第十一話
虎嗣が背後に感じた異変の気配に振り返ると同時に、その肩をさらに後ろから掴まれ、引っ張られた。卯条だった。
「下がれ、虎嗣」
卯条が床に刺さっていたアーティファクトを引き抜き、虎嗣を自分の背後に庇った。
「どうやら間違っていたのはこちらだったらしい。弟の直感を信じてやらなかったことも──貴様を直ちに処分しなかったこともな!」
語気を強めると同時に、卯条が薙刀を修治に向かって振り下ろす。虎嗣が止める間もなく、青い刃は床に横たわった修治の首をすっぱりと斬り落とす──
はずだった。
「ひどいなあ。そんなのってないんじゃない? まだ一言だってお話してないうちから殺しちゃおうなんて、愛のないひと!」
卯条の振り下ろした刃は、歪んでいた。
まるで水飴のように。
主の意思に従って刀身の形を変え、長さを変え──相手を翻弄し、寸分の狂いなく急所を突くはずの可変の刃が、今は修治の首だけを避けて床に突き刺さっている。
まるで、アーティファクト自身が修治を斬ることを拒んでいるかのように。
「! ……どういうことだ」
「だってわたし、お友達が多いんですもの! 仲間同士で殺し合おうなんて愚かなことをするひと、わたしのパーティーには呼ばないわ!」
弾けるような笑顔を浮かべて、修治が両手両足を戒められたまま、ゆっくりと身を起こす。修治の首の移動に合わせて卯条のアーティファクトの刀身が徐々に持ち上がり、最後には床からも抜けて元の形に戻った。
「……これがお前の言っていた魔女か」
静かに一歩退いた兄が、虎嗣にだけ聞こえる声で問う。だが、虎嗣はそれに頷くことができない。
「変わりようは間違いなくそうだ。でも、雰囲気がどうも違ぇ。オレの時はこんな声でかくなかったし……もう少し陰気な感じだったぜ。それに、オレのアーティファクトが攻撃を拒んだ感じもなかった」
「ならば多重人格か……? いや、考えても仕方のないことか」
卯条は短く息を吐くと、薙刀の柄の方を相手に向けて構え直す。刃が通らなくとも、柄の部分での打撃なら有効だろうという考えだろう。
「いずれにしてもだ。貴様に反撃の手段はない。貴様のアーティファクトは既にこちらの手中だ。……悪いが、そこで黙って見ていてもらうぞ」
その後、卯条は虎嗣に目で合図を送った。卯条が修治の──魔女の見張りを、虎嗣はその間にアーティファクトの回収をということだ。虎嗣は小さく頷き、アーティファクトの隠し場所へと足を向ける。
「……ねぇ、貴方、この子のお友達なんじゃないの?」
虎嗣が修治の身体とすれ違う直前、修治の声で魔女が言った。
「黙れ」
卯条が即座に口を挟む。
「だってこの子の心が動いてるんですもの。貴方のこと、お友達だって感じてるんだわ」
卯条が薙刀の柄を喉元に突きつけても、魔女の口は減らない。
「お友達の大切なものを奪うなんて、愛のないひとね」
「拳交えた奴ぁだいたい友達だ」
歩調を緩めず、虎嗣は言った。
「虎嗣」
兄の諌める声が飛ぶが、虎嗣にも固い意思というものがある。続けた。
「だがオレは友達であっても殺すし奪う。家のためならな」
「ふぅん……」
魔女がつまらなそうに言い、兄がわずかに息を呑むような気配がした。虎嗣は黙って壁際の瓦礫をどける。大きな音と砂煙が上がり、金庫の壁が再び姿を現す。
改めて観察してみると、積み上がった金庫たちはサイズだけではなくメーカーも型番もバラバラなようだった。ボロいビル住まいのくせに、その辺りの防犯意識は妙にしっかりしているらしい。この様子では解錠番号もバラつかせているだろうし、一つ一つ解錠して中身だけ持ち帰るのは不可能そうなので、用意していた鞄に金庫ごと放り込んでいく。撤収時には相当な重さになるだろうが、虎嗣の筋力ならばそこまで大きな障害にはならないだろう。
「──友達なのね」
その時、魔女が唇を吊り上げて笑んだ。
「〈寄生共生〉」
魔女がそう唱えた瞬間、虎嗣の両手首に、薄ぼんやりと光る植物の蔦が巻きついた。
「な……っ!」
こんなもの普段だったらすぐ引きちぎってやるのだが、どういうわけか身体が思うように動かない。
「虎嗣!」
突如として起こった異変に反応した卯条が薙刀の石突を突き出そうとするが、「いいのかなぁ〜」という魔女のわざとらしい声に手が止まる。
「絞め殺し植物って知らない? 木に登って太陽を浴びるつる植物の中には、元気をもらいすぎちゃって自分の登ってた木を絞め殺しちゃう種類がいるの」
魔女が話している間にも、虎嗣に寄生した蔦は虎嗣の腕を登って勢力を広げ、やがて首に巻きついた。その喉元から一本の縄が編み上がり、拘束された修治の手首へと繋がる。
「今の呪文はわたしと相手の愛の繋がりを具現化して使役するの。貴方がわたしに手を出したら、あの蔦が怒って、貴方の大事な弟を絞め殺しちゃうかもしれないわね!」
「テメェに愛なんかねぇよ!」
「愛って何も恋愛だけじゃないんだから〜。貴方とわたしはちゃんと友愛で繋がってるわ! 素敵ね!」
「そりゃ修治との話だろ! お前は修治とは違──」
「トラツグくん。わたしの縄、解いてくれる?」
虎嗣の言葉を無視して魔女が言った。途端、虎嗣の身体が勝手に動いた。修治の身体の背後で跪き、卯条がかけた手縄を解き始める。嘘だろ、と愕然とするが、感情が虎嗣の思った通りに動いたところで、命令を遂行しようと動き続ける身体が止まるわけではない。
虎嗣は一瞬の逡巡の末、息を吸った。
「──兄ぃ! オレのことはいいから魔女を……ッ」
魔女を殺せ。殺してくれ。
だが、虎嗣の気道を蔦が絞め上げ、それ以上の声が出ない。
「……どう? その棒でわたしのことを殴る?」
魔女が卯条を見上げて問うた。兄は怒りで薙刀を持つ手を震わせるが、それ以上の動きを見せない。
魔女が笑った。声をあげ、口の端を持ち上げ、愉快そうに。
まるで邪悪に。
「素敵ね。だから愛って好き」
虎嗣が縄を解き終わると、魔女はうんと伸びをして言った。
「トラツグく〜ん。わたし、そろそろ元の身体と対面したいかも。そこの金庫に入ってるはずだから、取ってきて」
虎嗣の身体は歯噛みしながらもてきぱきと動いた。まだ壁の中にあった金庫の、中でもかなり小さな一つを手に取る。
いつまでこれが続くのだろう、とふと思った。いつまでも言いなりになり続けるわけにはいかない。だが、術がかかっている限り虎嗣は動けない。動けるとしたら卯条か──当主の不在が続けば家の者が探しにも来るだろうが、いくら相手が未知の存在とはいえ、組織のトップが魔女に対して手も足も出ない場面など見られては、家の者に示しがつかない。魔術師はアーティファクトを──魔女の悪意を管理する者なのだから。
「解錠番号はこの子の記憶によるとゼロ、イチ、ゼロ、サン……回す方向は順に、左、左、右、左。……あら、誕生日? ジュエリーに記念日を添えるなんて素敵ね! 愛だわ!」
修治の姿をした魔女が、両手を合わせて無邪気に笑う。虎嗣はその様を見て薄ら寒さを感じる。
今、あの魔女は、諏佐三津丸の蒐集品であるアーティファクトを指して、「元の身体」と言った。つまり、修治のこれは多重人格というよりも憑依だ。
アーティファクトに宿った思念を自分の肉体に乗り移らせる。そして、アーティファクトの〈処理〉なしに、アーティファクトとは全く別種の力──彼女は「呪文」と言っていた──を行使する。
それは実質的に、魔女の復活ではないか?
その脅威ゆえ大昔に掃討されたとされる魔女が、一人の人間の肉体を介して現代に蘇る。だとしたら、その依り代たる鴉修治は虎嗣たち魔術師にとって──
「……っ!」
ダイヤルの目盛りが最後の数字にかかろうかというその瞬間、虎嗣の右腕に何かが巻きつき、強い力で引っ張られた。言うことを聞かない手が金庫から離れ、ようやく動きを止める。
見ると、卯条がアーティファクトを帯状に伸ばして巻きつけ、虎嗣の手を力ずくで金庫から引き剥がしていた。
「兄ぃ……!」
「アーティファクトは魔女の魔力の結晶──魔女に与えれば取り返しがつかなくなる……!」
「……へぇ。いいのね?」
魔女が卯条に向かって手をかざした。それと同時に、虎嗣に絡みついた蔦も絞めつけを強める。
「弟くんが死んじゃっても」
「安心しろ、その前に貴様を殺す」
卯条が薙刀の石突からもう一本の刃を生成し、即座に床に突き刺した。そして薙刀から手を離した卯条は、ローブの内側から短刀を抜き出す。何らかの理由でアーティファクトが使えなくなった時のための、純粋な殺傷武器。アーティファクトと比べたら威力も耐久力も圧倒的に劣るため、魔術師同士の戦闘のみを前提とした竜胆家の人間がそれを持ち出すことは、たいてい一生のうち一度もない。
だが、アーティファクトが攻撃を拒む魔女が相手なら、むしろ普通の刃物の方が有効だ。普通の刃物に意思はない。ゆえに、誰に対しても攻撃が平等に通る。
問題は魔女を無力化するために、その依り代たる修治の肉体に傷をつけなければならないことだが──今の卯条に迷いはないだろう。
この依り代は卯条にとって赤の他人──まして敵対する人間で、魔術師なのだ。
魔術師を殺す覚悟など、この家に生まれた時点で決まっている。
そしてそれらの諸問題を全て合わせても、家族の──兄弟の重みに勝ることは決してない。
虎嗣が信頼し忠誠を誓う竜胆卯条とは、そういう人間だ。
余裕の表れだろう、両手両足の拘束を解かれてなお立ってすらいなかった魔女の心臓めがけて、鋼の切っ先が振り下ろされた。
勝敗は決した。
そう確信していた。
だが次の瞬間、虎嗣は目を見開くことになる。
刀の切っ先が修治の胸を貫かず、その直前で静止していたことに。
修治とも魔女とも何の関わりもないはずの兄の右手に、あの忌々しい蔦が絡みついていたことに。
「残念ね、心優しいお兄さん」
魔女がゆっくりと微笑んだ。
「愛の繋がりを持たないひとなんて、一人もいないの」
卯条の右腕を封じた蔦は、より太く、長く──虎嗣の縛めに繋がっていた。
魔女と虎嗣を、虎嗣と卯条を、そして──卯条と魔女を、一本の植物が繋ぐ。
まるで円のように。縁のように。
「〈すべての愛がわたしに還る(The convergence)〉」
魔女は唱えた。勝ち誇るように。
そして、蔦から花が咲く。卯条の、虎嗣のそれぞれの顔を覗き込むように、大輪の花が。
花弁は宝石のように輝き、その中央にまばゆいほどの光が集まる。
「わたし、この子に約束しちゃったの。『貴方に愛を与えてあげる』って」
魔女は指先に髪の毛を巻きつけて気怠げに言い、やがてパッと花咲く笑顔で卯条に笑いかけた。
「だからわたしにちょうだいねっ! 貴方たちの素敵な兄弟愛!」
花の中央がいっそうの光を湛え、視界を白く塗り潰す。