【第2話☆M】 朝は夜に始まる
【Size M】
「いらっしゃいませ!」
朝の開店と同時に扉を開けて入ってきたのは、くたびれたカーキ色の作業着姿の男。「いつものね」と、にかっと笑うと当たり前のようにカウンター席に着く。
くるりと椅子を回すと、自分が朝いち番の客だと確認するように店内を見回した。
壁はコンクリートの打ちっぱなし。表通りに面した箇所はすべてガラス張りの窓になっている。
カウンターは五席。四人席のテーブルが四つ。窓に向き合うひとり席が七席。鉢植えの観葉植物をカウンター横に置いてある。一見すると殺風景な内装だが、暖色の空間照明と壁に飾られているたくさんの年代物の写真によって、不思議と落ち着く空間に仕上がっていた。
「マスター、いつものお願いします」
シオがカウンターを覗き込みキッチンに声をかける。すぐに「はいよ」と嗄れた声が返ってきた。
「タナカさん、作業着、ちょっとは洗ったら?」
カウンターに入ったシオは珈琲をカップに注ぐ。それをタナカの前に置いた。
「いいんだよ。どうせすぐに汚れるし」
「そうかもしれないけど」
持ち上げたカップから漂った香ばしく酸っぱい薫りがタナカの鼻を刺激した。身体の奥から目が覚めるようだ。
シオはやれやれとため息をつく。
「そんなんじゃモテませんよ」
「いいんだよ。俺にはシオちゃんがいるし」
「はぁ? わたしはお断りですよ」
「まだシオちゃんはわかってないよなぁ。男はこのくらいが普通なんだよ。オシャレし過ぎる男なんて一緒にいたら疲れるだけだって」
軽口を叩くタナカに半ば呆れながらも、シオは「でも不精髭くらいは剃ってもいいんじゃないですか?」と返した。
同時にカウンターからマスターの手が出て朝のプレートを置く。
「ほい。おまたせ」
プレートの上にはこんがりと焼き目のついた厚切りの焼きたてトースト。その上に載せられたバターは蕩けている。トーストの脇にはスクランブル・エッグと厚めに切ったハム。レタスとミニトマト、ポテトサラダが付いていた。
「毎朝食ってるけどさ、マスターの朝食プレートはもはや芸術だねェ」
しげしげとプレートを眺めるタナカは、感心しきりと頷いた。
「つまんねぇことに感心してねえで早く食っちまえ。冷めるぞ」
そっけない口調ながらも、マスターの白い口髭に隠された唇が弛む。
ここは月と地球との共鳴軌道を使用した十基のコロニーのうちのひとつ。『Island Moon』の日本人街。その中でも老舗と言われる喫茶店兼食堂兼飲み屋兼集会所のような……つまりマスターによると、『なんでも都合のいいように呼んでくれ』な店だ。昼間は酒は出さないが、夜はマスターの娘が小洒落たBarを営んでいる。
『Island Moon』に入植が始まった時代。初代のマスターはここに店を開いた。そこから喫茶……なんでも都合のいいように呼んでくれな店『月兎』の歴史が始まる。
初代マスターは現マスターの先祖であり、現マスターは七代目。生粋のコロニー生まれのコロニー育ちだ。シオが地球を出て『Island Moon』に来ることを決心したのは、このマスターの存在があったからだ。
まだマスターの髪が黒く口髭がなかった若き頃。地球へとひとりで旅行にやってきたマスターは、シオの祖父と知り合った。意気投合したふたりは、それからもシオの祖父が亡くなるまで交流を続けていた。
祖父の訃報を伝えたときに、シオの事情を知ったマスターは、シオが『Island Moon』へと上がることを提案した。
「シオちゃんさぁ、コロニーの生活にはもう慣れた?」
蕩けたバターがほどよく染みたトーストに、厚切りのハムを載せて齧りながらタナカが訊く。
「もう全然慣れましたよ」
続いて来店した客の珈琲をカップに注いだシオが答えた。
中学校の修学旅行で宙に上がったのは数年前。高校を卒業すると同時に『Island Moon』へ。地球生まれ地球育ちのシオに宙での生活経験はない。コロニーの生活というものに多少の不安も感じていたが、ここへ来てそんな心配はないとわかった。
重力は安定している。いち日は二十四時間。ミラーで太陽光を反射して日の出と日没を管理しているために、きちんと朝があり夜がある。
『Island Moon』では温帯気候性を採用していて四季もある。シオが来た三ヶ月前には、川岸の土手にはほんのりピンク色をした桜の花が咲いていた。今では空気は、夏の初めのそれに変わっている。温暖化で平均気温が上がってしまった地球よりも、教科書などで知るかつての地球らしい気候があるのかもしれなかった。
そんなコロニーでも、すべてが万端という訳にはいかず……問題は食料だった。
野菜などは施設でも育てることができるが、天然ものの動物性のたんぱく質には限界があった。地球から運ぶにはコストがかかり過ぎる。コロニーに輸送された時点で、ただの切り落とし部位だとしても、一般の庶民には手の届かない高級食材に変わってしまう。
そこで植物性たんぱく質を加工して、牛や豚や鶏、魚などの味や食感に似せる技術、同時に、細胞を培養するたんぱく類の開発も進んだ。今ではうまく調理されたそれらが食卓にのぼる。
マスターの腕はタナカのお墨付きだった。
87文字オーバーしてしまいました(´`;)