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存在しない昨日の話  作者: geko
プロローグ
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プロローグ

 目が覚めたとき、体の重心が、“ズレて”いた。

 そのせいか、世界がわずかに傾いて見えた。


 仰向けのまま、天井を眺める。

 カーテンの隙間から差し込んでくる光の加減は妙にキラキラとしていて、布団の感触も――どこか違っていた。

 目は覚めているはずなのに、意識だけがまだ夢の中にとどまっているような。


 何がどうというわけじゃない。ただ、しっくりこなかった。


 天井から視線をずらす。

 朝の光だけが、部屋の中を静かに動いていた。


 今日はたしか春休みの最終日。時間だけは、たっぷりある。

 起きなきゃいけない理由も、特に思いつかない。


 なんとなく、スマホに手を伸ばす。


 スマホに触れた瞬間、妙に重たく感じられた。

 普段なら何でもない重さが、指先にずしりとのしかかる。なんだか落ち着かない。

 手が小さくなった気がして、スマホの感触がやけに指先に残った。


 ロック画面の黒いガラスに顔が映る。寝癖のついた髪。眠たそうな目。


 ……俺、だよな?


 見慣れた顔のはずなのに、何かが引っかかる。

 目元の雰囲気が柔らかすぎる。頬のラインが細くなっているような気もする。

 気のせいだ。……たぶん、寝起きだから。そういうことにしておいた。


 眠気を覚ますために、シャワーを浴びようと思った。

 布団をめくる。体を起こした瞬間、Tシャツが背中に貼りつく感触が、妙に気になった。

 気のせい、だと思いたかった。けれど、胸のあたりが――少し、重い。


 まさか。そんなバカな。


 何を“まさか”と思ったのか、自分でもよくわからない。

 けれど、胸の奥に、得体の知れないざわめきが広がっていた。


 このざわめきを打ち消したくて、立ち上がった。



 脱衣所に入ると、ひんやりしたタイルの感触が足裏にしみる。


 Tシャツの裾をつまみ、いつものように脱ぐ。

 胸元から布が離れた瞬間――何かが、揺れた。


 柔らかくて、妙に存在感がある。

 ……知らない感覚だった。


 背中に小さな冷たさが走って、思わず洗面台の鏡に顔を向ける。


 そこに映ったのは――


 見覚えのない、けれどどこかで見たような少女だった。


 髪は肩につくかどうかという長さで、ところどころ寝癖が跳ねていた。

 瞳は大きく、光を受けて不自然なほど澄んでいる。

 唇は小ぶりで、なんだか女の子っぽい。

 頬や肩のラインは、柔らかく丸みを帯びていた。

 胸のあたりに、見慣れないふくらみがあった。


 それはもう、どう見ても――女の子の体だった。


 ……いや、違う。これは違う。


 鏡の中の“それ”が、自分の動きに合わせて首を傾けた。


 視線が合う。目をそらせない。

 心臓の鼓動が、ひとつ分遅れて耳の奥で鳴った。


「…………は?」


 口から漏れたその声が、自分のものとは思えないほど、軽やかな声だった。

 その瞬間、ようやく理解した。


 ――これは、俺じゃない。


 でも。

 じゃあ、いまここにいる“わたし”は、誰なんだ。


 わけがわからなかった。

 鏡に映る自分は、どう見ても女の子で。けれど、その女の子が、鏡の中で自分とまったく同じ動きをする。

 じゃあ――俺は誰だ?


 とにかく、確認しなければ。

 目を逸らしたい気持ちを押し殺して、俺は鏡の中の自分と向き合った。


 やっぱり、胸が、ある。

 おそるおそる手を伸ばして、触れてみる。やわらかくて、熱を持っていた。

 心臓の音が、指先にまで響いている気がした。

 幻覚じゃない。……本物だ。間違いなく、女の子の体。


「っ、なんで……」


 胸の奥がぎゅっと縮こまる。

 考えたくない。けど、考えなきゃいけない。


 ――落ち着け、俺。

 こんなの、夢だ。……夢であってくれ。


 背中にじっとりと汗がにじんでいることに気がついた。

 嫌な汗だった。緊張と混乱で、呼吸まで浅くなっていた。

 このままじゃ、まともに思考もできない。


 ……ひとまず、シャワーを浴びよう。


 そう決めて、身に着けているものを全て脱ぎさり洗面所の奥の浴室へと足を向ける。

 足元のタイルが、ひんやりと冷たい。

 その感触すら、どこか他人の肌で味わっているみたいだった。


 シャワーヘッドを持ち上げ、蛇口をひねると、少し遅れて水の音が響いた。

 温度を確かめるために、そっと手を差し出す。

 ぬるま湯が指先に触れる。

 その感触すら、微妙に違っていた。


 ……でも、もう確かめるしかなかった。

 この身体が、本当に“俺”のものなのかを。


 温度は問題ない。 

 シャワーヘッドを持ち直し、ゆっくりと壁に掛ける。

 流れ落ちる湯の下に、ためらいながら一歩踏み出す。


 ぬるま湯が髪を撫で、流れるように肩をつたっていく。

 湿った髪が首筋に張りつき、湯は細い背筋をなぞるように落ちていった。

 胸元にも湯が伝い、肌に触れるたび、くすぐったさが神経を逆なでした。


 違和感は、消えなかった。

 むしろ、ますます濃く、重く、体の奥に沈んでいく。

 この身体は――俺じゃない。




 お湯を止めると、浴室の静けさが戻ってきた。

 水滴の落ちる音が、やけに大きく響く。

 体に残る熱と、拭いきれない違和感だけが、そこにあった。


 タオルを手に取り、機械的に体を拭いていく。


 細くなった腕。丸みを帯びた肩。

 どこに触れても、知らない感触が返ってくる。

 ――全部、俺のはずなのに。


 タオルで手短に身体を拭いて、浴室のドアに手をかける。

 一歩踏み出す前に、ほんの少しだけ立ち止まった。

 深く息を吐く。心臓が、静かにうるさい。


 浴室の扉を引くと、見慣れた脱衣所の空気がふわりと流れ込んだ。

 タオルラック、洗濯機、いつもの床。何も変わっていない。


 ……変わったのは、俺のほうだ。

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