第六話
朝、玄関の鏡で制服のリボンを整えていると、背後から視線を感じた。
振り向くと、日和がリビングから出てきたところで、じっとこちらを見ていた。
「……なに?」
「……ううん。別に」
言いかけて、結局は首を横に振る。
けれど、その視線は、わたしの奥を見透かそうとしているみたいだった。
「お姉ちゃん、なんか最近……無理してない?」
本気で心配してくれているのが、声に滲んでいた。
だからこそ――どう返せばよかったのか、わからなかった。
見透かされている気がして、変に取り繕うのも嘘っぽくて。
わたしは、結局、そっと笑顔を浮かべた。
陽菜っぽく、無理のないふりをして。
「そんなことないよ」
「そっか。……ならいいんだけど」
でも――その笑顔が、どんなふうに見えていたのか、わたし自身にも分からなかった。
「じゃあ行ってくるね」
「うん。気をつけて」
ドアが閉まったあとも、日和の視線の温度が背中に残っている気がした。
「おい、陽菜」
「陽菜、おっはよー!」
二人の声がほぼ同時に響いたのは、わたしが家の門を出たその瞬間だった。
驚いて顔を上げると、前では千晴が手を振っていて、
背後からは息を切らせた陽斗の声が追いかけてきた。
千晴はわたしの背後に視線を向けて、目を丸くする。
「うわ、陽斗も一緒に来んの? めずらしい」
「知らん。なんか日和にケツを叩かれたんだよ」
陽斗がそう言うと、千晴がわたしの顔を覗き込んだ。
突然のことに、一瞬、思考が止まった。
それでも、なんとか“いつも通り”を装おうと、笑顔を浮かべようとした――そのとき。
千晴に、ほっぺたをつねられた。
「ひゃ、なに……?」
「ごめん、陽菜。私、今日は先に行くね」
そう言うと、千晴は、わたしの返事も待たずに駆け出した。
返事を待つつもりなんて、最初からなかったみたいに。
ぽかんと立ち尽くしてしまう。
千晴の背中が、まっすぐに遠ざかっていく。
どうして? なんで、急に?
「……なんだ、あいつ」
陽斗がぽつりと呟いた。
けれど、その横顔にも、わたしと同じように戸惑いが滲んでいる気がした。
――わたし、なんか変だったかな。
でも、自分ではよく分からない。
何を言ったわけでもないし、いつもどおり、笑おうとしただけなのに。
なのに、千晴は、あんな顔をして――
胸の奥が、少しだけ冷たくなった。
控えめな靴音だけが、歩調を揃えて並んでいた。
いつもなら、ここを歩くのは千晴とふたり。
けれど今日は、陽斗とふたりきりだった。
「……なあ」
不意に、陽斗が口を開いた。
「最近のお前、ちょっと無理してないか」
その言葉に、思わず足が止まりそうになる。
けれど、それを悟られたくなくて、歩幅だけは崩さないように気をつけた。
――それでも、足が少しもつれた。
「なに、それ」
「日和にも言われた。『最近のお姉ちゃん、ちょっと変』って。……俺も、そう思ってた」
視線は交わさないまま、陽斗は続ける。
「千晴も、多分、気づいてる。だから、あえて先に行ったんだと思う」
わたしは、どこに立っていればいいのか、わからなくなりそうだった。
「……みんな、勝手だよね」
一生懸命やってるのに。
“陽菜”として、生きようとしてるのに。
それでも足りないっていうのなら――
わたしは、一体、どうすればよかったの?
「みんな、陽菜を心配してる。だから、あんまり無理するなよ」
その言葉が、やさしい分だけ、苦しかった。
無理をやめたら、わたしじゃなくなってしまう気がしたから。
気づけば、校門がもうすぐそこだった。
静かな朝の光の中で、わたしはもう一度、歩き出すしかなかった。
いつもの教室。
わたしの席には、昨日と同じようにカバンを置くだけの場所があって、
まるで、わたしが“ここにいること”が当たり前みたいに、日常はそこにあった。
教室の空気は、明るかった。
窓から差し込む陽の光と同じように、声と笑いが跳ねていた。
新学期の浮ついた空気は、まだどこか残っていて、それがこの教室を彩っている。
――その中に、わたしの色も、ちゃんと混じっているはずだった。
「陽菜ちゃん、そのヘアピンめっちゃ可愛い〜! どこで買ったの?」
「あ、ありがとう。えっと、妹にもらったやつ、なんだけど……」
笑顔を作って、できるだけ自然に答える。
変な間が空かないように、声のトーンも気をつけて。
話しかけられたら、ちゃんと返して、浮かないように。
――“陽菜”として、ちゃんと振る舞えてる。はずだった。
「昨日さ、千晴ちゃんに陽菜ちゃんの話聞いたよ〜。ふたり、ホント仲いいよね!」
「……うん、そうだね。仲……いいよ」
また、笑った。
でも、自分でも気づいていた。
その笑顔が、どこかぎこちなかったことに。
ふと、教室の後ろの方に目をやると、千晴がいた。
誰かと何かを話していて、明るい声で笑っている。
その横顔は、いつもの千晴だった。
目が合いそうになった――けれど、わたしのほうから逸らしてしまった。
なんで、逸らしたんだろう。
ちゃんと目を見れば、たぶん何か、伝わった。
でも――それが、いちばん怖かった。
気づかないふりをしてるのが、いちばん楽だから。
気づけば、昼休みになっていた。
周囲のざわめきが、教室の空気を柔らかく変えていく。
席を立つ人、笑いながら弁当を開く人。
そんな中で、わたしは、ただ席に座ったまま、手を動かすふりをしていた。
「陽菜ちゃん、今日はお弁当?」
声をかけられて、はっと顔を上げる。
クラスメイトの女子が、笑顔でこちらを見ていた。
「あ、うん。……持ってきてる」
少し間が空いてしまった気がして、慌てて笑い返す。
それでも、笑顔はちゃんと形になっていたと思う。
「よかったら、今日一緒に食べよ? 陽菜ちゃんのお弁当、めっちゃ美味しそうだし!」
そう声をかけてくれた子の笑顔は、悪気なんてまったくなかった。
だからこそ、余計に胸が苦しくなる。
「うん……でも、今日はちょっと、一人で食べたい気分で……ごめんね」
「そっか、じゃあまた今度!」
軽く手を振って戻っていく背中を見送りながら、わたしはお弁当を手に教室を出た。
人気のない階段の踊り場。
そこは、春の陽が差し込む、ひっそりとした場所だった。
膝に弁当を置いて、箸を取る。
一口、口に運ぶ。
でも――味が、しなかった。
何かを噛んでいる感覚はあるのに、その先に広がるものが、何もない。
思わず笑いそうになる。
これじゃ、まるで、空気を食べてるみたいだ。
そう思った瞬間、なぜか、目の奥が熱くなった。
だめだ、こんなことで。
そう思って、上を向いた。
でも涙は、こぼれた。
笑おうとしても、うまくいかない。
涙を隠そうとして、笑おうとして――そのどっちも、できなかった。
ただ、ぽろぽろと泣いた。
ひとりきりの昼休みの階段で。
誰にも見られない場所で、仮面が、剥がれた。