第二話
「……え……っとぉ……」
修治は曖昧な顔で後ずさった。が、三津丸の手は離れない。
「もちろんタダでとは言わないよ? ヘマタイトは安価で手に入りやすい石だけど、これはアーティファクトだからね。入手難度と数の少なさで言ったらそこらのダイヤモンドよりずっと貴重だ。もし俺に売ってくれるなら、一生強盗なんかしなくても生きていけるくらいの対価は用意するよ」
「うう……」
一生を保証するほどの金、と言われると、揺れる。修治は宝石を盗むためではなく警察に逮捕されるために強盗を働いたわけだが、その動機だって、突き詰めれば金だ。罪を犯さずに生活が守られるなら、そうすべきなのは間違いない。
だが、修治は頷くことができない。一生を保証されてなお惜しいと思い、未来に未練が残りそうな気配をずっと、心のどこかで感じている。このブレスレットは修治の大事な祖父の形見だ。これを手放したら、自分に一体何が残る?
「ねえ、お願いだよお兄さ〜ん。俺ぇ、このために今日この店来たんだよ? アーティファクトが今日この場所この時間に現れるっていうから、楽しみに帰国したのに」
「え。……だ、誰がそんなこと言ったんですか」
「これだよこれぇ!」
三津丸が甘えるような声で取り出したのは、細いチェーンに繋がった水晶だ。細長くカットされ尖った先端は下を向いていて、振り子のように揺れている。
「何ですかこれは……」
「何って、ダウジングだよダウジング! これを地図の上にかざして、強い力を探るんだよ。アーティファクトは魔女の力の結晶なんだから」
「なんか途端に胡散臭いですね……」
「でも実際、お兄さんはアーティファクトを持ってここに来たじゃない」
「それは、まあ」
「それにさあ、さっきも言ったけど俺は魔女の末裔なんだって。だからお兄さんが今日ここに来ることもわかったし、お兄さんのアーティファクトも元に戻せたんだよ? ここまで条件が揃ってれば俺が魔女の末裔って話は信じてもらっていいと思うしさ、魔女の末裔が魔女の遺物を集めるのだって当然のことじゃん。自分のルーツが特殊だったらそれを探りたいと思うのは当たり前だし、俺にはその権利がある。でしょ? だからさ、譲ってよ」
「でっ、でも……」
「はー……、んじゃしょうがないなあ」
三津丸は大仰に息を吐いて修治から手を離した。そして、デニムの尻ポケットから携帯を取り出す。
「ホントはこんなこと言いたくなかったんだけど、しょうがないから言うね。……俺はこれから、警察を呼びます」
「……えっ」
「えっ、じゃないよ。元はと言えばお兄さんが起こした事件でしょ。俺はその未来を予知しただけで、お兄さんの共犯者じゃないから。交渉が決裂したなら、俺は一市民として事件のことを通報するまでだよ」
「……脅し、ってことですか」
「脅しだったら、お兄さんは俺にアーティファクトを譲ってくれるの?」
「それは……」
本当は手放した方がいいのだとわかっている。修治に難しいことはわからないが、自分がただの宝飾品だったものを武器に変えてしまったのは事実だ。なら、いつまた同じことが起こるかわからない。そして、次に修治の暴走を止めてくれる人が現れる保証はない。
悩んだ末に、修治は口を開いた。
「……わかりました。呼んでください、警察」
三津丸が静かに目をみはった。
「思えば、最初からそのつもりだったんです。逮捕されるために強盗に入りました。お金に困っていたのは事実ですが、大金を手にしたかったわけではありません。少しだけ人に迷惑をかけて、捕まって……それで少しの間でも、最低限の住まいと食事を確保できれば、それでよかった」
なんだか妙にすっきりして、修治は帽子とマスクを外す。
「でも、実際に人に迷惑をかけてみて、わかったんです。私のやっていることは間違いだって。だから、しっかりと罪を……つぐ……な……」
修治の宣誓は、最後に向かうにつれ萎んでいった。三津丸が真顔でこちらに近づいてきたからだ。
「……あの、何ですか……? 私の顔に何か……?」
相手の息がかかるほどに接近した、美青年の真剣な眼差しにたじろぐ。まるで魂でも鑑定されているかのようで、居心地が悪い。
「お兄さん、名前は?」
「……はい?」
「なーまーえ」
「……鴉、ですけど。鴉修治」
瞬間、三津丸が碧い瞳に星を宿らせ、修治の両手を強く握った。
「いや〜、俺って本当にツイてる! 集中して占った甲斐があったよ! 修治さんね! 覚えたから。あなたは俺の魂だよ、運命の片割れ! ベターハーフってやつだね!」
「ええと……」
あまりの勢いと手のひらの返しように、修治は困惑した。名前だけで魂の形を把握した気になってしまうなんて、あまりにも早計じゃないだろうか。
「修治さんはもしかして、鴉六郎って人の血縁者じゃない?」
今度は修治が目を見開く番だった。
「祖父です! 父方の……半年ほど前に他界しましたが」
「やっぱり! 修治さん、六郎さんの若い頃にそっくりだもん」
三津丸は嬉しげな笑みを浮かべた後、その視線を残念そうに下に落とした。
「六郎さんにはお世話になってね。俺はしばらくの間海外にいて、葬儀にも参列できなかった。お線香だけは後からあげさせてもらったけど……惜しい人を亡くしたと思うよ。本当に」
神妙な顔つきの三津丸を見て、修治はひとえに喜びばかりを感じていた。
祖父をいい人だと言ってくれる人は少ない。いつも無口で、何を考えているかわからないと言う者もいる。愛想がないから怒っているようで怖いと言う者もいる。修治の父親に至っては、祖父に付属する何もかもを嫌っていた。「祖父にばかり懐く自分の息子」でさえ。
修治の父親は、修治の避難場所として毎度のように座敷を貸す自分の父親には度が過ぎるほどに批判的だった。頼むから甘やかさないでくれ、とまるで自分が虐げられているかのように懇願するからタチが悪く、最後には「修治が引きこもりになったら一生養ってやるつもりか、どちらが先に死ぬかは火を見るより明らかなのに」とまで言った。間近でそれを聞いていた修治は、幼いながらもその言葉の鋭利さを感じ取り、気道が塞がったような錯覚を覚えた。
それでも祖父は態度を変えずにいてくれた。チャイムを鳴らせば黙って家に上げてくれ、喋らなくても間が持った。たまに少しのお菓子をくれた。
そして祖父は一度だけ、「言霊があることを決して忘れるな」と修治の父親に言った。
「お前が修治を『ダメだ』と言えばダメになる。『将来引きこもりになる』と言えば引きこもりにもなるだろう。修治の未来を決めるのは親であるお前たちだ」
それから修治の父親が何か変わったかと言えば、そうではない。でも、幼い頃の修治にとって、鴉六郎は確かにヒーローだった。唯一の味方で、赦しだった。その感覚を共有できる人間が今目の前にいることが、何か奇跡のようだった。
「あの、祖父とはどのような関係で……?」
「ああ、彼、骨董屋をやっていたでしょ? そんで俺は魔女狩りが流行ってた大昔に発生したアーティファクトを集めるのが生き甲斐の男だからさ。古いもの集めるなら骨董屋ってわけ。六郎さんの店にもいくつかアーティファクトが漂着してて、言い値で買うから譲ってくれって頼み込んだんだ。でも結局、『必要としてる奴の手元にあるのが道具の幸せだから』って普通の年代物のジュエリーと変わらない値段で売ってくれた。六郎さんとはそれからの付き合いかな。個人的に顔出す機会も増えて」
でも、まさかまだ残っていたなんてね──そう言いながら三津丸は、修治の手元に視線を寄越した。慌てて修治はブレスレットの嵌った手首を後ろに隠す。
「あはは! 別に無理に奪おうなんて思ってないよ。俺がアーティファクトを必要としてるのは事実だけど、修治さんがそのブレスレットを持ってたいって気持ちも本物でしょ? 六郎さんの血縁者の前で、彼の思いを踏み躙るような真似は俺にも流石にできないね」
その言葉で、修治もようやく、少しだけ気を緩めるができた。自分の今後がどうあれ、祖父の形見の所有権がこの場で約束されるのなら、警察沙汰になっても横から掠め取られることはないだろう。
だから、次の瞬間に自分の顎が掴まれ、三津丸の顔を至近距離で見上げていたことについては、完全に予想外の展開だった。
「──だからさ、修治さんが俺のものになっちゃえばいいんだよ」
その男は獲物を狩る蛇のような目つきで修治のことを見下ろした。
「へ……?」
「修治さんはアーティファクトを手放したくない。俺はアーティファクトを手元に置いておきたい。だったら、アーティファクトを持ってる修治さんが俺の手元にいればいい。……違う?」
「ち、ちょっと待ってくださいよ……!」
修治は慌てて両手を前に突き出した。黒いブレスレットが両者の間で揺れ、距離を取った先から修治は手を引っ込めた。
「おかしなこと言い出さないでください……!」
「あれ? 俺なんか変なこと言ってる? 理屈は通ってるよね。それに修治さんはお金持ってないし、話聞く限りたぶん宿もないんでしょ? 俺の申し出を断って、まともに生きていけるとは思えないけどな」
「だ、だから……さっきあなたが言ったんでしょ! 警察呼べばいいじゃないですか! むしろ呼んでもらわなきゃ困ります! 私はもう……その、は、犯罪者なんですから……!」
「だから罪を償わなきゃいけないって?」
「そ、そうです」
「だったらその罪、俺が預かってあげるよ」
「は……?」
「俺が修治さんの面倒見てあげるから、修治さんは俺に償ってよ。今日の強盗の罪」
「……ど、どうやって」
「働いて。もちろん俺の下でね」
「働……」
言葉が出なかった。そもそも罪は荷物のように移動できるものじゃない。負債の預かり先に償って帳消しなんて、そんなの、金の貸し借りと同じじゃないか。
「お金の貸し借りと一緒だよ。恩がある人に返す。当たり前のことでしょ?」
「な……」
一緒なはずがない。罪と償いの間に第三者が割り入っていい道理などない。
「……私はあなたに借りなんか作りません」
「借りならあるじゃん。俺がアーティファクトの暴走から修治さんを助けてあげた」
「で、でも、私に撃つ気は最初からなかったんですよ! 暴走ったって、宝石を持ち出すか持ち出さないかの話で、あなたが来なくても怪我人は出なかったはず──」
「ダイヤモンドはダイヤモンドで磨くんだ。それにね修治さん、モース硬度が二以下の石っていうのは、人の爪で簡単に傷がつくんだよ」
急に話があらぬ方向に逸れて、修治は口を開けたまま言葉を止めた。三津丸は怜悧な視線をつと横にずらして、淡々と言葉を紡ぐ。
「俺が何を言いたいかって、要するにそのカバンだよ。修治さんが強盗に入って、佐々木さんたちはありったけの宝石をそこに詰め込んだ。ショーケースに入ってたものは手掴みで、ケースも緩衝材も用意する暇はない。彼らは新品なんだ。まだ誰の手にも渡っていない新品。俺の言いたいこと、修治さんならわかってくれるでしょ?」
三津丸が修治のボストンバッグを指し示す。それなのに、修治はまるで自分が連続殺人事件の犯人として名指しされているかのような錯覚に陥る。三津丸の静かに滾る怒りの矛先は、間違いなく修治自身に向いている。
「……宝石同士が擦れ合って傷がつく。中古品として売るならある程度は許容されるかもしれないけど、新品としては到底扱えない。だから店には返せない。何も元には──そういう……ことですか」
「ホントだったらね!」
三津丸がパンと手を叩く。その一瞬のうちに三津丸の顔には弾けるような笑みが戻っている。
「修治さん、占いってのは将来を憂いたり後悔に浸るためにやるものじゃないんだよ。より良い未来のために現段階で訪れる未来の位置情報を割り出してるだけ。誰かの宝くじが当たるなら番号を覚えて自分が先に買えばいい。失敗が見えているなら根本から潰して回避すればいい。転ばぬ先の杖、自分への投資ってやつね」
そう言って三津丸は再び修治に歩み寄った。身構える修治だったが、その手が伸びた先は修治の肩にかかったボストンバッグだった。三津丸はその中に手を突っ込むと、一本のネックレスを引っ張り出した。
そして三津丸は次の瞬間、反対の手で赤い宝石を真上に投げた。
『真実を射止めよ 柘榴石』
指を鳴らし歌うように三津丸が唱えると、小粒の赤い宝石が矢に変化し、ネックレスのトップを刺し貫いた。金属製の台座に収まった雫型の青い石がみるみるうちに大きくなり、透明な板になって台座から外れ、落下する。次の瞬間にはパリンと音を立てて割れ、破片が床の上に散らばった。
「修治さんが強奪したのは、全部ガラスストーンのアクセサリーだね。平たく言っちゃえばレプリカで、一銭にもならないわけじゃないけど割には合わない」
「どうして……」
修治は息を呑み、遅れて店内を見回す。小さいながらも高級感のある内装に、大量のショーケース。天井にはシャンデリア。そんな店の商品が全てガラス製のレプリカ?
「俺は今日この時間、この店にアーティファクトが現れることを占いで導き出した。ダウジングで位置を割り出し、水晶玉で未来を見てね。つまり俺はこの店に強盗が入ることを事前に知っていたんだ。それで店に連絡を入れた。店の商品を──特にショーケースの展示品は全部、安価なレプリカに替えておいてくれってね。おかげで本物の宝石には傷ひとつついてない。損害がないから賠償責任も生じない。レプリカの代金は俺が持つよ。……はい、これが俺の修治さんへの貸しひとつね。これでいいでしょ?」
「…………」
あまりにも重い借りだった。彼がいなければ、修治は数百、いや数千万、もしかしたらそれ以上の宝石の代金を立て替えなければならないところだったのだ。修治は思わず膝をついた。全身くまなく力が入らない。
「じゃあ修治さん、いこっか!」
すると、三津丸が修治の腕を掴んで立たせようとする。存外に強い力で半ば強制的に立たされた修治は「どこへ」と訊いた。
溌剌とした声で「警察!」と返されることを一瞬だけ期待したが、現実はにべもない。
「決まってんじゃん、俺の家!」
ぶわっと冷や汗が噴き出した。
「……い、家、」
「だってそうでしょ? 俺が警察の代わりに修治さんの償いを取り立てるんだから、警察の役目は俺が全部全うするよ。食事と、居場所。だから修治さんは、俺の管理下でちゃんと働いてよね。借りを返し終えるまで」
これだけの借りを作ったのだ、返済のための労働自体に否やはない。だが、底知れない恐ろしさが拭えない。これだけの負債を帳消しにするほどの働きとは、一体──
「……最初に言っておきますけど、私は全然、外国語とか喋れないので……」
「あーいいよ全然。俺、修治さんにはそういうのま〜ったく期待してないから!」
修治の心をチクチクと刺す言葉を平然と吐いたのち、三津丸は再び口を開いた。いやに優しい口調なのに、それは独り言のようにも聞こえて修治の心をざらつかせた。
「大丈夫、鴉は光るものを見つける天才なんだから。修治さんはいてくれるだけでいいんだよ。俺の手元にね」