第五話
「で、さ」
次の日。
わたしたちは、屋上へと続く階段の途中にいた。
放課後の、その静かな踊り場で。
示し合わせたわけじゃないのに、なんとなく、ここが“秘密の場所”になっていた。
「あのさ、改めて確認だけど……“陽菜ちゃん”って呼んでいいんだよね?」
船倉の問いに、わたしは苦笑して頷く。
陽菜の姿をして、でも、記憶は“陽斗”のままで。
世界では、わたしは最初から“陽菜”として生きてきたことになっている。
けれど、その“最初から”を、わたし自身は知らない。
「ごめんね、やりづらいよね」
「まあ、ちょっとだけ。でも正直、それより──ちょっと不思議な感じのほうが強いかも」
「不思議?」
「うん。“同じ人なのに、知らない時間がある”って、変な話だよなって思ってさ」
わたしは少し黙ってから、小さく息を吐いた。
「だから、今日は……その“知らない時間”を教えてほしいの」
「春休み以前の、陽菜ちゃんのこと?」
わたしは静かに首を縦に振った。
「わたしのことなのに、わたしが知らない“わたし”。……それって、どんなふうに見えてたのかなって」
「答える前に、俺からの質問良い?」
その言葉に、わたしは視線だけで返事をした。
「別に、無理に“陽菜”ちゃんにならなくて良いんじゃない?」
その言葉に、わたしは息をのむ。
船倉の目は、どこまでも真剣で、優しかった。
そんなふうに思ってくれることは、うれしかった。
……でも、わたしには、その選択肢はなかった。
「わたしが陽菜になった日ね。日和が優しかったの、何回か会ったこと、あるよね?」
その言葉に船倉が頷く。
「陽斗と陽菜ちゃんの妹だよね。あの頃はちょっと仲が悪そうだった、っていうか……思春期っぽい距離感だったなって」
“陽斗”だったとき、確かにそんな感じで日和とはぎくしゃくしてたな、って思い出す。
「それがね、わたしになってからは素直に話せた、っていうか日和も素直なの。ちょっと意地っ張りなとこもあるけどね」
そう言って、わたしは口元をほころばせた。
日和にあんな面があるなんて、思ってなかったから。
「でもそれはね、わたしになる前の“陽菜”が、ちゃんと生きてたからだと思う」
わたしにはその記憶がない。
……たぶん、“陽菜”として過ごした日々が、あの笑顔を引き出したんだと思う。
きっと、“わたし”じゃなくても届いていた優しさ。
……でも、だからこそ。
今のわたしがそれを、引き継がなきゃいけない気がした。
この名前で、この身体で、この世界で。
“俺”じゃなくて、“わたし”として。
「だから、知りたいの。“陽菜”だったわたしが、どんなふうに生きてたのか」
「んー……じゃあ、ちょっと思い出してみるよ」
船倉はそう言って、空を見上げるようにしてから、ぽつぽつと話し始めた。
「誰とでも、分け隔てなく接してたよ。男子にも女子にも、誰にでも。話し方も態度も変わらなくて、いつも感じが良かった。だから、クラスの中でも浮かないし、でも、どこにもべったりはしてなかった」
わたしは黙って聞いていた。
……なんだか、それ、“陽斗”のときに思い描いてた、理想の“わたし”みたい。
「でもね、一定のラインを超えようとすると、距離を取られる感じもあった。誰に対しても優しいのに、ふとした瞬間に“あ、これ以上は近づいちゃだめなんだ”って思わされることがあって」
「……そうなんだ」
「うん。でも、千晴ちゃんはちょっと違ったかな」
「千晴が?」
「うん。幼馴染だからか、あの子にだけは甘える感じがあったし、千晴ちゃんの方も遠慮してなかった。言い合いしてるの、何回か見たことがあるよ。……でも、なんか楽しそうだった」
その言葉を聞いて、胸の奥に静かな波が立つのを感じた。
それは、わたしの知らない“陽菜”の記憶。
けれど、たしかにあった光景。
「……ねえ、陽菜ちゃん」
「どうしたの?」
「“陽斗”って、千晴ちゃんのこと、好きだったよね」
その言葉に、胸の奥がどくんと脈打つ。
思い出したくないわけじゃなかった。
でも、思い出してしまうと、どこかが崩れてしまう気がして──今まで、意識の底に沈めていた。
「……うん、そうだったと思う」
少し迷ってから、そう答えた。
「ごめん、無理に答えさせるつもりじゃなかったんだ」
「ううん、ちゃんと答えたかった。たぶん、自分でも向き合わなきゃいけないことだと思ってたから」
わたしは言いながら、自分の中にあった“陽斗の恋心”が、今どうなっているのかを探っていた。
それは、もう終わってしまったのか。まだ、続いているのか。
それとも、形を変えて、別の気持ちへと変わっているのか。
「……たぶん、今でも好き、だと思う」
そう言ったあと、自分の胸に手を当ててみた。
鼓動が少しだけ早くなってるのがわかる。
名前を出されただけで、まだこんなふうになるんだなって思う。
でも同時に、それが“恋”そのものなのかは、もう自分でもよくわからなかった。
“陽斗”としての気持ち。
憧れみたいなものだったのかもしれない。
誰にも見せない一面を知っている、という優越感だったのかもしれない。
「……あの頃の自分が、誰かを好きになれてたこと。それ自体が、ちょっと羨ましいなって思うの。いまのわたしには、まだ……そういう気持ちが、ちゃんと芽生えてないから」
船倉が、そっと目を伏せる。
その表情は、何かを思案しているようにも見えた。
「でもさ」
少しして、船倉がぽつりと口を開く。
「たぶん、その気持ちを整理しないと……陽菜ちゃんは、前に進めないんじゃないかな」
船倉の言葉に、わたしは小さく頷いた。
「陽菜ちゃんは、それで本当に良いの?」
「……船倉くんが言ったんじゃん。そうしないと前に進めないよ、って」
「言ったけどさ」
そう言って、船倉は苦笑する。
「……きっと、つらいよ?」
「うん、わかってる」
それでも。
この気持ちをなかったことには、できないから。
陽斗として抱えていた想い。
ずっと胸にしまってきた、答えのない片思い。
わたしが“陽菜”になったとき、誰にも気づかれないまま、
その気持ちも、なかったことにされてしまった。
だけど――それでも、わたしの中には、ちゃんと残っていた。
「だから、せめて……ちゃんと見届けたいなって思ってる」
「見届ける?」
「うん。……もし、陽斗と千晴が、何かすれ違ったり、ぶつかったりすることがあったら。そのときは、わたしが、ちょっとだけ背中を押してあげたいなって」
船倉はしばらく黙ってから、ふっと笑った。
「……なんか、らしいね」
「え?」
「人のために動こうとしてるのに、一番“自分”のためのことになってるの、すごく陽菜ちゃんらしいと思った」
わたしも、自然と笑みがこぼれた。
「うん、そうかも。たぶん、ちゃんと終わらせないと、前に進めないのは――わたし自身なんだと思うから」
静かな風が、階段の踊り場を通り抜けていく。
夕焼けが差し込む中で、わたしたちはしばらく何も言わず、ただその場に座っていた。
――たぶん、ここから。
“わたし”として、ようやく歩き出せる気がした。




