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存在しない昨日の話  作者: geko
第一章
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第一話

 脱衣所の床が、じんわりと冷たかった。

 シャワーで温まったはずの足先が、タイルに触れた瞬間、すっと冷たくなる。

 バスタオル一枚だけを巻いたまま、俺――いや、わたしは、しばらくその場から動けずにいた。


 ――どうして、こんなに静かなんだろう。


 鳥のさえずりも聞こえない。

 まるで、世界ごと音を失ってしまったかのようだった。


 静かすぎる空気が、胸の奥をざわつかせた。


 洗濯機の上に無造作に置かれたTシャツとパジャマのズボンを見つめる。

 自分で脱いで、置いたもののはずなのに、他人のものみたいに見えた。


 下着も――仕方なく、さっき脱いだものをもう一度身に付けた。

 妙に肌に馴染んで、柔らかさがかえって気味悪かった。


 そのままTシャツとズボンに袖を通し、ゆっくりと扉に手をかける。

 自分の部屋に戻るために。



 二階の廊下に上がったところで、隣の部屋のドアが開いた。


「あ、お姉ちゃんだ。おはよう」


 まだ眠気の抜けきらない、気だるげな声。

 東雲日和。わたしの――いや、俺の妹。


 少しぼさっとした髪をかき上げながら、日和は眠そうな目でこちらを見ていた。

 だけどその顔に、違和感も驚きも、何ひとつ浮かんでいない。


「……おはよう」


 違和感も驚きも、何ひとつ浮かんでいない日和の顔に、喉の奥がひゅっとなる。

 どう返せばいいのかも分からないまま、ようやく声がこぼれた。


 けれど日和は、そんなわたしの戸惑いになんて気づきもしない。


「今日の約束、覚えてる?」


 その問いで、混乱はさらにひどくなった。


「……約束?」


 日和とそんな約束をした覚えなんて、俺にはなかった。


「え、忘れたの?  今日、一緒に買い物に行ってくれるって約束したじゃん」


 日和は、少し呆れたように眉をひそめた。


「……そうだっけ。ごめん、ちょっと寝ぼけてたかも」


 とっさにそう返したけれど、喉の奥がひりついた。

 否定すればおかしいのは自分になる。だから合わせるしかない。

 俺の中にだけある、この“何かが違う”という感覚を、喉の奥で無理やり押し込んだ。


「もう、楽しみにしてたんだから。ちゃんとしてよ、ほんと。……じゃ、また後でね」


 そう言った日和は、俺には見せたことのないような笑顔を浮かべて、

 そのまま何事もないように、一階へと下りていった。




 ――俺の部屋は、本来、日和の隣じゃなかった。

 でも今、その隣の扉には、“陽菜”というネームプレートがついている。

 直感で分かった。この“陽菜”というのは、俺のことだ。


 ――じゃあ、本来の俺の部屋だったはずの、廊下の奥のあの部屋には、誰がいる……?

 いや、考えるな。今は……やめておけ。


 その扉の奥から、得体のしれない“何か”が出てきそうな気がした。

 背中に冷たい汗が滲む。俺は逃げるように、“陽菜”の部屋へと飛び込んだ。




 そこには、目覚めたときと同じ空気感が漂っていた。

 馴染みはないはずなのに、どこか懐かしい、“いつも通り”の気配。

 わたしはその空気に包まれて、ようやく呼吸ができた気がした。


 改めて部屋の中を見渡す。

 ベッド、机、クローゼット――どれも見覚えはない。けれど、不思議と“自分の部屋”だと感じられた。

 今はとにかく、この訳の分からない状況を、少しでも整理したかった。


 俺は机へと近づいた。綺麗に整えられた机の上に、一冊のスケジュール帳が置かれている。

 勝手に中身を覗くような気がして、一瞬、手が止まる。けれど、これは“わたし”のもののはずだ。

 無理にでもそう思わなければ、スケジュール帳を開くことなんてできなかった。


 ページをめくると、丁寧な文字で、一日一日の出来事がいくつも書き込まれていた。

 放課後に誰とどこで勉強したか。昼休みにどんな話をしたか。週末に行ったカフェのこと。

 そんな一つひとつの出来事が、まるで宝物のように並んでいた。

 俺の知らない、けれど確かに“あったこと”として残されている記録だった。


 読み進めていくうちに、ページの向こうから“陽菜”という人物の輪郭が浮かび上がってくる。

 俺とはまるで違うのに、なぜかしっくりくる、不思議なフィット感があった。

 “陽菜”という存在は――俺がなりたくてもなれなかった。

 優しくて、素直で、誰とでも自然に笑い合える、そんな人だったのだと思う。


 しばらくのあいだ、スケジュール帳を見つめたまま動けなかった。

 けれどやがて、今やるべきことに気づいて、俺は軽く頭を振った。


 スケジュール帳の中から、今日の日付を探し出す。

 ――あった。『午前10時 日和と買い物』

 視線を壁の時計に移す。時刻は、午前9時を少し過ぎたところだった。


 今の状況を考えれば、のんきに買い物に出かけている場合じゃない。

 でも――さっき日和が向けてきた、あの笑顔を思い出すと、どうしても予定を断る気にはなれなかった。


 昨日までの俺なら、きっとこんなふうに思ったりはしなかったのに。


 そんなに時間はない。

 とりあえず、着替えなければ。


 クローゼットの扉を開ける。

 中には、淡い色合いの服がハンガーに掛けられ、整然と並んでいた。


 ワンピース、スカート、レースのついたブラウス。

 どれもふわっとしていて、柔らかそうで、俺の知っている“服”とは、まるで違って見えた。


 どれを選べばいいのか分からない。

 いや、それ以前に――どれも自分が着るものじゃないように思えて、手が伸ばせなかった。


 クローゼットの前で、しばらく立ち尽くす。

 何を選んでも“正解”なんて分からないし、そもそもこの状況自体が間違ってる。

 でも、選ばなければ、出かけることもできない。


 ――だったら、クローゼットの中に唯一あったズボン――ワイドパンツを手に取る。

 パジャマを脱ぎ、脚を通す。


 その途中、目に映ったのは、自分が身に付けている下着だった。

 それは――まぎれもなく、女の子のものだった。


 ――そうだ、今の体には、ブラジャーがいるんだ。

 覚悟を決めるように、クローゼットの引き出しに手を伸ばした。


 引き出しの中、並んだブラジャーはどれもレースやリボンがついていて、それが、いかにも“女の子”で、他人のもののように見えた。


 薄いピンクに、細かいレースの縁取り――そのブラジャーが、引き出しの一番手前に置かれていた。

 自分が今、穿いているものとおそろいだった。

 ――たぶん、これがセットなのだろう。


 俺は、それを手に取った。


 重くはない。なのに、指先に妙な緊張が走る。

 “今の俺”に必要なものだと、頭では分かっている。

 ――なら、やるしかない。


 不器用な手つきで肩紐を持ち上げ、背中側のホックを確かめる。

 前で留めて、くるっと回して……そんな情報をどこかで見た覚えがある。


 苦戦はした。何度か指が滑り、ホックが空振った。

 けれど俺は、諦めずに手を動かした。


 そして、ようやく――ホックがかちっと音を立てた。

 少し戸惑いながらも、留めたブラをくるっと胸元へ回す。


 体の前面に、ふわりと柔らかな違和感が重なった。

 胸を包む感触は、どうしても、自分のものとは思えなかった。

 でも、そこにあったのは紛れもなく――今の“わたし”の身体だった。


 その上から、隠すようにブラウスを頭からかぶる。


 ゆっくりと、息を吐く。


 鏡は見ない。見たら、きっとまた立ち止まってしまう。

 だから今は――ただ、前に進むことだけを考えた。

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