第四話
登校二日目。
昨日は始業式だけで終わったから、今日からが本当の「新学期」のはじまりだ。
と、言っても今日は、午前中だけ短縮授業で、午後は部活や委員会だけ。
“授業がある日常”という意味では、まだ助走段階のようなものだ。
そんな空気を映したように、今朝の校舎はどこかのんびりしていた。
千晴と並んで玄関をくぐる。
階段を上がっていく途中、すれ違う生徒たちの姿に、ようやく春休みが終わった実感が湧いてきた。
「おはよー、陽菜ちゃん、千晴ちゃん!」
教室に入ると、すでに何人かが席についていて、わたしたちに手を振ってきた。
あいさつを返しながら席に着く。
少しずつ、こうやって“日常”に戻っていくんだろうか。
そんなふうに思っていた、そのとき。
教室のドアが、騒がしく開いた。
「おっはー! 陽斗いる? 新年度も相棒ポジ、俺が独占なー!」
……相変わらず、うるさい。そして、変わらない。
船倉 瑛太。
陽斗時代の“俺”の、数少ない、気の合う親友だったやつ。
その騒々しい足取りも、声も、表情も、なにも変わっていない。
「うわ、出た」
千晴がげんなりとした声でつぶやく。
そのやりとりも、なんだか見慣れた光景だった。
千晴と船倉は、陽斗の幼なじみと親友という関係で、自然と顔を合わせるようになった。
ふざけ合ってはいるけど、仲がいいのか悪いのか……たぶん、その両方なんだと思う。
正直、ノリはまったく合ってない。というか、船倉の方が一方的に空回ってることが多い。
ふざける船倉に、千晴がツッコミを入れる――その距離感は、いまもあの頃のまま。
「って、なんだその“ゴキブリ出現”みたいな反応! 俺は春風のようなさわやか男子だぞ?」
「その春風、存在がうるさすぎて花粉飛ばしてそうなんだけど」
「ひどない!? 陽斗〜! 俺、今いじめられてる〜!」
その声に、近くの席の男子が「また始まったよ」と苦笑交じりにつぶやいた。
勝手に陽斗の席まで駆け寄って、誰もいないことに気づいて勝手にがっくり肩を落とす。
「……いないやん」
ひと呼吸置いて、船倉はくるりとこちらを振り返り、そのままこっちの方へ数歩歩いてきた。
「陽菜ちゃん、陽斗まだ来てないの?」
急に名前を呼ばれて、わたしは一瞬だけ固まった。
「あ、うん……まだ、だと思う」
「そっかー。てか、春休み明けてもやっぱ似てるよね、双子って。不思議!」
「……うん、まあ」
受け答えしながらも、心のどこかで考えていた。
“陽菜”だった頃のわたしは、船倉とはそこまで親しくなかったはず。
顔を合わせれば挨拶するくらい。
陽斗の男友達のひとり、という程度の距離感だったと思う。
それなのに、どうしてこんなに気さくに話しかけてくるんだろう。
懐かしいようで、知らないものみたいだった。
――なのに。
今の“わたし”は、船倉のノリも、テンポも、ちょっとした癖すらも分かっている。
それはたぶん、“陽斗”として船倉と過ごした時間のせいだ。
だから、自然に返せてしまう。
だから、距離が近づいてしまう。
わたしは――“陽菜”として、それを受け入れていいんだろうか。
そんなふうに思っていたところで、再び教室のドアが開き、陽斗が姿を見せる。
少しだけ髪を乱して、いつもの、どこか気だるげな歩調のまま。
「おっそー。おい陽斗、お前の嫁に冷たくされたせいでハートブレイクだったぞ!」
船倉が腕を広げて迎えると、陽斗は一瞬だけ眉をひそめて、
「嫁って誰だよ……」
「誰が嫁よ、バカ」
隣の千晴とツッコミが重なった。
そのやり取りが、妙にしっくりきて。
思わず黙ってしまった。
――まるで、わたしだけが、“そこ”にいないみたいで。
それなのに、不思議といやな気持ちはしなかった。
むしろ、それは少しだけ、安心する光景だった。
わたしのいなくなった“陽斗”が、ちゃんとそこにいるような気がして。
――いや、わたしが“いなくなった”んじゃない。
わたしが“ここにいる”ことを、忘れちゃいけない。
「……どうかした?」
ふいに千晴が声をかけてきた。
わたしは小さく首を振って、ふっと笑う。
「ううん。なんでもないよ」
陽斗は自分の席に向かいながら、軽く肩をすくめる。
「朝から騒がしすぎだろ、瑛太」
「いやいや、朝から陽斗の顔が見れてテンションぶち上がりなんですけど?」
「はいはい、落ち着けって」
そんなふうに応じながらも、陽斗の声はどこか気だるげで、けれど慣れたように受け流していた。そういうやり取りも、昔から変わらない――そんなふうに見えた。
わたしは、そっと視線を伏せた。
その隣で、千晴がぼそっと漏らす。
「ほんっと、船倉の顔の良さには腹立つわ」
「えっ、なんで?」
「あの顔で逆に何言っても許されてる雰囲気が腹立つの」
そう言って、千晴はいたずらっぽく笑った。
その笑顔に、少しだけ胸が軽くなる。
――でも、どこかで感じていた。
わたしの“陽菜”としての居場所は、まだ、この輪の外側にある気がして。
そのとき、廊下のスピーカーからチャイムが鳴った。
短縮授業の1時間目。始業式の翌日、ほんの少しだけ慌ただしい、春の一日が始まった。
※
授業がすべて終わるころには、昼の光がほんの少しだけやわらいでいた。
放課後。昇降口へ向かう廊下。
窓の外には、春の空気がゆるやかに流れていた。
「よう、陽菜ちゃん」
ふいに背後から声をかけられる。
振り返ると、船倉がいた。
「……どうしたの、船倉くん?」
「んー……なんとなく。ちょっと、話さない?」
「……なんで?」
つい問い返しながら、わたしはスカートの裾を握っていた。
意識してなかった。
でも、たぶん――少しだけ、警戒してたのかもしれない。
そんなふうに、声をかけられたのは――“陽斗”だった頃の話だ。
“陽菜”としてのわたしには、初めての距離感。
意図が読めなくて、つい身構えてしまう。
でも、軽く笑うその顔は、いつものお調子者のままだった。
「いやさ、あの二人。陽斗と鹿野園。どうなってほしいと思ってんのかなーって」
「……え?」
「今日、複雑そうな顔で見てたでしょ、二人のこと、なんかいつもと違うな―、と思って」
冗談みたいな調子だった。
でも、言葉の芯は、まっすぐだった。
「……わたしは、」
何かを言おうとして、言葉が詰まる。
「……どう思うのか、なんて――」
考えたことなんて、ない。
いや、本当は、あった。
でもそのたびに、考えないようにしてきた。
きっと、ただ逃げていただけなんだ。
でも、どうなってほしいか、なんて。
決まってる。
――けど、それは、“陽菜”が願っていいことじゃない。
わたしはもう、あの場所には戻れない。
もし、戻れたら――なんて、思っちゃいけないのに。
ただそれだけのことなのに、
どうして、こんなに苦しいんだろう。
「……ごめん。ちょっと、うまく言えない」
ようやく絞り出した声は、ひどく、かすれていた。
「……そっか。無理させてごめん。ちょっと気になっただけだから、ごめんな」
そう言って、船倉は軽く頭を下げると、踵を返して歩き出した。
足音が、昼下がりの廊下にゆっくりと遠ざかっていく。
――なにも、言えなかった。
言いたい言葉は、たしかに胸の奥にあったのに。
言ったところで、どうにもならないって、知っていたのに。
それでも。
それでも、言いたかった。
でも、言えなかった
こらえていたはずのものが、
ぽたり、と、頬をつたって落ちた。
こんなとこ、誰にも見せられないのに。
それでも、止められなかった。