第一話
脱衣所の床が、じんわりと冷たかった。
シャワーで温まったはずの足先が、タイルに触れた瞬間、すっと冷たくなる。
バスタオル一枚だけを巻いたまま、俺――いや、わたしは、しばらくその場から動けずにいた。
――どうして、こんなに静かなんだろう。
鳥のさえずりも聞こえない。
まるで、世界ごと音を失ってしまったかのようだった。
静かすぎる空気が、胸の奥をざわつかせた。
洗濯機の上に無造作に置かれたTシャツとパジャマのズボンを見つめる。
自分で脱いで、置いたもののはずなのに、他人のものみたいに見えた。
下着も――仕方なく、さっき脱いだものをもう一度身に付けた。
妙に肌に馴染んで、柔らかさがかえって気味悪かった。
そのままTシャツとズボンに袖を通し、ゆっくりと扉に手をかける。
自分の部屋に戻るために。
※
二階の廊下に上がったところで、隣の部屋のドアが開いた。
「あ、お姉ちゃんだ。おはよう」
まだ眠気の抜けきらない、気だるげな声。
東雲日和。わたしの――いや、俺の妹。
少しぼさっとした髪をかき上げながら、日和は眠そうな目でこちらを見ていた。
だけどその顔に、違和感も驚きも、何ひとつ浮かんでいない。
「……おはよう」
違和感も驚きも、何ひとつ浮かんでいない日和の顔に、喉の奥がひゅっとなる。
どう返せばいいのかも分からないまま、ようやく声がこぼれた。
けれど日和は、そんなわたしの戸惑いになんて気づきもしない。
「今日の約束、覚えてる?」
その問いで、混乱はさらにひどくなった。
「……約束?」
日和とそんな約束をした覚えなんて、俺にはなかった。
「え、忘れたの? 今日、一緒に買い物に行ってくれるって約束したじゃん」
日和は、少し呆れたように眉をひそめた。
「……そうだっけ。ごめん、ちょっと寝ぼけてたかも」
とっさにそう返したけれど、喉の奥がひりついた。
否定すればおかしいのは自分になる。だから合わせるしかない。
俺の中にだけある、この“何かが違う”という感覚を、喉の奥で無理やり押し込んだ。
「もう、楽しみにしてたんだから。ちゃんとしてよ、ほんと。……じゃ、また後でね」
そう言った日和は、俺には見せたことのないような笑顔を浮かべて、
そのまま何事もないように、一階へと下りていった。
――俺の部屋は、本来、日和の隣じゃなかった。
でも今、その隣の扉には、“陽菜”というネームプレートがついている。
直感で分かった。この“陽菜”というのは、俺のことだ。
――じゃあ、本来の俺の部屋だったはずの、廊下の奥のあの部屋には、誰がいる……?
いや、考えるな。今は……やめておけ。
その扉の奥から、得体のしれない“何か”が出てきそうな気がした。
背中に冷たい汗が滲む。俺は逃げるように、“陽菜”の部屋へと飛び込んだ。
そこには、目覚めたときと同じ空気感が漂っていた。
馴染みはないはずなのに、どこか懐かしい、“いつも通り”の気配。
わたしはその空気に包まれて、ようやく呼吸ができた気がした。
改めて部屋の中を見渡す。
ベッド、机、クローゼット――どれも見覚えはない。けれど、不思議と“自分の部屋”だと感じられた。
今はとにかく、この訳の分からない状況を、少しでも整理したかった。
俺は机へと近づいた。綺麗に整えられた机の上に、一冊のスケジュール帳が置かれている。
勝手に中身を覗くような気がして、一瞬、手が止まる。けれど、これは“わたし”のもののはずだ。
無理にでもそう思わなければ、スケジュール帳を開くことなんてできなかった。
ページをめくると、丁寧な文字で、一日一日の出来事がいくつも書き込まれていた。
放課後に誰とどこで勉強したか。昼休みにどんな話をしたか。週末に行ったカフェのこと。
そんな一つひとつの出来事が、まるで宝物のように並んでいた。
俺の知らない、けれど確かに“あったこと”として残されている記録だった。
読み進めていくうちに、ページの向こうから“陽菜”という人物の輪郭が浮かび上がってくる。
俺とはまるで違うのに、なぜかしっくりくる、不思議なフィット感があった。
“陽菜”という存在は――俺がなりたくてもなれなかった。
優しくて、素直で、誰とでも自然に笑い合える、そんな人だったのだと思う。
しばらくのあいだ、スケジュール帳を見つめたまま動けなかった。
けれどやがて、今やるべきことに気づいて、俺は軽く頭を振った。
スケジュール帳の中から、今日の日付を探し出す。
――あった。『午前10時 日和と買い物』
視線を壁の時計に移す。時刻は、午前9時を少し過ぎたところだった。
今の状況を考えれば、のんきに買い物に出かけている場合じゃない。
でも――さっき日和が向けてきた、あの笑顔を思い出すと、どうしても予定を断る気にはなれなかった。
昨日までの俺なら、きっとこんなふうに思ったりはしなかったのに。
そんなに時間はない。
とりあえず、着替えなければ。
クローゼットの扉を開ける。
中には、淡い色合いの服がハンガーに掛けられ、整然と並んでいた。
ワンピース、スカート、レースのついたブラウス。
どれもふわっとしていて、柔らかそうで、俺の知っている“服”とは、まるで違って見えた。
どれを選べばいいのか分からない。
いや、それ以前に――どれも自分が着るものじゃないように思えて、手が伸ばせなかった。
クローゼットの前で、しばらく立ち尽くす。
何を選んでも“正解”なんて分からないし、そもそもこの状況自体が間違ってる。
でも、選ばなければ、出かけることもできない。
――だったら、クローゼットの中に唯一あったズボン――ワイドパンツを手に取る。
パジャマを脱ぎ、脚を通す。
その途中、目に映ったのは、自分が身に付けている下着だった。
それは――まぎれもなく、女の子のものだった。
――そうだ、今の体には、ブラジャーがいるんだ。
覚悟を決めるように、クローゼットの引き出しに手を伸ばした。
引き出しの中、並んだブラジャーはどれもレースやリボンがついていて、それが、いかにも“女の子”で、他人のもののように見えた。
薄いピンクに、細かいレースの縁取り――そのブラジャーが、引き出しの一番手前に置かれていた。
自分が今、穿いているものとおそろいだった。
――たぶん、これがセットなのだろう。
俺は、それを手に取った。
重くはない。なのに、指先に妙な緊張が走る。
“今の俺”に必要なものだと、頭では分かっている。
――なら、やるしかない。
不器用な手つきで肩紐を持ち上げ、背中側のホックを確かめる。
前で留めて、くるっと回して……そんな情報をどこかで見た覚えがある。
苦戦はした。何度か指が滑り、ホックが空振った。
けれど俺は、諦めずに手を動かした。
そして、ようやく――ホックがかちっと音を立てた。
少し戸惑いながらも、留めたブラをくるっと胸元へ回す。
体の前面に、ふわりと柔らかな違和感が重なった。
胸を包む感触は、どうしても、自分のものとは思えなかった。
でも、そこにあったのは紛れもなく――今の“わたし”の身体だった。
その上から、隠すようにブラウスを頭からかぶる。
ゆっくりと、息を吐く。
鏡は見ない。見たら、きっとまた立ち止まってしまう。
だから今は――ただ、前に進むことだけを考えた。