第四話
「わたしね、ほんとは──」
そこまで言って、言葉が詰まった。
うまく続けられなくて、視線を落とす。
「ちょっと待って」
船倉が、ふっと手を挙げてわたしの言葉を止めた。
「ここじゃ、ちょっと……。場所、変えない?」
言われて、周囲を見渡す。
――確かに、人が少ないとはいえ、ここは図書室だった。
急に誰かが入ってくることもあるだろう。
わたしは、小さくこくんと頷いた。
図書室を出たあと、わたしたちはしばらく、何も言わずに歩いた。
並んで歩くその距離も、どこか手探りのようで。
「こっち行こう」
そう言ってわたしは船倉の袖をくいっと引く。
――わたしが向かった先は、屋上に続く階段だった。
最上階の少し手前、わたしはスカートを押さえながら、階段の端に腰を下ろす。
普段は屋上が閉まっているせいか、ここまで来る人はほとんどいない。
声を落とせば、たぶん、誰にも聞こえない。
それに、今から話すことは、きっとこの場所がちょうどいい。
窓の外から、夕方の光が差し込んでいた。
ほこりっぽい空気が、わずかに揺れている。
船倉が隣に座ったのを見て、わたしは口を開く。
わたしの気持ちが整うのを待ってくれているような、そんな距離感だった。
「最初に……その変なことの、保険みたいなものをかけるね」
船倉は首をかしげながらも、なにも言わずに聞いてくれる。
「覚えてる? 一年のとき──」
少しだけ言い淀んで、それから言葉を選びながら続ける。
「夏の午後、昼休みのあとの授業。……ふたりでサボって、屋上に行った日があったでしょ」
「……ああ。あったね」
船倉の声に、ほんのわずかに笑いが混じる。
「たぶん、あれがふたりとも初めてのサボりだったと思うよ」
「あとで生活指導の高安に呼び出されて、ずいぶん説教されたっけ」
苦笑いしながら言うその声に、わたしも思わず笑ってしまう。
「屋上、鍵かかってるはずなのに開いててさ。風が気持ちよくて、自販機のソーダ飲みながら――」
「……くだらない話、してたな。彼女できたらどうするとか、女になったらどうするとか」
「うん。……したね」
その記憶が、急にくっきりと浮かび上がる。
陽射しの白さと、笑い声と、缶の冷たさ。
くだらないのに、やたら印象に残ってる。
あのときだけ、なにかから解放されてたみたいだった。
「……でもさ。なんでそのこと、知ってるの?」
船倉の眉がわずかに動く。その声には、戸惑いが滲んでいた。
「いや、俺、あの話……誰にも言ってないし。俺と陽斗以外、誰も知らないはず……」
言葉が、途中で途切れる。
わたしは、それを見て、ふっと口元をゆるめた。
「な? 変な話だろ?」
そう言って、わたしは――ほんの少しだけ、陽斗だった頃の気持ちで笑った。
沈黙が落ちる。
窓の外で、運動部のかけ声がかすかに聞こえた。
わたしは、ふたたび“わたし”として口を開く。
「別に、わたしが“陽斗”からその話を聞いたんだ、って思ってくれても、それで良いよ」
その言葉に、船倉は、小さく息を飲んだだけだった。
けれど、静かな空気の中で、ぽつりとつぶやいた。
「……陽菜ちゃんは、誰なの?」
静かに、けれど確かに、船倉がそう言った。
わたしは、しばらく答えられなかった。
答えなんて、どこにもなかった。
「分かんない。……誰なんだろうね」
そう言ったわたしの声は、思ったよりも乾いていた。
「……今の話、保険なんでしょ。本題の“変な話”を、聞かせてよ」
船倉は、そう言ってわたしをまっすぐに見た。
わたしは、一度だけ目を伏せて、それから、ゆっくりと息を吐く。
「信じてって言いたいわけじゃない。……でも、これは、わたしの中にちゃんとある記憶だから」
自分の手を見つめる。
細くなった指。
白くなった肌。
声も、髪も、制服のリボンも、全部“陽菜”としてのわたしを形作っている。
でも、その奥にあるものは――
「わたしは、ほんとは“陽斗”だった。瑛太と同じクラスで、くだらない話ばっかしてた、“陽斗”だったんだ」
静かに、けれど確かに、言葉がこぼれた。
「朝起きたら、“陽菜”になってた。名前も、身体も、記録も。世界が、そうなってた。“東雲陽菜”っていう人間が最初からいたことになってて、わたしの存在を疑う人は、ひとりもいなかった」
船倉は何も言わなかった。
でも、その沈黙が、すぐに否定を返してこないことが、今は少しだけありがたかった。
「……ね? 変な話でしょ」
わたしは、ふっと笑う。
でも、その笑顔がちゃんと笑えていたかどうか、自分でも分からなかった。
少しだけ沈黙が流れたあと、船倉が言った。
「……なあ、屋上でした秘密の話、覚えてる?」
不意に投げられた言葉に、一瞬だけ、目を丸くする。
その問いは、あまりにも“陽斗”に向けたものだった。
──覚えてる。
絶対に誰にも言うなよって念を押しながら、その目は話せたことがどこか嬉しそうだった。
「……覚えてるよ。瑛太の好きな人の話。……義理のお姉ちゃん」
わたしがそう答えると、船倉は観念したように、手で顔を覆った。
「マジか……」
「マジだよ」
その反応がおかしくて、つい素のまま返してしまう。
ふたりで笑い合ったわけじゃないけど、それでも、少しだけ胸の奥があたたかくなった。
「まだ全部を信じられたわけじゃないけどさ、結局、陽菜ちゃんは俺にこの話をして、どうしたいわけ?」
まっすぐな目で、船倉がそう言った。
わたしは答えに迷って、ほんの少しだけ口を開いたまま黙った。
そのあとで、船倉が少しだけ首をかしげる。
「……陽菜ちゃんで、良いんだよね?」
その間の抜けた問いに、わたしは思わず苦笑して、こくりと頷いた。
「うん。“陽菜”で、いい」
その言葉を、静かに口にする。そう思えた自分に、ほんの少しだけ、安堵した。
「わたしはさ、“こう”なってから、“陽菜”らしくあろうとしてきたんだよね。でも、わたしの思う“陽菜”と、他の人が見る“陽菜”には、どうにもズレがあるみたいなんだ」
一回、言葉を止めて、ひとつ深呼吸をする。
「だから、教えて欲しい。わたしが陽菜になる前の、“陽菜”のことを」
船倉は、わたしをまっすぐに見て、少しだけ考えるような間を置いた。
「それで、知ってどうしたいの? 陽菜ちゃんは」
その問いに、すぐには答えられなかった。
でも――それでも。
「……それは、まだ分かんない。……でも、知らないままじゃ、嫌なんだ」




