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存在しない昨日の話  作者: geko
第三章
17/21

第一話

「好きです。付き合ってください」


 なんとなく、想像はできていたことなのに、その言葉を聞いた途端に、わたしの思考は止まった。


 春の空気が、少しだけ暖かくなってきた頃。

 昇降口の裏側――人気のない通用口の前。

 下駄箱に入っていた手紙に書かれていたのは、この場所だった。


 そして今、わたしは告白をされている。


 目の前にいるのは、顔も名前も知らない男子だった。

 “陽菜”と、どういう関係だったのかも分からない。


 ――今まで、“陽菜”はこういうとき、どうしていたんだろう。


「……ごめんなさい」


 一番ありふれた断りの言葉を、わたしは口にする。

 これで良かったはずだ――わたしが知っている範囲では。


 けれど、そのとき。

 ふいに、陽斗と千晴の姿が脳裏をよぎった。


 気づいたときには、もう言っていた。


「――他に、好きな人がいるから」


 そのときの彼の表情が、どうだったかは覚えていない。

 ただ、わたしの方が先に目を伏せて、頭を下げた。


 スカートを、ぎゅっと握る。


 “陽菜”としての生活には、なんとなく慣れてきたつもりだった。

 でも、こうやって男子から告白されるような、“女子として見られている”ことを意識するたびに――


 すごく、落ち着かない気分になる。


 わたしは、“陽菜”らしくあろうとする自分と、仮面を外した“ほんとうの陽菜”として生きようとする自分のあいだで、どう向き合えばいいのか分からない。


 その答えも見つからないまま、ふわふわとした毎日を送っていた。



 数日が経っても、あのときの言葉が、自分の中で引っかかったままだった。


 誰かに何かを言われたわけじゃない。

 周りの空気が目に見えて変わったわけでもない。


 それでも、教室のどこかで、自分のことを話されている気がする。

 そんな感覚だけが、ずっと、消えなかった。


 昼休み。男子の数人が集まって、何かを話していた。

 そのうちのひとりと目が合った気がして、すぐに視線をそらされた。

 声は聞こえなかったけれど、あの沈黙の間に、自分の名前が挟まっていたような気がして――

 それだけで、息が詰まるような思いになる。


 “陽菜”としての生活には、なんとなく慣れてきたと思っていた。

 でも、そう思っていたのは、わたしの方だけだったのかもしれない。


 そもそも、わたしはスケジュール帳を通して“陽菜”のことを知る以外に術がなかった。

 他の人に、聞くなんてこともできなかったから。




 放課後。

 最後のチャイムが鳴ると、少しずつ席が空いていって、教室の声もまばらになっていった。

 誰かが笑いながら帰り支度をしていて、誰かが廊下で誰かを呼んでいる。

 わたしは教科書を鞄にしまいながら、まだ席を立たずにいた。


 別に、誰かを待っていたわけじゃない。

 ただ、すぐに帰る気には、なれなかった。


 そんなとき――


「陽菜ちゃん」


 名前を呼ばれて、顔を上げると、そこには船倉がいた。


 ゆるく流した髪に、気の抜けた笑み。顔は整ってるのに、どこか抜けた空気をまとっている。

 別に仲がいいわけじゃないのに、ふいに話しかけてくるときの距離感が絶妙で、気を抜いていると、いつの間にか会話に巻き込まれてしまう。

 そういうところが、ちょっと苦手――でも、たぶん、嫌いじゃない。


「ちょっと、いい?」


 そう言って、彼はわたしの隣の席を、当然のように引いた。


「なに?」

「いや、たいした話じゃないんだけどさ」


 そう前置きしながらも、船倉の表情は、なんとなく探るようだった。

 冗談みたいに笑っていないときの船倉の顔は、少しだけ静かに見える。


「なんか、ちょっとだけ噂になってたよ。陽菜ちゃん、告白されたんでしょ?」


 心臓が、どくんと跳ねた。


「――えっ」

「北村、だっけ? 断ったって聞いたけど……」


 わたしの表情をちらりと見て、船倉は少しだけ眉を上げた。


「“他に好きな人がいる”って言ったんだって?」


 わたしは、言葉を返せなかった。

 何かを言おうとして、でもうまく形にならなくて、視線だけを落とす。


 その間を埋めるように、船倉が言葉をつないだ。


「……なんかさ。告白されて断られたのは今回が初めて、ってわけじゃないのに、いつもと違ったっぽいんだよね」

「いつも、って……」


 小さく聞き返した声は、少しだけ自分でも呆けていた。

 だって、“いつも”ってなに。

 告白されるのが、そんなに“よくあること”だったなんて――わたしは、知らなかった。


「まあ、男子の中でちょっと話題になってただけだけどね」


 船倉は、笑いもせず、淡々とした声で言う。


「“東雲さんって、好きな人がいたんだ”って。……ちょっと意外だったらしいよ」


 ちょっと意外だった。

 “陽菜”らしくなかった。


 その言葉が、ゆっくりと、胸の奥に沈んでいく。


「でさ」


 船倉は、ふと視線を泳がせながら、何気ない風を装って続けた。


「“あの東雲さんが、好きな人って誰なんだろう”ってのも、地味に話題になってたよ。男子のあいだで」

「……“あの”、ってなに」


 つい、問い返すように声が出ていた。

 船倉は、ちょっとだけ口元を緩めて、肩をすくめた。


「いや、知らないよ。俺が言ったわけじゃないし」

「……」

「でもさ、たぶん“そういう存在”だったんじゃない? 陽菜ちゃんって」


 そういう存在。

 その言い方が、なんだか曖昧で、気になった。


「……なんでそんなこと聞くの?」


 気づけば、わたしのほうが問い返していた。

 船倉は一瞬だけ黙って、それから、少しだけ目を細めた。


「別に。気になっただけだよ」

「“誰なんだろう”って、船倉くんも思ったの?」

「まあ……ちょっとはね」


 そう言って、わざとらしく首を傾ける仕草。

 冗談めかして笑ってみせるくせに、視線だけはこっちを外さなかった。


「……答えたほうがいい?」

「いや、いーよ。べつに詮索してるわけじゃないし」


 そう言いながらも、船倉の笑い方は、少しだけ探るようだった。


 珍しいな、と思った。

 船倉は空気の読めないやつだけど、距離感はわきまえてる。


 そう考えると、今のこの距離感は、明らかに踏み越えすぎだった。


「じゃあ、船倉くんは、わたしのこと、どう思ってたの?」


 そのとき、船倉の目がふっと見開かれた。


「“あの東雲さん”って言ってたけど、どういうふうに見てたの? わたしのこと」


 一瞬の沈黙。


 でも船倉は、それには何も答えなかった。

 答えなかった、というより――あえて、答えなかったのかもしれない。


 わたしもそれ以上は聞かなかった。

 ただ、なんとなく視線をそらして、机の端を指でなぞる。


 その小さな沈黙の中に、自分でもうまく言葉にできない“ひっかかり”だけが、残っていた。


 それでも、船倉がそれ以上なにも聞いてこなかったことが、少しだけ、ありがたかった。

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