第三話
始業式が終わり、教室に戻ってくると、窓の外には、春の光がやわらかく揺れていた。
席に戻ると、さっそく何人かの子が声をかけてきた。
名前を呼ばれて、笑顔で応じる。
他愛もない話題に、頷いたり、相槌を打ったり。
――いつの間にか、“陽菜”には、こうして話しかけてくれる友達が、ちゃんといることになっていた。
知らないはずの話を、知っているふりをする。
わたしが知らない“わたし”の話に、置いていかれないように。
ただそれだけのことで、こんなにも気を張ることになるなんて、思ってもみなかった。
新しい教室にも、少しずつ慣れてきた――気がする。
……慣れた“ふり”が、上手くなっただけかもしれないけれど。
「同じクラスになれて良かったね」
千晴の声が聞こえたのは、ちょうど会話の波がおさまった時だった。
顔を向けると、前の方の机で、陽斗と千晴が話していた。
どちらともなく笑っていて、どちらともなく言葉を返している。
そのやりとりは、ごく自然で――まるで、何年も前からそうしてきたみたいだった。
“陽菜”のわたしにとっては、きっと見慣れた光景のはず。
でも、“俺”にとっては、初めて見る二人の距離だった。
――前から、あんな感じだったんだろうな。
誰に向けるでもないその思いが、心の奥に静かに沈んでいく。
――でも、もし。
もし、わたしがまだ“俺”だったら。
いま、あそこにいるのは、自分だったんじゃないか。
そんな思いが、一瞬だけ頭をよぎった。
けれどすぐに、首を横に振った。
意味のないことだ。
もう、いないのに。
――あの場所にいた“陽斗”は、もう、どこにもいないのに。
「ねえ、あの二人ってさ、けっこう仲良いよね?」
ふいに、隣の子がそんなことを言った。
……わたしの視線の先を、彼女も追ったのだろう。
陽斗と千晴が並んで話しているのを見つけて、ふっと声を漏らした。
思わず、手が止まる。
「ほら、東雲くんと鹿野園さん。なんか、自然っていうか……あれ、もしかして付き合ってる?」
「えー、さすがにそれはなくない? あの二人って幼なじみなんでしょ?」
笑い混じりの声が、なんでもない会話として、わたしの耳に届く。
「ねえ陽菜ちゃん、東雲くんと鹿野園さんってさ、実際どうなの?」
ふいに名前を呼ばれて、わたしは少しだけ息を詰めた。
「双子でしょ? そういうの、なんとなく気づいてたりしない?」
そう言って笑う彼女たちに、悪意はなかった。
ただの、よくある女子の他愛ないおしゃべり。
「え……どう、だろ。あんまり、聞いたことない、かな……」
曖昧に笑ってごまかす自分が、少しだけ情けなかった。
“陽菜”のわたしは、きっとそうやって受け流してきたんだと思う。
でも“陽斗”だった俺は――
本当は、あの距離がうらやましくて、目をそらしていたのかもしれない。
あの場所に、かつていたのは“俺”だった。
きっと、春休み前までは、あそこに立っていたのは――俺だった。
でも今は違う。
陽斗は陽斗のままで、変わっていないのに。
“俺”のいた場所には、もう“陽菜”の姿はない。
変わってしまったのは――わたしの方だ。
わたしは、そっと目をそらした。
見ていたのがばれたわけでもないのに、なぜか後ろめたさのようなものが胸に残る。
それはたぶん――あそこにいたのが、自分ではなかったから。
“陽菜”としてのわたしが、あの場所に立つことは、きっともうないのだと思った。
代わりに、千晴の隣にいるのは陽斗で、その距離は、わたしの知らない時間で作られたものだった。
変わってしまったのは、わたしだけ。
陽斗も、千晴も、何ひとつ変わっていないのに。
まるで、わたしの方が異物みたいだった。
でも、それは仕方のないことだ。
だって、わたしは――“陽菜”なのだから。
もう、“陽斗”ではない。
そこにいることを許されるのは、“わたし”ではなかったはずのわたしだ。
教室のざわめきから、目を背けるように、わたしは視線を机に落とす。
机の上には、始業式でもらった資料の束。
そのなかには新しい時間割と、名前の記されたクラス名簿があった。
名前は――“東雲 陽菜”。
それが、この世界の“わたし”だった。
「……なんか、今日元気ないんじゃない?」
声のする方に顔を向けると、クラスの女子の一人がこちらを見ていた。
目が合った瞬間、彼女は気まずそうに笑って、首をかしげた。
「陽菜って、もうちょっと元気な子じゃなかったっけ?」
――わたしは、小さく笑ってごまかす。
“陽菜”としての記憶を持っていないくせに、みんなは“昔の陽菜”のことを知っているように振る舞う。
でも、その“陽菜”って――誰なんだろう。
わたしが、わたしになる前の、“わたしじゃない誰か”。
チャイムの音が、教室のざわめきをひとつ区切る。
始業式のあと、あっという間に終わった初日の時間割は、この後のホームルームで終わりで、
それも、ほんの数分で終わってしまった。
鞄にもらったプリントを入れていると、千晴が声をかけてきた。
「これから職員室寄ってくる。先に帰ってていいからねー」
「うん、わかった」
手を振って教室を出ていく千晴の後ろ姿を、ぼんやりと見送る。
それだけで、なんだか少し取り残されたような気持ちになるのは、どうしてなんだろう。
陽斗の席に目を向けると、陽斗の姿もない。
チャイムと同時に、教室を出ていったらしい。
わたしは立ち上がり、窓のほうへと足を向けた。
春の陽射しに、カーテンの布がふわりと揺れる。
手でそっと押しのけると、磨かれたガラスに、自分の姿が映った。
そこにいたのは――“陽菜”だった。
スカートの制服を着て、肩までの髪を風に揺らしている“わたし”。
たしかにそこに立っているのに、どこかまだ、自分ではない気がしていた。
わたしは今日、“陽菜”として過ごした。
昨日より、ほんの少しだけ自然に。
少しずつ、馴染もうとしている。――けれど。
どうしてだろう。
千晴と陽斗が並んで笑っていた光景が、
いつまでも胸の奥に、薄い膜のように張りついて離れなかった。
気づかないふりをした。
ちゃんと見なかったふりをした。
だってその感情に、まだ名前をつけたくなかったから。
つけてしまえば、きっと、もう戻れなくなる気がした。
だから、今日はまだ、知らないふりをしておく。