第七話
放課後のチャイムが鳴っても、すぐに席を立つ人はほとんどいなかった。
チャイムの余韻に混じって、小さな声や笑いが教室に残っている。
それが少しずつほどけていくのを、わたしは黙って眺めていた。
何も言わずに鞄を肩にかけて、静かに席を立つ。
誰の視線も、言葉も、わたしには向いてこなかった。
――いや、ちがう。
本当は、わたしがそれを望んでいるんだ。
関わらないで、
踏み込まないで、
今はまだ、誰にも見つからないで――
そんなふうに、自分から隠れているのは、きっとわたしの方だった。
昇降口へ向かう廊下は、まるで音が置き去りにされたみたいに、ひっそりと静かだった。
教室のざわめきは、いつの間にか遠くの世界のことのように感じられて、
自分だけが少し早く、学校の外に抜け出してしまったような感覚があった。
靴箱の前で、ゆっくりと足を止める。
ローファーを取り出して、うつむいたまま履き替える。
そのまま、何もなければ――
わたしは、今日という一日を、誰とも関わらずに終えられるはずだった。
「陽菜!」
背後からの呼び声に、肩がびくりと跳ねた。
その声が誰のものかなんて、聞かなくても分かっていた。
けれど、すぐには振り返れなかった。目を合わせるのが怖かった。
「……どうして、来たの」
振り返ると、陽斗が少し息を切らせた様子で立っていた。
制服の裾がわずかに乱れていた。きっと、走ってきたんだ。
陽斗は、わたしから距離を取るように、少し離れた位置で立ち止まっていた。
「探した。もう帰ったかと思った」
「……なんで、探すの」
声がかすれていて、自分でも、それが少し情けなく思えた。
陽斗は、その問いにすぐ答えず、少しだけ口を引き結んだ。
「……いや、うまく言えないけど。行った方がいい気がしたんだ」
「気がしたって……」
「……今日のお前、ずっと無理してた。見てて分かった」
無理してた――その言葉に、胸がひりついた。
顔に出したくなくて、わたしは視線を逸らす。
気づけば、スカートをぎゅっと握っている自分がいた。
陽斗は、それ以上言葉を続けない。
わたしも、何かを返そうとして、けれどうまく言葉が見つからなかった。
「……ごめん」
その一言は、あまりにも唐突で。
けれど、何に対してなのか――それは、言葉にされなくても、なんとなく伝わった気がした。
でも、そのまっすぐさが、余計にどう受け止めればいいのか分からなかった。
「……別にいいけど」
わたしは、小さくこぼすように言った。
そう答えるのが、精一杯だった。
本当は、ぜんぜん平気なんかじゃなかった。
でも、それ以上なにかを言われたら――
わたしの中の、なにかが崩れてしまいそうだった。
「あ、いた。やっぱり陽斗の方だったかー」
その声が聞こえた瞬間、わたしは反射的に顔を上げた。
千晴が、小走りでこちらに向かってくるところだった。
肩で息をしながらも、いつも通りの調子で、けれどその目は、どこか心配そうだった。
「探したんだからね、ほんとに。こっちはこっちで心配してたんだから」
「……なんで」
ぽつりと、それだけが口からこぼれた。
わたしのどこに、そこまでして探す理由があるのか。
黙って帰ったって、誰にも迷惑はかけないはずなのに。
それなのに、ふたりとも――。
千晴は、わたしの目の前で立ち止まると、少しだけ眉をひそめて、静かに言った。
「……別に、理由なんていらないでしょ。陽菜がいなかったら、探すよ。わたしたち、そういう関係なんだから」
その一言が、胸の奥に触れた。
ぎゅっと、強く。
しまっていたはずの気持ちが、そこからふいに揺れて、そのまま、そっと、崩れていった。
「……なに、それ……」
気づけば、声が震えていた。
かすれる喉の奥から、感情だけが溢れ出してくる。
息を吸おうとしても、喉の奥が詰まって、うまくできなかった。
堰を切ったように、涙が頬を伝った。
止めようとした。
手の甲でぬぐって、笑ってごまかそうとした。
でも、だめだった。どうしても止まらなかった。
頬が熱い。まぶたも、鼻の奥も痛い。
制服の袖で拭っても、涙はあとからあとから溢れてきて――
しまいには、袖の布がじわじわと湿っていくのが分かった。
ちゃんとしなきゃ、って思ってた。
“陽菜”として、明るくて、笑ってて、誰かにとって都合のいい存在でいなきゃいけないって、ずっと。
なのに。
……泣いてる。
こんなふうに、誰かの前で。
見せちゃいけないのに。
こんなの、“わたし”じゃないのに。
涙が止まらなくて、袖を何度もぬぐった。
けれど、拭いても拭いても頬が熱くて、じきにそれすらやめてしまった。
そんなわたしの手元に、そっとハンカチが差し出された。
見なくても分かった。千晴だった。
「……ほら、使って」
声はいつもより、ほんの少しだけ柔らかかった。
わたしは素直にそれを受け取って、目元をぬぐった。
それだけのことが、どうしようもなく、ありがたかった。
涙を見せたわたしを、ふたりは黙って受け止めてくれた。
笑われることも、拒まれることもなかった。
それだけのことが、どうしようもなく救いだった。
きっとまだ、“陽菜”という仮面を、全部外すことはできない。
でも、少しくらいなら――
弱いところを見せても、それでもここにいていいって、思える気がした。
ハンカチを返すとき、千晴と目が合った。
ありがとう、って笑ったら、向こうも少しだけ眉を上げて笑い返してくれた。
ふたりの後ろ姿を見送りながら、わたしはそっと、その背中の距離に目をとめた。
陽斗と千晴。
いつも通りに並んで歩く、ふたりの間に――
ほんの少しだけ、空気が揺れているような気がした。
涙でぐちゃぐちゃだった顔を袖で拭いて、なんとかごまかすように歩き出した。
ふたりの後ろ姿が見えてきたとき――
……なんだか、ちょっとだけ笑えてきた。
まだうまく笑えないけど、それでも、今日はそれでよかった。