第一話
人生で一番最初に犯す犯罪はコンビニ強盗だと思っていた。
「……こっ、これにありったけの宝石を詰めてください、じゃないと……」
ここにいる全員を撃ちます、と一息に言った。途中で言葉を切ったら喉が詰まって噎せそうだったからだ。撃つつもりなど毛頭ない。撃たなきゃいけない状況に陥ったとしても、自分には撃てないだろうとすら思う。できないことは口に出すべきではないし、犯罪なんてやるべきじゃない。でも──
こんな日がいつか必ず訪れると、心のどこかで確信しながら生きてきたような気がする。
いつの頃だっただろうか。ニュース番組で報道されていたコンビニ強盗未遂事件の犯人の供述に、鴉修治は「なるほど」と膝を打ったことがある。たぶん、小学生になるかならないかぐらいの年齢だった。
──罪を犯せば刑務所に入れると思った。生活が困窮していた。
確かに、刑務所に入れば、質は決して高くないにしても毎日の食事は提供される。金に困って家がなくなっても、壁と天井のある部屋に自分の居場所が保証される。それって割と、救済だ。しかも、ごはんを食べるためにコンビニ強盗を成功させ、それを繰り返すよりもずっと、人を傷つけなくて済む。
未だ無垢で幼かった頃の修治は、真似する・しない、できる・できないを勘定に入れる以前に、その会ったこともない犯罪者に感心を抱いていた。
というのも、修治は幼い頃から出来損ないだった。相手が同い年だろうと心優しい幼稚園の先生だろうと人と話すことが苦手で、保護者の前で出し物を披露することになれば、毎度のようにフリーズした。自分のセリフを立派に言い切ったクラスメイトからは子供らしい言葉でからかわれることもあったし、せっかくの発表を台無しにするなと詰られたこともあった。お前のせいで失敗したんだ、とたまに言われた。
それがきっかけで修治は「連帯責任」という概念を覚えたし、自分が他人に皺寄せを与える側の人間であることを身を以て知った。そうやって人生経験を積んでいくうちに、修治は生来の内気に拍車をかけた。
なんだかダメな方向に向かっているよな、と公務員をやっている父親がいつしか言った。幼稚園なんて遊ぶだけのところなのに、こんなんで学校や社会でやっていけるのかね、と。まだ幼い息子には理解できないと思っていたのだろうが、修治は父親の言葉を聞いて、自分は社会で生きていけない人間なのだと知った。
それで、今だ。
不登校になりかけながらも学校には通い続けた。大学もどうにか卒業した。だが、就職活動だけはどうにも耐えきれなかった。安い量産品の紳士服を見ていると、いずれそれに絞め殺されるような気がして息ができなくなった。「社会」の速度についていける気がしなかった。
大学のサークル活動やイベントとはわけが違うとわかっていながらも、気づけば修治は就職活動を放棄していた。短期のアルバイトでどうにか食い扶持を稼ぎ、生きているだけの身。……先週まではそうだったが、ついに家がなくなった。いっそのこと燃えるなりして物理的になくなってくれれば保険も下りたろうが、家賃滞納で大家に追い払われてはただ失うだけだった。
漫画喫茶で漫然と夜を明かしながら、家がなくても目減りしていく手持ちを見て、修治はようやく決断に至る。
──強盗を働こう。捕まって、衣食住を確保しよう。
と。
それからの修治の行動は早かった。なけなしの金でボストンバッグとマスク、ニット帽を買った。サングラスも欲しいところだったけれど、眼鏡の上からサングラスはあまりにもお粗末だし、その程度の演出にかける金はもはや、修治の手元にはなかった。
標的にしたのは小さな宝石店だった。昼間でも滅多に客の姿がなく、スタッフの数も最小限。いくらこちらの目的が金品の強奪を成功させることになかったとしても、あっさりと返り討ちにされてしまっては犯罪者としての面目が立たない。多額の金を我が物にしようとしているわけではないので、規模は小さい方が都合がよかった。
修治は夜の闇に紛れて閉店間際の宝石店に侵入し、一番近くにいたスタッフに拳銃を突きつけた。客の姿はなく、修治が脅す前から店内は静かだった。見える場所にいた三人のスタッフに順番に照準を合わせながら、修治は最初のスタッフにボストンバッグを渡す。ショーケースから無造作に宝飾品を引き出しバッグに入れていくスタッフの様子を見て、修治はマスクの下でほっと息をついた。
ショーケースの宝石が減って店が殺風景になってきた頃、修治は徐々に居心地の悪さを感じ始めた。まるでストップと言うまでトリュフをかけ続けてもらえるレストランにでも足を踏み入れてしまったような心境で、あ、もういいです、と口から零れそうになる。もう充分です、付き合って頂いてありがとうございます。
無言で肩身の狭さを感じながら、修治は「この人たちは裏で警察とか呼んでないのかな」と疑問に思う。仮にも高価な宝石を扱うジュエリー専門店が、こんな見るからに気の弱そうな強盗に従ってしまっていいのだろうか。
それに、こちらとしては、口では変な動きを見せたら発砲すると言ってはいても、警察が来てくれないことには始まらないのだ。従順なフリをしてスタッフの誰かが通報する、といった緊急時のマニュアルでもあればいいのだが。それとも今、修治が自ら提案した方がいいのだろうか。ただ立って待っているだけでは暇だし、自分だけ何もしていないなんて申し訳ないし──
「ねぇ、それってアーティファクト?」
不意に、何者かが修治の肩を掴んだ。
「──え? うわ、あ、何──」
驚きのあまりよろめきながら振り返った修治の視界に収まったのは、異国風の顔立ちをした男だった。くっきりした二重瞼と青みがかった緑色の瞳、その色彩を引き立てる雪のように白い肌色。肩甲骨の中ほどまであるブロンドの髪は下の方で束ねられている。身体の線は細く一見すればモデルのような美女だが、伸びやかなテノールは明らかに男の声だ。
「……え、だ、だれ? 警察?」
困惑気味にスタッフの方を振り返るも、さっきまでバッグに宝石を詰めていた女性スタッフは怯えたように硬直するだけだ。
とはいえ、修治の前に現れた青年は、私服警官にしても警官らしくなかった。強盗がいる店にふらふらと入ってきていきなり後ろから話しかける行為自体もそうだし、この男からは警戒心というものを全く感じない。
「えー? 俺が警察? そう見えちゃう? やったあ、俺も少しは地に足ついた大人に見えるってことだ。でも残念、俺は警察じゃなくて宝石商。世界各地を飛び回り、魔女の遺したアーティファクトを蒐集する魔女の末裔! それがこの俺、諏佐三津丸ってわけ! 普段はこの店にも買い付けた宝石売りにきたりしててさ。……ね? 佐々木さん?」
諏佐三津丸と名乗った男が、修治の肩越しにスタッフに声をかける。佐々木さんとやらが「は……はい」と遠慮がちに肯定するので、修治は慌てて三津丸に銃を向けた。ペースを完全に握られている。
だが、男は少しも怯まない。どころか、純粋な光を宿らせた目で修治を見つめた。
「お兄さんすごいよねえ。アーティファクトがちゃんと武器の形してんの久しぶりに見たよ。まあ俺もできるんだけどね、アーティファクトの〈処理〉。お兄さんは誰かに師事してたりするの?」
「……あの! わ、私はもう帰るので! 話の意味がわからないですし……だから、その、う、……撃たれたくなかったら、何も見なかったことにして帰ってください。……邪魔をしたら本当に……こ、殺しますから……!」
チャックの閉まっていないボストンバッグをひったくるようにして肩にかけ、修治は拳銃を構え直した。早く脱出しないといけない。じゃないと、宝石……宝石が……
「まあ待ってよ」
三津丸がひらりと修治の行く手を遮る。
「……撃ちますよ、本当に」
「撃てるもんならね」
三津丸は軽い調子で言った。
「ところでさあ、お兄さんは、お金に困ってこういうことしてるってことでOK? じゃあさ、銀行強盗のがよっぽど楽だって思ったりはしなかった? まあ確かにこの店は小規模だし、銀行よりは狙いやすいと思うよ。お兄さんみたいな単独犯でも捌ける人数だろうし。でもさあ、強奪するとしたら宝石よりも現金の方が圧倒的にいいと思うんだよねー。俺は」
「……何が、言いたいんですか」
修治は銃の照準を相手の額に合わせた。正しい銃の撃ち方は知らない。事前にネットで検索したり動画を漁ったりしたわけでもない。
でも、なぜか撃てる自信があった。諏佐三津丸という美青年の頭に、小さな穴が開くビジョンが見えた。
「お兄さんは宝石に魅せられてんだよねって話」
三津丸はなおも笑っていた。不気味に感じ、呼吸が乱れる。
「……何を……」
「お兄さんはさあ、そのハンドガン、どうやって手に入れたか覚えてる?」
「…………え……?」
三津丸の指先が自分の手元を指し示し、修治はふと我に返った。まじまじと拳銃を見つめる。光をも呑み込みそうな、深い深い黒。
鯨幕の色。
──半年ほど前、祖父が死んだ。大学を卒業し、されども次なる居場所の用意はなく、途方に暮れつつも細々と働き食い繋ぐ日々──まだ住所だけは持っていたその頃、実家から訃報が入った。ショックだった。
修治が生まれた時、祖父は既に独り身だった。祖父は老後の生き甲斐とばかりに小さな骨董屋を経営していた。平屋建ての古民家はとても静かで、修治にとって唯一と言える安息の場所だった。
葬儀の場で修治は、最低限の受け答え以外、ほとんど誰とも喋らなかった。だから、祖父の意向があったのかも、両親が勝手にそうしたのかもわからない。ただ、不自然だとは思った。
献花の際に対面した祖父の手首には、黒い数珠が通されていた。……いや、数珠というより数珠風のブレスレットか。念珠と違って、房もなければ百八ほども石はない。大粒の黒い石は、これといった華やかさもなかった。だが、妙に惹かれた。
気づけば、修治は祖父の手から数珠を抜き取っていた。花を供えると同時にその輪に指をかけ、棺から手を引く動作に紛れて、抜き取ったそれを自分の袖の中に押し込んだ。
思えばこれが最初の盗みだった。だが、我ながら完璧な仕事だった。完璧だったからこそ、祖父に背中を向けた瞬間、自分の卑しさに肺が押し潰されそうになった。祖父ならきっと許してくれると心では思っても、直接確かめる術はない。
誰かが見咎めてくれればいいのにと願っても、修治の初めての犯罪は完璧すぎた。誰も棺から離れゆく彼の肩を掴まなかったし、仮にそうされたとしても、棺の中に不燃物はご法度だったはずだ。いけないと思ったから取り外しただけだと言ってしまえばそれまでだった。
かくして、黒のブレスレットは修治の手元に残り、祖父の形見となった。大家に家を追い出された時も、修治は祖父の形見を真っ先に掴んでいた。
それから──そう、強盗を思い立つ前夜に泊まったネットカフェで、修治はそれを眺めたのだ。やがて眠気に襲われ、ブレスレットをテーブルに置いたまま眠りに落ちた。
目を覚ますと、個室のテーブルの上には黒光りする拳銃が鎮座していた。オートマチックの、やたら角ばったシルエットの拳銃。修治はそれを見ても、何も違和感を感じなかった。
──これを使って強盗をすればいいんだ。
そんな天啓を得たのは、修治が銃を手にした瞬間だった。
「アーティファクトってのは火刑に処された魔女の怨念だからね」
三津丸の声がした。修治ははっと我に返る。
「そういう負の感情? 怨みとか怒りとか悲しみとか──それ以上に鮮烈で人を惹きつける感情ってないでしょ? だから所有者が呑み込まれちゃうんだよ。宝石の──アーティファクトの魅力ってやつにね」
三津丸は修治の抱えるボストンバッグを指し示した。
「要はさ、今のお兄さんはそのハンドガンの言いなりだし、宝石の虜なんだよ。ちょっと過剰な感情に取り憑かれてる。だから換金の手間とリスクを顧みずに宝石店を襲撃するし、最初は奪おうと思ってなかった宝石たちを持ち逃げしようとする」
確かにそうだ。修治は自分の肩にかかったボストンバッグを見、息を呑んだ。強盗を成功させるつもりはなかったはずなのに、どうしてかさっきまでの自分は店を出ようと焦っていた。
「で、でも……どうして、わかったんですか。私が盗もうと思っていなかったなんて……」
「占ったんだよ」
三津丸は当然のような顔をして言った。
「占……」
「言ったでしょ? 俺は魔女の末裔なの。そんで魔術師の端くれでもある。つまり──」
気づくと、三津丸の顔がすぐ目の前にあった。距離を一気に詰められたことを悟り、修治の身体が拳銃を向けようと動いた。
「アーティファクトの〈処理〉ができる」
ニコと笑った三津丸の手の中から、何か赤い粒が飛び出して宙を舞った。高く放り投げられたそれは、天井のシャンデリアの煌びやかな光を乱反射して、修治の目を眩ませる。
『真実を射止めよ 柘榴石』
三津丸が呟いた途端、修治の右手にわずかな衝撃と重みが加わった。
修治の持つ拳銃に、赤い矢が突き刺さっていた。貫通して露わになった矢尻と羽の部分が、丁寧に研磨された宝石のように輝いている。
すると、拳銃はみるみるうちに形を変え、元のブレスレットの姿になって修治の手首に収まった。
「へー。ブラックダイヤモンド? これだけ大きいのが連なってたらヘマタイトかな」
呆然と口を開閉させる修治をよそに、三津丸は身を屈めてブレスレットをまじまじと観察し始める。
「あ……あの、何、何が起こって……? マジック……?」
「んー? 柘榴石──ガーネットの石言葉は『真実』だからね。ガーネットの力を借りて、お兄さんのアーティファクトをお兄さんの思う『真実』の姿に戻したんだよ。何も難しいことなんかない」
「難しいことしかないんですけど……」
「あ、磁石くっついた! やっぱヘマタイトだねこれ」
修治の言葉を無視して、三津丸は修治のブレスレットに粒状の磁石を近づけて遊んでいる。何なんだこの人は、と修治は重めのため息を吐く。
「ヘマタイトは鉄の成分がたっぷり入って血にいいんだよ。すり潰して粉にしたり、薄くスライスすると赤くなる。鉄分と血の赤色でパワー倍増ってわけ!」
「はあ……」
「ねえ、お兄さん」
すると、三津丸が修治の手を突然掴んだ。ぞっとするほどに綺麗な顔をこちらに向けた三津丸が、搦め取るような低い声で囁く。
「お兄さんのこのヘマタイト、俺に譲ってよ」