第十三話
「──やめてください」
口を塞いでいた三津丸の手を引き下げて、修治は言った。
「…………修治さん? 意識が……」
戻ったんだ──そう口にする三津丸の声がどこかたどたどしく迷いをはらんでいて、修治は口の中に小さな苦味を感じる。まだ出会って数時間しか経っていない相手だというのに、胸がきりきりと絞られるような痛みをもう何度も味わっている。
最初に意識を失った時と違って、途切れ途切れだが記憶があった。三津丸に水晶を刺されてからは、身体を操っている魔女の人格と自分の人格が同居しているような感覚で、気持ちが悪かった。
だが、だからこそ、修治がこの状況で目を覚ましたことを素直に喜べない三津丸の気持ちは正確にわかっていると思う。
修治が目を覚ましたことで、「魔女」の脅威がこの場から消えた。それはつまり、虎嗣たち魔術師の陣営が三すくみの均衡から真っ先に抜け出すということだ。魔女の脅威を持ち出して竜胆兄弟のアーティファクトを我が物にしようとしていた三津丸からすれば、修治の覚醒は喜ばしいとは言い難い。
でも、三津丸は修治のことを「半身」だと言った。「大切な人だ」と言った。傷つけた人間を許さないと言った──そして修治は、そんな三津丸を一度は信じたのだ。虎嗣からの誘いを蹴ってまで、三津丸への疑念を振りほどいてまで、彼の言葉を、人格を信じた。
それでも、目を覚ました修治に三津丸がかける声は、それなのだ。彼は修治の無事を一番には喜ばない。
「修治、もう身体はいいのか? 魔女は──」
結局修治を労わる言葉を真っ先にかけたのは虎嗣で、彼は修治のそばに寄って身を屈めた。
「魔女は、帰りました。諏佐さんが散々な言いようで彼女の機嫌を損ねたでしょう。その上自分の存在を利用してアーティファクトを掠め取ろうとしているんですから、諏佐さんの利になるような結果にはしたくなかったみたいです」
正確にはそれまで後方に押しのけていた修治の意識に「飽きたわ! 帰る!」とだけ言い残して足早に去って行ったのだが、彼女の心境としてはそんなところだろう。
「え〜⁉︎ 理由俺⁉」
「自業自得だろ、言霊師」
虎嗣が三津丸を見てにやつく。
「……あの、すみませんでした。操られていたとはいえ、もう少しで、その……お二人を、殺──」
「思ってたとしても面と向かって言うモンじゃねぇぞ、修治」
三津丸の膝から降り、土下座の姿勢を取ろうとした修治を、虎嗣が言葉で押し留めた。
「最初にお前のこと殺そうとしたのはオレだ。それに、オレたち魔術師は殺す覚悟も殺される覚悟も最初から決まってんだ。ここはそういう世界なんだよ」
「…………そういう……世界、」
「そうだ。いちいち罪悪感感じたり、『ごめん』だ何だと口にしてたらキリがねぇ」
そして、虎嗣は三津丸に視線を向けて言った。
「テメェも大概だぞ、言霊師。無知な魔術師を無知なまま引き込むな。ここは覚悟のある奴だけがいる前提で動いてんだ。一般人巻き込むなんざご法度だろ」
「ご高説どーも。でも教える気がなかったわけじゃないよ。俺が修治さんと会ったの、今夜だよ? それで修治さんは宿なしだった。だから泊めてあげてただけ」
「どうだかな」
虎嗣が肩をすくめた。自分に宿がなかったのは事実なのでフォローするべきかと修治が口を開きかけた時、虎嗣の兄が修治のアーティファクトを放って寄越した。修治はもたつきながらもどうにか受け止める。
「それは返す。諏佐三津丸、貴様の蒐集品も置いていく。決着をつけるには些か興が削がれた」
「よく言うよ、ガキめ。うやむやになって内心ホッとしてるくせに」
「諏佐さん、雑な悪口やめてください。見苦しいですよ」
思わず三津丸の袖を摘んで引っ張る修治に、三津丸が指をさしながら大きな声で反論した。
「雑なんかじゃないよ〜! こいつらマジで高校生だって。DK! 現役の!」
「えっ」
「清玲高校三年、竜胆卯条だ」
卯条が懐から生徒手帳を出して言った。……つまり、つまり自分は今まで高校生を前に怯えたり、物を教えてもらったりしていたというわけか。
「今の十代って……立派ですね……すごく……」
かたや自分は大人の身分で根無し草だ。ほとほと自分が嫌になる。
「どこが立派なのさ! 補導されろ! 学校に一報入れてやる!」
「修治と言ったな、確か」
大人げなく喚き散らす三津丸を無視して、卯条が修治に目を向けた。
「あ、はい……鴉修治です」
「そうか。……鴉、アーティファクトは返したが、命を奪い奪われる覚悟がないのなら、貴様はこの世界に身を置かない方がいい。アーティファクトも極力手放すべきだ」
「!」
修治は息を呑んだ。
「年上には敬語を使いなさいよ高校生」
「竜胆の家を束ねる当主として、簡単に他の魔術師や言霊師に下手に出るわけにはいかん」
卯条は三津丸の指摘を簡単にいなして、
「鴉、貴様は特にアーティファクトの影響を受けやすい。アーティファクトの近くにいれば、また魔女が貴様の肉体を乗っ取り暴れることもあるだろう。そうなれば貴様は魔女として、魔術師に命を狙われ殺されることになる」
「……!」
「もし今後魔女が憑依しなかったとしても、魔女を降ろす体質であると他の魔術師に知れれば、それだけで危険人物と見なして処分しようと動く勢力も出てくるはずだ。人々を魔女の脅威から守るのが、魔術師の本分だからな」
「脅威……ですか」
今までの修治の人生には関わりのなかった言葉だ。自分が人々にとっての脅威で、処分の対象だなんて。
「……率直に言って、一度魔女を降ろしてしまった以上、貴様はもうこれまで通りの生活を送ることはできないだろう。アーティファクトを手放し、こちらの世界と関わりを持たない決断をしたとしても、常に魔術師の監視がつくことになるはずだ。この場で内々に処理してしまうのだとすれば、竜胆の魔術師が。いずれにせよ完全な自由は望めない」
「そこまでですか……⁉︎」
「そこまでのことをしたのだ、貴様は。仮に無意識だったとしても」
卯条の言葉は重く、迷いがなかった。他人の命や人生を左右してきた人間の凄みがあった。
「平穏な暮らしを望むのであれば、保護という選択肢もある。魔術師としてではなく管理対象として、竜胆の家が面倒を見る」
「ちょっとちょっと、引き抜きやめてよ。修治さんはうちの従業員だって」
「鴉が魔術師として生きるのであればな。貴様といれば必ずアーティファクトがついて回る。その危険を見過ごすことはできない」
卯条が言って、場には静寂が訪れた。修治の選択を、ここにいる全員が待っている。
「…………私は……」
声が震えた。命の保証がない仕事か、管理された生活か。
ついさっきまで根無し草だった自分が、根を下ろす鉢の選択を迫られている。居場所なんか一つもなかった自分が、二種類の受け皿を与えられて。
二つに一つを迫られて初めてわかった。自分は、選択することを恐れていたのだ。選択することから逃げていた。
片方を選べばもう片方の可能性が閉ざされること。自分で自分の未来を決めるということ。
その重みに耐えられなくて、修治はずっと逃げていた。
誰かの選択に流されるままの、現状維持のぬるま湯が一番心地よかったから。
「私は──、」
求めていたのは何もしなくても生かしてもらえる環境だ。どんなに外出が制限されたって、自分の生活に常に誰かが付きまとったって──本当は、自分が何か行動することで生じる痛みを受けなくて済むのなら、その許しが一番欲しいと思っていた。
無能なのは事実だけど、無能だと詰られたくなかった。
頑張れば何か一つくらい誰かの役に立てることが見つかるのかもしれないけど、それを探す過程で失敗するのが怖かった。
動くことで否定されるのが怖かった。だから動かなくなった。
立ち向かう痛みを感じたくなかった。
でも──
「私は、諏佐さんと行きます。魔術師として生きます」
否定する声はなかった。
「正直、諏佐さんのことは信じてないです。最悪な人だなとも思います」
「修治さん⁉︎」
「でも、私はこの人にまだ何も返せていないので。それに──」
修治は顔を上げて三津丸を見た。
「それに、私はあなたの本当のことが知りたい」
三津丸がわずかに目を見開いた。
「あなたが私の何を知っていて、何のために近づいてきたのか──利用するためでもこの際構いません。利用するならすればいい。……でも、あなたが隠した腹の底も、しっかり私に見せてもらいます」
くく、と虎嗣が喉の奥で笑った。
「こりゃいいな。覚悟しといた方がいいぜ、言霊師。修治は漢だからな」
「貴様の意志はよくわかった。聞き届けよう。次に見えた時は敵同士のようだがな」
小さく頷き、卯条は踵を返した。
「行くぞ、虎嗣」
「あー、ちょっと待って」
卯条に呼ばれて立ち上がりかけた虎嗣が、懐から手帳を出して何かを書きつけ、ページを破って修治に差し出した。
「こんなとこ辞めたくなったらいつでも連絡しろよ。魔術師として歓迎するぜ」
「いいんですか? ありがとうございます」
「はあ〜⁉︎ 修治さんは辞めないし! 修治さんも嬉しそうな顔しないでよ〜!」
三津丸が慌てて修治に抱きつくので、修治は何年かぶりに声を出して笑った。