第五話
玄関の扉を閉めたとたん、家の中の静けさが全身を包んだ。
家に帰ってきたのに、なぜだか気持ちは学校に置いてきたままみたいだった。
リビングには寄らず、そのまま自分の部屋に向かう。
ドアを閉めて、バッグを床に置いた。
制服のまま、ベッドに倒れ込んで、天井を見上げる。
――今日は、なんだか疲れた。
大して動いてもいないはずなのに、肩が重い。
心のどこかが、まだざわざわと波打っている。
今日の、船倉の問いを思い返す。
陽斗と千晴が、どうなってほしいと思っているのか。
思い返したくないのに、あの言葉が勝手に蘇る。
――付き合ってんの? あのふたり。
何気ない問いだった。
悪意もからかいもない、ただの好奇心。
けれど、それがひどく無防備で、鋭くて、心の奥に刺さった。
わたしは、どう返したんだっけ。
ちゃんと、笑えていたっけ。
……あのとき、手のひらが、少しだけ汗ばんでいた気がする。
陽斗と千晴が笑い合っていた姿が、頭の奥に焼きついて離れない。
昔から、きっとあんなふうだったのだろう。
わたしがいない場所で、あのふたりの時間は、ずっと続いていた。
――本当は、その中に、“俺”がいたはずなのに。
もしわたしが、陽菜じゃなくて、陽斗のままだったら。
そこまで思って、慌てて頭を振った。
そんなこと、考えても意味がない。
それは、もう終わった話だ。
わたしは、わたしとして、生きると決めたのに。
――わたしは、わたしなのに。
わざとゆっくりと息を吐いて、身体を起こした。
机の上に目をやる。
綺麗に整理された、ノートや文房具たち。
その横に、一冊のスケジュール帳が置かれていた。
それは、“陽菜”のもの――のはずだった。
手に取って、ぱらぱらとページをめくってみる。
色とりどりのペンで書きこまれた予定たち。
友達との約束や、勉強の進捗、家族の誕生日。
きちんと整理されていて、まるで模範的な高校生みたいな生活。
“陽菜”という人は、こんなふうに、ちゃんと毎日を生きていたんだ。
なのに――
ページをめくる手が、ふと止まる。
どこかで聞いたような名前。見覚えのない予定。
……なのに、まるで知っていて当然のように、当たり前に並べられている。
こんなふうに生きていたら、誰かに褒めてもらえると思ったのかな。
でも、それは――
“わたし”じゃない。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
そのスケジュール帳には、どのページにも、「わたしの頑張った証」は、ひとつもなかった。
わたしが頑張った記録じゃない。
けれど、そのどのページにも、「わたしはこうあらねばならない」が、きちんと整って、並んでいた。
まるで――誰かが、こういう“わたし”であってほしいと願ったかのように。
ぱたり、と閉じた。
手のひらが、じんわり汗ばんでいた。
“陽菜”という女の子は、
――最初から、わたしの知らないところで、完璧にできあがっていた。
だったら、わたしは、いったい誰なんだろう。
うまく、“陽菜”を演じきれない、このわたしは。
時計の針が、静かに音を立てていた。
けれど、その音すらも、自分の中にうまく届いてこない。
制服のまま、ベッドの端に座り直して、もう一度だけスケジュール帳を見た。
その表紙にある名前――「陽菜」という文字が、まるで自分のことじゃないように感じられた。
鏡の中の“わたし”は、たしかに陽菜として、ちゃんと存在していた。
みんながそう呼ぶから。
みんなが、そう接してくるから。
でも、
でもそれは――“陽菜”という名前の役を演じているだけじゃないのか。
誰かの期待どおりに、誰かの理想どおりに。
「……こんなの、知らないよ」
声に出してみたら、胸の奥に刺さっていた棘が、少しだけ浮かび上がった気がした。
でも、それを取り除く術は、まだ分からない。
ただ痛みだけが、そこに確かにある。
もう一度、ベッドに身を沈める。
天井を見つめながら、ひとつ息を吐いた。
――明日も、陽菜として、生きなきゃいけないのかな。
考えたくないはずの問いが、ふいに心をよぎった。
けれどそれを振り払うこともできなくて、ただそのまま、まぶたを閉じた。
少しだけ、涙の味がした。