幕間 -日和視点-
朝、目が覚めてリビングに降りると、そこにお姉ちゃんの姿がなかった。
テーブルの上には使われていないマグカップと、手つかずのままのトーストがお皿の上にあった。
いつもなら、わたしより先に起きて、朝ご飯を食べているのに。
「陽菜、今日は学校お休みするって。体調悪いみたい」
お母さんがそう言いながら、私のぶんの朝ご飯を用意してくれる。
「……そっか」
その声に、私は少しだけ考えてから、「生理かな」と思った。
直接は何も言ってなかったけど、前の晩に、ちょっとお腹を押さえてるのを見たから。
別に珍しいことじゃない。
でも――お姉ちゃんが生理で学校を休むなんて、なんとなく、意外だった。
そういうの、なるべく気づかれないように、さりげなくやり過ごすタイプだったから。
家を出る前、階段の上をちらりと見上げた。
静かな二階。気配も、音もしない。
「……ちゃんと休めてるならいいけど」
そう小さく呟いて、学校に向かった。
※
放課後、なんとなく足がスーパーに向かった。
特別な用事があったわけじゃない。ただ、家にそのまま帰るには、ちょっとだけ気がかりだったから。
チルドコーナーの前でちょっと考え込む。
スポドリにしようか、ゼリータイプのほうがいいか、悩む。
プリンも買っておいたほうがいいかな?
甘いもの、食べたい気分じゃないかもしれないけど……でも、冷蔵庫にないよりはいい。
結局、スポーツドリンクとゼリー飲料、それからカスタードプリンを選んで、カゴに入れた。
※
家に帰ると、玄関は静かだった。
靴を脱いでリビングを覗くと、お母さんの姿も見当たらない。
手だけ洗ってから、そっと階段を上がる。
二階も、やっぱり静かだった。
気配はある。でも、音はしない。テレビの音も、音楽も、なにもない。
――たぶん、寝てるんだろう。
お姉ちゃんの部屋の前で、足を止める。
ノックするべきか、迷ったけど、そっと指の背でドアをとんとんと叩いた。
「お姉ちゃん……起きてる?」
返事はなかった。
しばらく待ってみたけれど、物音すらしない。
返事はなかったけど、それならそれでいいか、と思えた。
ちゃんと休めてるなら、それでいい――そう思って、立ち去ろうとしたそのとき。
「……日和?」
小さな声が聞こえた。
ドアの向こうから、くぐもったような――けれど、確かにお姉ちゃんの声。
そっとドアを開ける。部屋の中は薄暗くて、カーテンのすき間から少しだけ光が漏れていた。
「うん、私。起こしちゃった?」
お姉ちゃんはベッドの中にいて、顔の半分だけが毛布からのぞいていた。
髪がちょっとだけ乱れてて、頬も少し赤い。
「……おかえり」
かすれた声だった。
体調が悪いときの声。
でも、それだけじゃないような気もした。
「ただいま。お土産、買ってきたよ。ゼリーとスポドリと……あと、プリンも」
そう言って、スーパーの袋を見えるように少し持ち上げる。
「……プリン?」
少しだけ目が開いて、まばたきのあとに、かすかな笑みが浮かぶ。
――ちょっとだけ、安心した。
「すぐに欲しい? 今いらないなら、冷蔵庫に入れておくけど」
「……あとでいい、あ、でも、飲み物は欲しいかも」
「うん。無理しないで」
枕元に置かれていたスマホをそっとどかして、スポドリのキャップを開けて渡す。
お姉ちゃんは、ゆっくり起き上がろうとしたけど、動きが重かった。
「……そのままでいいよ。口だけちょっと、こっちに」
そう言って、ボトルをそっと支える。
ちょっとだけ口をつけて飲んで、また布団に沈むように横になった。
毛布を整えようとしたとき、ふと、目がとまった。
お姉ちゃんの頬に、うっすらと何かの跡が残っていた。
――涙?
そう思ったけど、もう乾いていて、本当にそうだったのかは分からない。
でも、それがあったことだけは、たしかにわかった。
生理でしんどかったから、かもしれない。
それとも、ただ眠ってるあいだに、なにか夢でも見たのかもしれない。
でも。
でも、それだけじゃないような気がして、わたしは少しだけ黙り込んだ。
「ありがとう、日和」
毛布の中から、小さな声がこぼれた。
目は閉じたまま。でも、その言葉だけは、ちゃんと届いていた。
「……うん」
それだけ返して、わたしはそっと部屋を出た。
ドアを閉めると、ふたたび静かな空気が戻ってきた。
なんか、弱ったお姉ちゃんを見るのって、変な感じだった。
でも、そういう姿を見せてもらえるのって、悪いことじゃない気もした。
わたしにできることなんて、これくらいだけど――
それでも、ちょっとだけでも、届いてたらいいなって思った。
無理に強がらなくてもいいってこと、誰かに頼ってもいいってこと。
そういうことに、少しでも気が付いてくれたら。
※
しばらくして、陽斗が帰ってきた。
玄関のドアが閉まる音と、買い物袋のビニールが擦れる音が聞こえる。
「ただいま」
「おかえり」
そう言いながら、リビングに入ってきた陽斗の手には、
スポーツドリンクとゼリー飲料、そして――カスタードプリンが入った袋。
「あれ、それ……」
「ん? ああ、なんとなく。欲しがるかなって思って」
少し照れたように笑って、袋をテーブルに置く。
わたしは笑って、言った。
「私も、同じの買ってきた」
「え、マジか」
そう言って、陽斗は袋を手に冷蔵庫を開けた。
冷蔵庫に並んだ、同じ銘柄のプリンがふたつ。
どっちがどっちのかなんて、たぶん、どうでもよかった。