第二話
玄関のドアを閉めたとたん、春の風が頬をかすめた。
ふわり、と。
スカートの裾が舞い上がる。
咄嗟に手で押さえたけれど、どうにも落ち着かない。
思っていたより、軽くて――風をはらんで、すぐに揺れる。
“陽斗”のときなら、こんなこと、気にする必要なんてなかったのに。
歩き出すたびに、足元で布が揺れる感覚がある。
それだけで、歩幅が少しだけ狭くなる。
――それでも。
湯船で、そっと笑ってみた昨夜のことを思い出す。
まだ慣れないけれど、昨日よりはほんの少しだけ、“陽菜”としての自分が馴染んでいる気がした。
「陽菜、おっはよー!」
門を抜けたところで、軽やかな声が弾んだ。
少し先で、鹿野園が大きく手を振っている。
動きに合わせて、ポニーテールが、春の風に乗って踊るように揺れていた。
鹿野園 千晴。
幼馴染で、明るくて、隣にいると自分まで少しだけ前向きになれる、“陽菜”の――親友。
そして、俺の片思い相手だった子。
――でも、その気持ちについては、まだ、考えないようにしている。
いまはただ、棚の奥にそっとしまったまま、“陽菜”らしさ、という仮面をそっと被って、笑顔を作る。
「おはよう、……千晴」
名前だけが、少しだけ遅れて口をついて出た。
陽斗だった時は、“鹿野園”と呼んでいたせいか、名前を口にするのは、まだ少しだけ、ぎこちない。
鹿野園と、“陽菜”の関係だけは、どうしても知っておきたかった。
だから、少しだけ、スケジュール帳を――こっそり、読ませてもらった。
そこには、わたしの知らない毎日が、普通の顔をして並んでいた。
わたしと――千晴が、自然と歩幅を合わせる。
“陽斗”だった時は、最後に一緒に登校したのなんて中学生の頃だったと思う。
“陽菜”としては、きっと何度もこうして歩いてきたのだろう。
でもわたしにとっては――久しぶりで、少しだけ、遠い距離だった。
「そういえば春休みさ、結局一緒にどこも行かなかったじゃん? 何してたの?」
ふいに向けられた言葉に、少しだけ足が止まりそうになる。
「えっと……あんまり、これといっては……」
なんて、曖昧に笑ってごまかす。
本当のことを言えば、“わたし”にとっての春休みは――この世界に生まれてからの、たった一日だけだった。
「そっか。私も部活ばっかだったから、全然遊べなかったし」
千晴はそう言って、前髪をかき上げながらあっけらかんと笑った。
その笑顔に、少しだけ救われたような気がした。
――わたしの曖昧な返事に、気づいてないふりをしてくれたのかもしれない。
そう思ってしまうのは、たぶん、わたしが勝手に後ろめたく思ってるからだ。
「まーでも、またそのうち遊び行こ。誘えばなんだかんだ来るでしょ?」
千晴は、まるで全部知ってるみたいな顔で、こちらを見た。
“陽菜”としてのわたしを、ずっと昔から知っている――そんな目で。
本当に、“陽菜”ってそういうタイプだったんだろうか。
わたしには、その記憶が、ひとつもないのに。
そんなことを考えているうちに、校舎の玄関が見えてきた。
玄関で上履きに履き替えようと、かがんだとき。
スカートの裾がふわりと浮いて、思わず手を添える。
こんな何気ない動作ひとつでも、まだ自分のものじゃない気がして――少しだけ、動きがぎこちなくなった。
「あ、クラス分け、出てるよ。あそこ」
そう言って、千晴が足早に前へ出る。
視線の先には掲示板があって、廊下にはすでに何人かの生徒が集まり、顔を近づけながら名前を探す声がざわざわと飛び交っていた。
わたしは一歩遅れてその場に近づき、ひとまず“東雲”の文字を探す。
すぐに見つかった。“二年B組”の欄。
東雲 陽菜。
それが自分を指していることが、まだどこか他人事のように感じられた。
「お、あったあった。陽菜は何組だった?」
千晴が、ぱっとこちらを振り返る。
「B組だったよ」
「私もB組。うん、ちょっと安心したかも」
そう言って見せた笑顔がまぶしくて、わたしはとっさに視線をそらしてしまった。
「うん、……良かった」
そう答えながら、胸の奥に沈んでいた感情には、まだ名前がつけられなかった。
本当に良かったのか。
“陽菜”として、これから一年、ちゃんとやっていけるのか――
不安と期待と、なにか名前のつかない感情が、胸の中でふわふわと混ざり合っていた。
クラス分けの掲示を見たあとは、自然と人の流れにまぎれるようにして、歩き出した。
千晴が、ひとつ前を歩いている。
わたしは、その後ろ姿を見失わないように、少しだけ歩幅を広げた。
新しい教室は、二階の西側。
白い壁に、春の陽射しが斜めに差しこんでいる。
塗り直されたばかりのワックスの匂いに、新学期の空気を感じた。
扉の向こうからは、ざわざわとした声が聞こえる。
誰かが名前を呼び合って、笑い合っている。
きっと、去年も同じクラスだった子たちなんだろう。
千晴が立ち止まり、こちらを見た。
その視線に、どこか安心させられるものがあって――
「……行こっか」
わたしは、こくんと小さくうなずいて、そのあとについていく。
教室の中は、半分くらいの席が埋まっていた。
窓際の席に、ひとりで座っている子。
廊下側で、すでにグループをつくって話している子たち。
――そのどこにも、わたしの居場所はないように見えた。
「空いてるとこ、どこでも座っていいんだって。とりあえず後ろの方、取っとく?」
千晴がそう言って、教室のいちばん後ろの席に鞄を置く。
わたしはうなずいて、その隣の席に鞄を置いた。
席に座って、そっと深呼吸をする。
教室の窓の外では、桜の花が、そよ風に揺れていた。
ほどなくして、クラスの人数はだいぶ揃ってきた。
掲示板の前で顔を合わせた子たちが、教室のあちこちで再会を喜び合っている。
笑い声と名前が飛び交って、空気が少しずつ色づいていく。
そのとき、扉の向こうから、また足音が近づいてきた。
――陽斗だ。
背の高い影が、教室の扉の向こうに現れた。
その姿を目にした瞬間、心臓が一度だけ、大きく音を立てた。
やっぱり、あの“自分だったはずの陽斗”を目にするのは――まだ、落ち着かない。
「あっ、陽菜ちゃん!」
「わ〜、また同じクラスだ〜! 嬉しい〜!」
二人組の子が、笑顔で手を振りながら歩み寄ってくる。
わたしも笑顔を返す。声の調子も、表情の作り方も――慣れたふりで。
「わたしも、同じクラスでうれしいよ」
「あーもう、その雰囲気。やっぱ陽菜ちゃんって落ち着くわ〜」
「うんうん。隣にいると、なんか安心するよね」
そんなふうに言われると、
わたしは“陽菜”として、ちゃんと振る舞えているんだと実感する。
でも同時に――思ってしまう。
それって、わたしじゃなくて、“誰か”に向けられた言葉なんじゃないかって。
名前を呼ばれているのに、自分のことじゃないような気がする。
まるで、他人の噂話を間近で聞いているみたいだった。
何人かと言葉を交わしていた千晴が、戻ってきて、わたしの隣に腰を下ろす。
「初めまして、で合ってるよね。……陽菜の友達ってだけで、ちょっと安心する」
そのまま、当たり障りのない会話がしばらく続き、気づけばあっという間にチャイムが鳴っていた。
ざわついていた教室が、徐々に静かになっていく。
数秒の間をおいて、担任らしき先生が教室に入ってきた。
「はいはーい、おはようございます。今日からこのクラスを担当することになりました、英語の石上です。よろしくお願いしますねー」
少し明るめの声が教室に響く。緊張と期待がないまぜになった空気が、ほんの少しほぐれていくのを感じた。
そのとき、千晴が机に肘をついたまま、こそっとこちらに顔を寄せる。
「今日の陽菜、なんか雰囲気いいね」
その一言に、思わず視線が泳ぐ。
褒められて、嬉しいはずなのに。
それが、“陽菜”としてのわたしに向けられた言葉だと考えると、
なぜか少しだけ、胸の奥がざわついた。
「ありがと。……そう見えてるなら、よかった」
千晴は、ふにゃっと笑って、前を向いた。
わたしも、それにならうように前を向く。
そうして、“陽菜”として前を向いている限りは、
わたしもまた、わたし自身を否定せずに済む気がした。