第三話
放課後のチャイムが鳴って、教室が少しずつざわつき始める。
荷物をまとめようとしていたそのとき、開いた扉の向こうに、北村くんの姿が見えた。
この前、告白してきた相手。
わたしの席の前まで歩いてきて、立ち止まった。
「……あの、東雲さん。ちょっと、いい?」
名前を呼ばれて、一瞬だけ身体が固まる。
けれど、表情は変えないようにして、そっと頷いた。
廊下のすみ。並んで立ってみると、想像よりも距離が近く感じた。
人目はないはずなのに、なぜか落ち着かない。
北村くんは何度か口を開きかけてから、ようやく言った。
「この前のこと……ほんと、ごめん」
「え?」
「その……俺、友達に、言っちゃった。東雲さんに告白したこととか、断られたときのことも、ぜんぶ……」
わたしは一瞬だけ目を伏せて、それからゆっくり首を振った。
「ううん。もういいよ。……言いふらしたわけじゃないんでしょ?」
「うん。ほんと、ぽろっと言っただけで……でも、それが広まっちゃって……ごめん。東雲さん、迷惑かけたよね」
わたしは、いつものように笑ってみせた。
でも、その笑顔が、“陽菜らしい”って思われるような笑顔になってたかどうかは、わからなかった
「だいじょうぶ。気にしてないから」
そう伝えると、北村くんは少しほっとしたように息をついた。
けれど、そのあと。ぽつりと、独り言のように言った。
「……でも、やっぱちょっと変わったよね。東雲さん」
わたしは目を瞬いた。
「前はさ、もうちょっとこう……ふわっとしてるのに、隙がなかったっていうか。なんか、最近の東雲さんは、親しみやすそうっていうか、地に足がついてるって感じ」
「……そうかな」
「うん。悪い意味じゃないよ。でも、ちょっと雰囲気が違うなって、思っただけ」
そう言って、北村くんは軽く頭を下げて去っていった。
その背中を見送ったあと、わたしは小さく息を吐いた。
――変わった。
その言葉が、背中にのしかかってくる。
この変化が、良いことなのか、悪いことなのか、わたしには分からなかった。
※
結局、そのまままっすぐ家に帰る気にならなくて、図書室に来た。
誰もいない窓際の席で、ぼんやりとページをめくる。
目は文字を追っていても、意味は頭に入ってこない。
変わったって、なんだろう。
変わったのは、わたしの方? それとも、世界の方?
陽菜として、誰かに見られている自分。
陽菜として、ふるまっている自分。
それはたぶん、期待に応えようとして形づくった“外側”で、
本当のわたしは、その奥に隠れてしまってる。
「──や、陽菜ちゃん」
声がして顔を上げると、そこに船倉がいた。
「……船倉くん」
「珍しいとこで会ったね。放課後はいつもすぐ帰ってなかった?」
「ちょっと、今日は考えたいことがあって」
そう言うと、船倉くんは「あ、そっか」と少しだけ身を引くような素振りを見せた。
「じゃあ邪魔しない方がいいかな。ごめん、なんか声かけちゃって」
そう言って、去ろうとしかけたそのとき、思わず声にもならない声が漏れ出た。
かすかに、それが聞こえたのかもしれない。
船倉の足が、ぴたりと止まる。
「どしたん?」
軽い感じで船倉が聞いてくる。
その気楽さが、なにか、懐かしい感じがした。
「良かったら、ちょっと話さない?」
わたしがそう聞くと、船倉は隣の席に座ってくれた。
「かわいい女の子の誘いは断るわけにはいかないね」
「……かわいくないし」
船倉の軽口に、目をそらしながら小さく返す。
“陽菜”がかわいいのは分かってはいるけど、その言葉がわたしに向けられるのは、すごくむずがゆい。
「えー、そんなこと言う? けっこう本気で言ったのに」
「それ、他の女の子にも言ってるでしょ。そういうの信用なくすよ」
なんとなく、“陽斗”だったときのことを思い出す。
瑛太は本当に、黙っていれば女子からの人気は高かったのに、この軽口で、女子からも男子からもお調子者として扱われていた。
……でも、その軽口が、なんとなく、昔の空気を思い出させた。
「お、今ちょっとだけ笑ったね」
そう言われて、頬に触れると、少しだけあたたかかった。
ちゃんと笑えていたのかは分からないけど、それが“陽菜”として作った笑顔じゃなかったと思う。
「……なんかさ、最近の陽菜ちゃんって」
船倉が、ふと呟くように言った。
「前よりちょっと、砕けた感じになったよね」
砕けた感じ。最近よく聞くフレーズだな、って思った。
ラフな感じだったり、親しみやすそうだったり。
スケジュール帳の中の“陽菜”も、そういう風だと思っていたけど、たぶん、違うんだろう。
「……それって、悪い意味じゃないよね?」
「ないない。話しかけやすくなったってだけ。前はもうちょっと、近寄りがたい感じだったし」
――近寄りがたい。
まただ。
さっきも、北村くんに似たようなことを言われた。
わたしは、スケジュール帳の中の“陽菜”を意識しているのに、周りとズレがあるみたいだ。
“陽菜”として過ごそうとしても、素の自分をさらけ出そうとしても、
わたしは、“陽菜”のことを、まだちゃんと知らない。
わたしは、スカートをぎゅっと握る。
気づいたときには、ついていた“わたし”の癖。
「ねえ、船倉くん」
声は、ひどく乾いていた。
続けたら、もう戻れなくなる。
でも、それでも──
ここで踏み出さなきゃ、きっと、わたしは、ずっと苦しいままだ。
「もし、変なこと言っても……笑わない?」
「笑わない、って言いたいとこだけど、ごめん、あんまりおかしかったら笑っちゃうかも」
わたしの問いに、ちょっと芝居がかった声で返してくる船倉。
でも、たぶんその軽さが、今は一番ありがたかった。
深刻になりすぎずに、ちゃんと、聞いてくれそうで。
小さく、ひとつ、深呼吸をする。
「わたしね、ほんとは──」