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存在しない昨日の話  作者: geko
第三章
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第五話

「で、さ」


 次の日。


 わたしたちは、屋上へと続く階段の途中にいた。

 放課後の、その静かな踊り場で。

 示し合わせたわけじゃないのに、なんとなく、ここが“秘密の場所”になっていた。


「あのさ、改めて確認だけど……“陽菜ちゃん”って呼んでいいんだよね?」


 船倉の問いに、わたしは苦笑して頷く。


 陽菜の姿をして、でも、記憶は“陽斗”のままで。

 世界では、わたしは最初から“陽菜”として生きてきたことになっている。

 けれど、その“最初から”を、わたし自身は知らない。


「ごめんね、やりづらいよね」

「まあ、ちょっとだけ。でも正直、それより──ちょっと不思議な感じのほうが強いかも」

「不思議?」

「うん。“同じ人なのに、知らない時間がある”って、変な話だよなって思ってさ」


 わたしは少し黙ってから、小さく息を吐いた。


「だから、今日は……その“知らない時間”を教えてほしいの」

「春休み以前の、陽菜ちゃんのこと?」


 わたしは静かに首を縦に振った。


「わたしのことなのに、わたしが知らない“わたし”。……それって、どんなふうに見えてたのかなって」

「答える前に、俺からの質問良い?」


 その言葉に、わたしは視線だけで返事をした。


「別に、無理に“陽菜”ちゃんにならなくて良いんじゃない?」


 その言葉に、わたしは息をのむ。

 船倉の目は、どこまでも真剣で、優しかった。


 そんなふうに思ってくれることは、うれしかった。

 ……でも、わたしには、その選択肢はなかった。


「わたしが陽菜になった日ね。日和が優しかったの、何回か会ったこと、あるよね?」


 その言葉に船倉が頷く。


「陽斗と陽菜ちゃんの妹だよね。あの頃はちょっと仲が悪そうだった、っていうか……思春期っぽい距離感だったなって」


 “陽斗”だったとき、確かにそんな感じで日和とはぎくしゃくしてたな、って思い出す。


「それがね、わたしになってからは素直に話せた、っていうか日和も素直なの。ちょっと意地っ張りなとこもあるけどね」


 そう言って、わたしは口元をほころばせた。

 日和にあんな面があるなんて、思ってなかったから。


「でもそれはね、わたしになる前の“陽菜”が、ちゃんと生きてたからだと思う」


 わたしにはその記憶がない。

 ……たぶん、“陽菜”として過ごした日々が、あの笑顔を引き出したんだと思う。

 きっと、“わたし”じゃなくても届いていた優しさ。


 ……でも、だからこそ。

 今のわたしがそれを、引き継がなきゃいけない気がした。

 この名前で、この身体で、この世界で。


 “俺”じゃなくて、“わたし”として。


「だから、知りたいの。“陽菜”だったわたしが、どんなふうに生きてたのか」

「んー……じゃあ、ちょっと思い出してみるよ」


 船倉はそう言って、空を見上げるようにしてから、ぽつぽつと話し始めた。


「誰とでも、分け隔てなく接してたよ。男子にも女子にも、誰にでも。話し方も態度も変わらなくて、いつも感じが良かった。だから、クラスの中でも浮かないし、でも、どこにもべったりはしてなかった」


 わたしは黙って聞いていた。

 ……なんだか、それ、“陽斗”のときに思い描いてた、理想の“わたし”みたい。


「でもね、一定のラインを超えようとすると、距離を取られる感じもあった。誰に対しても優しいのに、ふとした瞬間に“あ、これ以上は近づいちゃだめなんだ”って思わされることがあって」

「……そうなんだ」

「うん。でも、千晴ちゃんはちょっと違ったかな」

「千晴が?」

「うん。幼馴染だからか、あの子にだけは甘える感じがあったし、千晴ちゃんの方も遠慮してなかった。言い合いしてるの、何回か見たことがあるよ。……でも、なんか楽しそうだった」


 その言葉を聞いて、胸の奥に静かな波が立つのを感じた。

 それは、わたしの知らない“陽菜”の記憶。

 けれど、たしかにあった光景。


「……ねえ、陽菜ちゃん」

「どうしたの?」

「“陽斗”って、千晴ちゃんのこと、好きだったよね」


 その言葉に、胸の奥がどくんと脈打つ。


 思い出したくないわけじゃなかった。

 でも、思い出してしまうと、どこかが崩れてしまう気がして──今まで、意識の底に沈めていた。


「……うん、そうだったと思う」


 少し迷ってから、そう答えた。


「ごめん、無理に答えさせるつもりじゃなかったんだ」

「ううん、ちゃんと答えたかった。たぶん、自分でも向き合わなきゃいけないことだと思ってたから」


 わたしは言いながら、自分の中にあった“陽斗の恋心”が、今どうなっているのかを探っていた。

 それは、もう終わってしまったのか。まだ、続いているのか。

 それとも、形を変えて、別の気持ちへと変わっているのか。


「……たぶん、今でも好き、だと思う」


 そう言ったあと、自分の胸に手を当ててみた。

 鼓動が少しだけ早くなってるのがわかる。

 名前を出されただけで、まだこんなふうになるんだなって思う。

 でも同時に、それが“恋”そのものなのかは、もう自分でもよくわからなかった。


 “陽斗”としての気持ち。

 憧れみたいなものだったのかもしれない。

 誰にも見せない一面を知っている、という優越感だったのかもしれない。


「……あの頃の自分が、誰かを好きになれてたこと。それ自体が、ちょっと羨ましいなって思うの。いまのわたしには、まだ……そういう気持ちが、ちゃんと芽生えてないから」


 船倉が、そっと目を伏せる。

 その表情は、何かを思案しているようにも見えた。


「でもさ」


 少しして、船倉がぽつりと口を開く。


「たぶん、その気持ちを整理しないと……陽菜ちゃんは、前に進めないんじゃないかな」


 船倉の言葉に、わたしは小さく頷いた。


「陽菜ちゃんは、それで本当に良いの?」

「……船倉くんが言ったんじゃん。そうしないと前に進めないよ、って」

「言ったけどさ」


 そう言って、船倉は苦笑する。


「……きっと、つらいよ?」

「うん、わかってる」


 それでも。

 この気持ちをなかったことには、できないから。

 陽斗として抱えていた想い。

 ずっと胸にしまってきた、答えのない片思い。


 わたしが“陽菜”になったとき、誰にも気づかれないまま、

 その気持ちも、なかったことにされてしまった。


 だけど――それでも、わたしの中には、ちゃんと残っていた。


「だから、せめて……ちゃんと見届けたいなって思ってる」

「見届ける?」

「うん。……もし、陽斗と千晴が、何かすれ違ったり、ぶつかったりすることがあったら。そのときは、わたしが、ちょっとだけ背中を押してあげたいなって」


 船倉はしばらく黙ってから、ふっと笑った。


「……なんか、らしいね」

「え?」

「人のために動こうとしてるのに、一番“自分”のためのことになってるの、すごく陽菜ちゃんらしいと思った」


 わたしも、自然と笑みがこぼれた。


「うん、そうかも。たぶん、ちゃんと終わらせないと、前に進めないのは――わたし自身なんだと思うから」


 静かな風が、階段の踊り場を通り抜けていく。

 夕焼けが差し込む中で、わたしたちはしばらく何も言わず、ただその場に座っていた。


 ――たぶん、ここから。

 “わたし”として、ようやく歩き出せる気がした。

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