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存在しない昨日の話  作者: geko
第三章
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第四話

「わたしね、ほんとは──」


 そこまで言って、言葉が詰まった。

 うまく続けられなくて、視線を落とす。


「ちょっと待って」


 船倉が、ふっと手を挙げてわたしの言葉を止めた。


「ここじゃ、ちょっと……。場所、変えない?」


 言われて、周囲を見渡す。

 ――確かに、人が少ないとはいえ、ここは図書室だった。

 急に誰かが入ってくることもあるだろう。

 わたしは、小さくこくんと頷いた。


 図書室を出たあと、わたしたちはしばらく、何も言わずに歩いた。

 並んで歩くその距離も、どこか手探りのようで。


「こっち行こう」


 そう言ってわたしは船倉の袖をくいっと引く。


 ――わたしが向かった先は、屋上に続く階段だった。

 最上階の少し手前、わたしはスカートを押さえながら、階段の端に腰を下ろす。


 普段は屋上が閉まっているせいか、ここまで来る人はほとんどいない。

 声を落とせば、たぶん、誰にも聞こえない。

 それに、今から話すことは、きっとこの場所がちょうどいい。


 窓の外から、夕方の光が差し込んでいた。

 ほこりっぽい空気が、わずかに揺れている。


 船倉が隣に座ったのを見て、わたしは口を開く。

 わたしの気持ちが整うのを待ってくれているような、そんな距離感だった。


「最初に……その変なことの、保険みたいなものをかけるね」


 船倉は首をかしげながらも、なにも言わずに聞いてくれる。


「覚えてる? 一年のとき──」


 少しだけ言い淀んで、それから言葉を選びながら続ける。


「夏の午後、昼休みのあとの授業。……ふたりでサボって、屋上に行った日があったでしょ」

「……ああ。あったね」


 船倉の声に、ほんのわずかに笑いが混じる。


「たぶん、あれがふたりとも初めてのサボりだったと思うよ」

「あとで生活指導の高安に呼び出されて、ずいぶん説教されたっけ」


 苦笑いしながら言うその声に、わたしも思わず笑ってしまう。


「屋上、鍵かかってるはずなのに開いててさ。風が気持ちよくて、自販機のソーダ飲みながら――」

「……くだらない話、してたな。彼女できたらどうするとか、女になったらどうするとか」

「うん。……したね」


 その記憶が、急にくっきりと浮かび上がる。

 陽射しの白さと、笑い声と、缶の冷たさ。

 くだらないのに、やたら印象に残ってる。

 あのときだけ、なにかから解放されてたみたいだった。


「……でもさ。なんでそのこと、知ってるの?」


 船倉の眉がわずかに動く。その声には、戸惑いが滲んでいた。


「いや、俺、あの話……誰にも言ってないし。俺と陽斗以外、誰も知らないはず……」


 言葉が、途中で途切れる。

 わたしは、それを見て、ふっと口元をゆるめた。


「な? 変な話だろ?」


 そう言って、わたしは――ほんの少しだけ、陽斗だった頃の気持ちで笑った。


 沈黙が落ちる。

 窓の外で、運動部のかけ声がかすかに聞こえた。

 わたしは、ふたたび“わたし”として口を開く。


「別に、わたしが“陽斗”からその話を聞いたんだ、って思ってくれても、それで良いよ」


 その言葉に、船倉は、小さく息を飲んだだけだった。

 けれど、静かな空気の中で、ぽつりとつぶやいた。


「……陽菜ちゃんは、誰なの?」


 静かに、けれど確かに、船倉がそう言った。

 わたしは、しばらく答えられなかった。

 答えなんて、どこにもなかった。


「分かんない。……誰なんだろうね」


 そう言ったわたしの声は、思ったよりも乾いていた。


「……今の話、保険なんでしょ。本題の“変な話”を、聞かせてよ」


 船倉は、そう言ってわたしをまっすぐに見た。

 わたしは、一度だけ目を伏せて、それから、ゆっくりと息を吐く。


「信じてって言いたいわけじゃない。……でも、これは、わたしの中にちゃんとある記憶だから」


 自分の手を見つめる。


 細くなった指。

 白くなった肌。

 声も、髪も、制服のリボンも、全部“陽菜”としてのわたしを形作っている。


 でも、その奥にあるものは――


「わたしは、ほんとは“陽斗”だった。瑛太と同じクラスで、くだらない話ばっかしてた、“陽斗”だったんだ」


 静かに、けれど確かに、言葉がこぼれた。


「朝起きたら、“陽菜”になってた。名前も、身体も、記録も。世界が、そうなってた。“東雲陽菜”っていう人間が最初からいたことになってて、わたしの存在を疑う人は、ひとりもいなかった」


 船倉は何も言わなかった。

 でも、その沈黙が、すぐに否定を返してこないことが、今は少しだけありがたかった。


「……ね? 変な話でしょ」


 わたしは、ふっと笑う。

 でも、その笑顔がちゃんと笑えていたかどうか、自分でも分からなかった。


 少しだけ沈黙が流れたあと、船倉が言った。


「……なあ、屋上でした秘密の話、覚えてる?」


 不意に投げられた言葉に、一瞬だけ、目を丸くする。

 その問いは、あまりにも“陽斗”に向けたものだった。


 ──覚えてる。

 絶対に誰にも言うなよって念を押しながら、その目は話せたことがどこか嬉しそうだった。


「……覚えてるよ。瑛太の好きな人の話。……義理のお姉ちゃん」


 わたしがそう答えると、船倉は観念したように、手で顔を覆った。


「マジか……」

「マジだよ」


 その反応がおかしくて、つい素のまま返してしまう。

 ふたりで笑い合ったわけじゃないけど、それでも、少しだけ胸の奥があたたかくなった。


「まだ全部を信じられたわけじゃないけどさ、結局、陽菜ちゃんは俺にこの話をして、どうしたいわけ?」


 まっすぐな目で、船倉がそう言った。

 わたしは答えに迷って、ほんの少しだけ口を開いたまま黙った。

 そのあとで、船倉が少しだけ首をかしげる。


「……陽菜ちゃんで、良いんだよね?」


 その間の抜けた問いに、わたしは思わず苦笑して、こくりと頷いた。


「うん。“陽菜”で、いい」


 その言葉を、静かに口にする。そう思えた自分に、ほんの少しだけ、安堵した。


「わたしはさ、“こう”なってから、“陽菜”らしくあろうとしてきたんだよね。でも、わたしの思う“陽菜”と、他の人が見る“陽菜”には、どうにもズレがあるみたいなんだ」


 一回、言葉を止めて、ひとつ深呼吸をする。


「だから、教えて欲しい。わたしが陽菜になる前の、“陽菜”のことを」


 船倉は、わたしをまっすぐに見て、少しだけ考えるような間を置いた。


「それで、知ってどうしたいの? 陽菜ちゃんは」


 その問いに、すぐには答えられなかった。

 でも――それでも。


「……それは、まだ分かんない。……でも、知らないままじゃ、嫌なんだ」

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