャリと控えめな音を立てて並んだ。


 


 食器を洗い終えて、部屋に戻る。


 机の上のショルダーバッグを手に取り、そこにスケジュール帳を入れる。

 予定がある、というだけで少し安心できた。

 それは、今のわたしにとって――お守りみたいなものだった。


 ふと、ドレッサーの前で足が止まる。

 姿見に映った“わたし”が、そこにいた。


 肩にかかるかどうかの髪は、きちんと整っている。

 淡いピンクのブラウスに、ネイビーのワイドパンツ。

 鏡の中の“わたし”は、“陽菜”として、そこに静かに立っていた。


 深呼吸一つして、わたしはドアノブに手をかけた。

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