第一話
「好きです。付き合ってください」
なんとなく、想像はできていたことなのに、その言葉を聞いた途端に、わたしの思考は止まった。
春の空気が、少しだけ暖かくなってきた頃。
昇降口の裏側――人気のない通用口の前。
下駄箱に入っていた手紙に書かれていたのは、この場所だった。
そして今、わたしは告白をされている。
目の前にいるのは、顔も名前も知らない男子だった。
“陽菜”と、どういう関係だったのかも分からない。
――今まで、“陽菜”はこういうとき、どうしていたんだろう。
「……ごめんなさい」
一番ありふれた断りの言葉を、わたしは口にする。
これで良かったはずだ――わたしが知っている範囲では。
けれど、そのとき。
ふいに、陽斗と千晴の姿が脳裏をよぎった。
気づいたときには、もう言っていた。
「――他に、好きな人がいるから」
そのときの彼の表情が、どうだったかは覚えていない。
ただ、わたしの方が先に目を伏せて、頭を下げた。
スカートを、ぎゅっと握る。
“陽菜”としての生活には、なんとなく慣れてきたつもりだった。
でも、こうやって男子から告白されるような、“女子として見られている”ことを意識するたびに――
すごく、落ち着かない気分になる。
わたしは、“陽菜”らしくあろうとする自分と、仮面を外した“ほんとうの陽菜”として生きようとする自分のあいだで、どう向き合えばいいのか分からない。
その答えも見つからないまま、ふわふわとした毎日を送っていた。
※
数日が経っても、あのときの言葉が、自分の中で引っかかったままだった。
誰かに何かを言われたわけじゃない。
周りの空気が目に見えて変わったわけでもない。
それでも、教室のどこかで、自分のことを話されている気がする。
そんな感覚だけが、ずっと、消えなかった。
昼休み。男子の数人が集まって、何かを話していた。
そのうちのひとりと目が合った気がして、すぐに視線をそらされた。
声は聞こえなかったけれど、あの沈黙の間に、自分の名前が挟まっていたような気がして――
それだけで、息が詰まるような思いになる。
“陽菜”としての生活には、なんとなく慣れてきたと思っていた。
でも、そう思っていたのは、わたしの方だけだったのかもしれない。
そもそも、わたしはスケジュール帳を通して“陽菜”のことを知る以外に術がなかった。
他の人に、聞くなんてこともできなかったから。
放課後。
最後のチャイムが鳴ると、少しずつ席が空いていって、教室の声もまばらになっていった。
誰かが笑いながら帰り支度をしていて、誰かが廊下で誰かを呼んでいる。
わたしは教科書を鞄にしまいながら、まだ席を立たずにいた。
別に、誰かを待っていたわけじゃない。
ただ、すぐに帰る気には、なれなかった。
そんなとき――
「陽菜ちゃん」
名前を呼ばれて、顔を上げると、そこには船倉がいた。
ゆるく流した髪に、気の抜けた笑み。顔は整ってるのに、どこか抜けた空気をまとっている。
別に仲がいいわけじゃないのに、ふいに話しかけてくるときの距離感が絶妙で、気を抜いていると、いつの間にか会話に巻き込まれてしまう。
そういうところが、ちょっと苦手――でも、たぶん、嫌いじゃない。
「ちょっと、いい?」
そう言って、彼はわたしの隣の席を、当然のように引いた。
「なに?」
「いや、たいした話じゃないんだけどさ」
そう前置きしながらも、船倉の表情は、なんとなく探るようだった。
冗談みたいに笑っていないときの船倉の顔は、少しだけ静かに見える。
「なんか、ちょっとだけ噂になってたよ。陽菜ちゃん、告白されたんでしょ?」
心臓が、どくんと跳ねた。
「――えっ」
「北村、だっけ? 断ったって聞いたけど……」
わたしの表情をちらりと見て、船倉は少しだけ眉を上げた。
「“他に好きな人がいる”って言ったんだって?」
わたしは、言葉を返せなかった。
何かを言おうとして、でもうまく形にならなくて、視線だけを落とす。
その間を埋めるように、船倉が言葉をつないだ。
「……なんかさ。告白されて断られたのは今回が初めて、ってわけじゃないのに、いつもと違ったっぽいんだよね」
「いつも、って……」
小さく聞き返した声は、少しだけ自分でも呆けていた。
だって、“いつも”ってなに。
告白されるのが、そんなに“よくあること”だったなんて――わたしは、知らなかった。
「まあ、男子の中でちょっと話題になってただけだけどね」
船倉は、笑いもせず、淡々とした声で言う。
「“東雲さんって、好きな人がいたんだ”って。……ちょっと意外だったらしいよ」
ちょっと意外だった。
“陽菜”らしくなかった。
その言葉が、ゆっくりと、胸の奥に沈んでいく。
「でさ」
船倉は、ふと視線を泳がせながら、何気ない風を装って続けた。
「“あの東雲さんが、好きな人って誰なんだろう”ってのも、地味に話題になってたよ。男子のあいだで」
「……“あの”、ってなに」
つい、問い返すように声が出ていた。
船倉は、ちょっとだけ口元を緩めて、肩をすくめた。
「いや、知らないよ。俺が言ったわけじゃないし」
「……」
「でもさ、たぶん“そういう存在”だったんじゃない? 陽菜ちゃんって」
そういう存在。
その言い方が、なんだか曖昧で、気になった。
「……なんでそんなこと聞くの?」
気づけば、わたしのほうが問い返していた。
船倉は一瞬だけ黙って、それから、少しだけ目を細めた。
「別に。気になっただけだよ」
「“誰なんだろう”って、船倉くんも思ったの?」
「まあ……ちょっとはね」
そう言って、わざとらしく首を傾ける仕草。
冗談めかして笑ってみせるくせに、視線だけはこっちを外さなかった。
「……答えたほうがいい?」
「いや、いーよ。べつに詮索してるわけじゃないし」
そう言いながらも、船倉の笑い方は、少しだけ探るようだった。
珍しいな、と思った。
船倉は空気の読めないやつだけど、距離感はわきまえてる。
そう考えると、今のこの距離感は、明らかに踏み越えすぎだった。
「じゃあ、船倉くんは、わたしのこと、どう思ってたの?」
そのとき、船倉の目がふっと見開かれた。
「“あの東雲さん”って言ってたけど、どういうふうに見てたの? わたしのこと」
一瞬の沈黙。
でも船倉は、それには何も答えなかった。
答えなかった、というより――あえて、答えなかったのかもしれない。
わたしもそれ以上は聞かなかった。
ただ、なんとなく視線をそらして、机の端を指でなぞる。
その小さな沈黙の中に、自分でもうまく言葉にできない“ひっかかり”だけが、残っていた。
それでも、船倉がそれ以上なにも聞いてこなかったことが、少しだけ、ありがたかった。