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存在しない昨日の話  作者: geko
第三章
18/21

第二話

 昼休み。

 風が気持ちいい中庭で、お弁当のふたを開ける。


「ねえ、陽菜ってさ」


 隣で玉子焼きを口に運びながら、千晴がふいに声をかけてきた。


「最近、髪とか肌とか、ちゃんとケアしてる?」


 その言葉に、手が止まる。

 なんでもない顔をしてるつもりでも、たぶん箸がちょっとだけ揺れた。


「……なんで?」

「いや、別に悪い意味じゃないけど……最近ちょっと、陽菜、前よりラフな感じするなって」


 言いながら、千晴はわたしの横顔をちらりと見る。


「もともと気にしないタイプだったっけ? って思っただけ」


 そう言って、千晴は笑った。

 ほんの冗談交じりで、悪意のかけらもない。

 なのに、その言葉が心の奥でひっかかる。


 ――前よりラフな感じ。

 ――気にしないタイプ。


「……気にした方が良いのかな」


 そうつぶやいた自分の声が、思ったよりも素直だったことに驚く。

 冗談みたいに流してしまえばよかったのに、そうできなかった。


「うーん、別に無理にってわけじゃないよ? 陽菜は陽菜だし」


 千晴はそう言いながら、持っていたフォークでミニトマトをくるくる回す。

 その言葉に救われたような、でも――よけいに迷子になったような気がした。


 陽菜は陽菜。

 じゃあ、その“陽菜”って、どんなふうだったっけ。


 髪を整えるのも、肌を整えるのも、誰かの目を気にしてやるものだと思っていた。

 でもいまのわたしは、自分で“気にしなきゃいけない”って思ってる。

 その理由が、うまく言葉にならない。


「でも、陽菜ってリップとか、持ち歩いてなかったっけ?」


 千晴のその言葉にどきっとする。


 ――たしかに。

 部屋の棚の上、整頓用のトレイに置かれたポーチの中に、リップが入っていたはずだ。

 この前の休日に、何気なく片付けをしていたときに目に入った。

 けど、そのときも特に気にせず、そのまま放っておいた。

 それが“わたしのもの”だなんて、思えなかったから。


「つ、使い切っちゃって。買わなきゃ、って思ってるのに忘れちゃってた」


 わざとらしくならないように言ったつもりだったけど、たぶんバレてる。

 千晴はほんの少しだけ目を細めたあと、ふっと笑った。


「それ、わたしが課題忘れたときの言い訳に似てる」

「……うるさいな」


 軽くむくれて返すと、千晴はますます楽しそうに笑う。

 その笑顔に救われるような気がして、わたしもほんの少しだけ、笑い返した。


 ――でも、本当は。

 課題を忘れるのとは、ちょっとちがう。


 わたしは、リップの存在そのものを、自分に関係のないものみたいに思っていた。

 だから“忘れてた”って言葉は、ある意味で本当だった。



 帰宅して、制服を脱ぎ、部屋着に着替えたあと。

 なんとなく、そのまま机の前に座る。

 勉強するわけでも、スマホを触るわけでもなく、ぼんやりと視線を向けた先――

 棚の上の、整頓されたトレイ。

 そのすみに、小さなポーチが置かれていた。


 引き出しにしまうでもなく、堂々と出しっぱなし。

 なのに、これまでずっと“目に入っていなかった”。


 そっと手に取って、チャックを開ける。

 中から現れたのは、淡いピンク色のリップ。

 ほんの少しだけ使われた跡がある。

 だけど、それがいつ、誰の手で塗られたのか――わたしには分からない。


 “陽菜”が使っていたもの。

 でも、“わたし”が使ったことはない。


 そう思った瞬間、胸の奥がきゅうっと縮まった。


 リップを手に取ったまま、しばらく動けずにいた。


 スティックを回すと、わずかにゆるんだ感触とともに、先端が少し顔をのぞかせた。

 淡いピンク。

 艶があって、たしかに“女の子の持ち物”って感じがした。


 ――でも、どうやって塗ればいいんだろう。

 こういうのって、直に当てていいの? それとも指で?

 頭の中に浮かんだ疑問を、そのままスマホで検索してみる。


『リップ 塗り方』


 出てきたサイトには、当たり前みたいに手順が並んでいた。


『まず上下の唇を軽く整えて、中央から外側へ、力を入れずに塗り広げる』

『塗りすぎたら、軽くティッシュで押さえると◎』


 読んだだけで、うまくできる気がしなかった。

 でも、それでも。


 わたしは鏡の前に立って、そっとスティックを唇に当てた。

 言われた通り、中央から外へ。

 片方ずつ、なるべく力を入れずに。


 塗ってみたところで、何かが劇的に変わるわけじゃない。

 鏡に映った顔も、そんなに違って見えない。


 でも――少しだけ、唇が“誰かに見られる場所”になった気がして。

 胸の奥が、ざわっとした。


 塗っただけなのに、なんだか胸がそわそわしていた。

 落ち着かない気持ちのまま、ポーチにリップを戻そうとした――そのとき。


 コンコン、と控えめなノックの音。


「お姉ちゃーん、冷蔵庫のプリン食べていいー?」


 日和の声が、扉の向こうから聞こえてきた。


 ――やば。


 咄嗟に手元のポーチを引き出しにしまい、鏡の向こうにあった自分の顔を伏せるようにそらす。

 すぐに開ける気配はなく、日和の気配がその場に立ち止まっているのがわかる。


「……う、うん。いいよ」


 慌てて返事をすると、ようやくドアノブがゆっくり動く。

 開いた扉の隙間から、日和が顔だけをひょこっとのぞかせる。


「ありがとー」


 それだけ言って、すぐにまたドアは閉まった。


 唇を指先でそっと触れてみる。

 べたつきは気にならないけど、なにかがそこに“ある”ことだけは分かる。


 さっきまでと、ほんの少しだけ違う感覚。

 それを日和に気づかれるのが、どうしてかすごく恥ずかしかった。



 次の日。

 学校の帰り道。

 家までの道を歩いていて、ふと足が止まった。


 目の前にあるのは、見慣れたドラッグストア。

 ほんの少しだけ寄り道だけど、それでも、自然と身体がそっちへ向いていた。


 自動ドアが開くと、ひんやりとした空気が肌に触れる。

 店内をぐるっと見回って、化粧品コーナーの前で立ち止まる。


 まず目に入ったのは、ヘアオイルやトリートメントの棚。

 整った髪、きれいな天使の輪、甘い香り――どれも、自分にはまだ似合わない気がした。


 商品パッケージの説明を読んでみたけど、

 “傷んだ髪に”“まとまりをキープ”とか、どれもピンと来なかった。

 わたしの髪は、特別ひどいわけじゃない。

 ただ、ちゃんとケアしてるかと聞かれたら、してないだけ。


 そのまま視線がスキンケア棚に流れる。

 化粧水、乳液、下地クリーム――選び方も使い方も分からなくて、手が動かなかった。


 肌も、今のところそんなに荒れてるわけじゃないし。

 これを買ったからって、何がどう変わるんだろうって思ってしまう。


 どうしようかな。

 手ぶらで帰るのも、ちょっと変な感じがして――なんとなく、最後にリップの棚をのぞいてみた。


 そこには、色とりどりのパッケージが並んでいた。

 ピンク、ベージュ、レッド、オレンジ。

 どれも、いかにも“可愛く見せるため”のものだった。


 ――でも、その端の方に、ひとつだけ、色なしのリップクリームがあった。


 パッケージに書かれたのは「保湿ケア」「透明タイプ」。

 それだけ。

 なのに、どうしてか、それだけが“触ってもいい”と思えた。


 そっと手に取って、パッケージを指先でなぞる。


 色はつかない。

 でも、それが、今のわたしにはちょうどいいと思えた。



 帰宅して、制服を脱ぎ、部屋着に着替えたあと。

 机の上に、買ってきたばかりのリップクリームを置いた。


 袋から出して、パッケージを破く。

 キャップを外すと、ほとんど色のないスティックが顔をのぞかせる。

 指でそっと回して、ほんの少しだけ繰り出す。

 コンビニで売ってるようなものと、きっとそんなに違わない。

 それでもこれは、“わたしが選んだもの”だ。


 唇に当ててみる。

 少しだけひんやりして、なじむような感覚があった。

 香りも、ほとんどない。

 でも、そういうところが、かえってよかった。


 鏡の前に立ってみる。

 顔は、昨日とほとんど変わっていない。

 唇にも、何の色もついていない。


 それでも――


 鏡の中に、わたしはまだいなかった。

 でも、その唇だけは、“わたしが気にした”唇だった。

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