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ミヨの話

 避暑地の一角に、奇妙なカフェーが在る。店員は黒い燕尾服の主と大パンドラ人形の様に美しい給仕の巻き毛の少女のみ。珈琲と共に供じられる洋菓子は駅前の表通りの物だ。酒類の提供も無く、珍妙な飾りや置物に囲まれた其のカフェーは、夕暮れ時、閉店後に訪れると、人成らざるモノの影が蠢き、珈琲と洋菓子に興じて居るのだと噂は絶えない。


 田舎の駅前のデパアトの裏で、ミヨはクタリと肩を落とした。服や生活用品を見ている夫のマサトと義父母の目を盗んで、漸く一人になれたのだ。夫も義両親も、悪い人達では無い。悪い人達では無いが、真綿で包まれた様な監視され続ける息苦しさが常に有った。

 ふと、古物商の店舗を目の端に捕らえた。駅前の大通りを一本裏に入った商店街の先、道沿いに十五分も歩かないだろう。見通しは良いがやや遠く見える其の店の、何がミヨの目を惹いたのか。自由を満喫する為に、ミヨは颯爽と歩き始めた。


 都会で生まれ育ったミヨがマサトと出会ったのは女学校を卒業して就職した製糸工場だった。何をするにも爽やかで、誰にでも好かれる彼に、ミヨもまた惹かれた。自然な流れで交際に発展し、交際から一年後、求婚され、受けた。ミヨが十八の年である。実家は遠く田舎だからとマサトの両親がミヨの実家近くのホテルをとり、挨拶と顔合わせを済ませた。其の頃からミヨとマサトは借家で同棲を始めた。求婚から一年後、互いの親兄弟だけを招いて温泉地での挙式を挙げ、そのまま一週間のハネームウンを楽しんだ。全てが最高だった。


 然して挙式から三ヶ月後の或る日、唐突にマサトが言った。

「仕事辞めた。来週から実家に住むから」

 ミヨは、嫁に入ったからにはいつかはと覚悟はしていた。だが、此の時まで地元へ近寄らせ無かったのはマサトの方の筈だった。

 マサトの実家はとても大きく、ミヨの実家が二つ三つ入りそうで或。庭や畑や持ち山と呼ばれる其れ等を足せば、一体何件分に成るのだろうか。ミヨの親戚は皆、ミヨの実家と似たり寄ったりの都会の一軒家である。ミヨには畑も田んぼも山も何もかもが物珍しかった。

 義理の父母は諸手を挙げて歓迎してくれた。義母と仲良く家事をし、マサトも義父も優しくて楽しかった。だが肉類が一切食卓に上がらない。野菜は畑で採れた。買い物は週に一回、車で家族総出で駅前のデパアト迄出掛ける時だけだった。其の時も肉屋には一切近寄らず、また、肉類が欲しいと訴えるとマサトにいつも強引に遮られていた。然う云う生活が数年も続くと、如何にも肌に張りが無くなって、歳を感じる事が多くなった。江戸時代でもあるまいし、肉を食わぬなど今更流行らぬと思いもしたが、外貨を稼ぐ当ての無いミヨには自由に使える金も無い。田舎過ぎて一年に一度も、否、嫁いで来てから一度も実家へ帰れていない。だが其れ以外は良い家なのだ。


 カラリ、と軽い音を立て、店の硝子の引戸が開く。外に出された立て看板には氷珈琲の文字。店の薄明かるい照明が頭骨を模した置物の縁取りの金色を反射していた。ミヨには其れが本物の骨なのか偽物なのか見分けがつかない。恐らく、猿だろうと言う事しかわからぬ。

 奥から入り口へと抜ける風に、ひととき暑さを忘れる。

「いらっしゃいませ」

 奥から、男性の柔らかな声がした。

 すぐ目の前に美しい巻き毛が目に入り、こんな田舎にも外人さんが居るのかと顔を上げると、其れは、パンドラ人形としか思えぬ美しさを湛えた少女だった。給仕であろう其の少女が椅子を引く。座れと言うのか。

 大人しく瀟洒な椅子へ腰を掛ければ、何やらお姫様にでもなったようで背筋がピンと伸びた。

「あの……」

 入り口の立て看板を思い出す。

「氷珈琲を……」

 氷珈琲なぞ何れ位振りだろうか。初めて飲んだのはまだ子供の時分に父に連れられて行った銀座のカフェーだった。夏の暑い日で、あの時は大人ぶって氷珈琲を頼んだものの、苦くてミルクをたっぷりと入れたのだった。居合わせた若い男達に茶化され、父の友人に「結婚相手には困らないぞ。ここから好きなのを選べ」と笑われたのを思い出す。

 あのカフェーとは随分と趣も内装も違う店に、辺りを見回す。

 普通、カフェーと言えば金を持った男性客が女性と話したり触ったり小遣いをやったりして軽食と珈琲を楽しむものだ。思わず入ったのは、そう言った下品さが無かった所為でもある。

 其れも然うだ。古物商の店内に飲食できる空間を作っただけの、恐らくは買い物をしながら珈琲を飲み、店主と会話を楽しむ上客の為の場所なのだろう。ミヨは落ち着かない気分になった。思わず頼んでしまったが、氷珈琲の代金はいくらだったか? 一文無しである事を思い出して足の裏がムズ痒くなる。警察を呼ばれるのだろうか? いっそ警察の世話になって離縁され、実家に帰る事が出来れば、父母は怒るだろうが悪い様にはしないだろう。

 カラリ、と氷がグラスの中で転がる音がした。

 目の前に置かれた細長いグラスに敷き詰められた氷と隙間を埋める濃い茶色い液体が涼しげに再び音を立てた。

 触れれば指先の、唇に当てれば唇の熱が奪われ、液体が口腔内に注がれ喉を通れば其処から身体全体へと清水が染み渡るように冷たさが広がった。

 やけに、脳がスッキリとした気がする。

 と。

 カラリ、と、もう一つのグラスが音を立てた。

 誰も居ないと思っていた向かいに山高坊の白い髭の男性が、氷珈琲を片手に飲み干した所だった。

「……あ、えっと……」

 面喰らって立とうとするミヨを、男性は手で制した。

「まぁ、お座りなさい」

 男性の背後、奥では店主だろう男性がブラックの燕尾服を着てグラスを磨いて居る。

 窓の外を氷屋が自転車で通って行った。

「お嬢さん、あなた、此れが欲しいんでしょう?」

 反射的に首を横に振るミヨの前に、金で縁取られ彩られた骨、猿の頭骨が置かれた。

「いえ、あの、お金無くて……」

 そんな物欲しくはないと言えず、上手い言い訳が出て来ないミヨに、老紳士は人懐こい笑みを浮かべる。

「金なんぞ良いんですよ。ここはこの爺に任せなさい」

 猿の頭骨の眼窩に嵌まっているルビイが、ミヨを見た。気がした。

「コレは貴女を待っていたんですよ」

 視界が揺らぐ。

 正面に居る筈の老紳士の顔が、ルビイの奥に見えた。その老紳士の目の奥にまたルビイが見える。そのルビイの奥に老紳士の……。


 「もう、しっかりしなさい!」

 ミヨが目を開けると、白いデパアトの天井と、義母の顔が在った。

 理解が追い付かぬまま身体を起こすと、夫と、警備員が目に入る。

「暑気当たりでしょう。気がついたのなら、もう帰って休みましょうね」

 義母の一言で、夫の肩を借り、車へと乗り込んだ。

 己れが暑さで倒れ、保護されていたのだと気付き、古物商と氷珈琲は夢だったのかと嘆息する。

 ああ、またあの、息の詰まる田舎へと、義実家へと戻るのか。

 眩暈がした。

 其れにしても、肉が、喰いたい。

 揺り起こされて、家に着いたのだと気付く。

 本当に体力が落ちたものだ。

 車から降りようとして、手の中の風呂敷に気付いた。こんな物を持っていた覚えは無い。が、義母も夫もまるで見えていないかの様に其れについて触れる事も無かった。

 早々に布団を敷き横になる。襖で隔絶されたアチラの、夫と義父の会話や照明の明るさ、義母が台所で水仕事をしている物音が異世界の様に感じる。

枕元の風呂敷を解くと、中からは、あの金で縁取られた、ルビイの目を持つ猿の頭骨が現れた。

 夢では無かったのか?

 何処から何処迄が夢で、何処から何処迄が現実だった?

 混乱と眩暈の中、腹が鳴る。

 肉が、喰いたい。


 空は青く、岩山を掘って作った寺院は数百年前から其の姿を保っていた。その寺院に住み着いた彼は自由だった。時おり人間が通っても彼に危害を加える事も無く、まだ比較的若い彼は、何処の窓からも出入り出来る程度には身軽だった。

 まだ子猿だった頃に母親とはぐれた彼が生き延びられたのは、ひとえにこの寺院の存在が在っての事だった。

 供物の果物や穀物を分けて貰い、人間達を真似て一緒に何やら座してみたりもした。

 転機が訪れたのは、突然だった。

 高層階から、一人の僧が身を投げた。

 落ちたのは、彼の真上。

 衝撃でひしゃげたのは、彼の骨か身投げした僧のモノか。彼の口に、身投げした僧の血が滴り伝う。其れは、彼の脳の何かを弾けさせた。目の前の肉に、思いきりかぶりつく。舌に、喉に、脳の奥に歓喜が溢れた。血の香りが鼻の奥から身体中を包み、陶然とする。折れた首の所為で肉が飲み込めない。飲み込めない。ああ、肉が喰いたい。頬張った肉が、血が、口の端から溢れる。もっと、もっと。必死に口の中へ中へと詰め込む。

もっと、肉が、喰いたい。肉が……。


 ふと、暗闇の中、目を覚ますと、隣に何かの寝息を感じた。何かが隣で寝ている。肉だ。涎が口腔内に溜まっていく。口を開き、顔を近付ける。みしり、と畳が鳴った。違和感に眉を潜め、動きを止めた。ソレが、夫であると認識する迄にやや時間が掛かった。

 マサトだ。夫だ。

 かぶりつかなくて良かった。寝惚けるにも程がある。

 ミヨは、枕元の時計を手で引き寄せると顔を近付けて時間を確認した。二時を少し回った所だった。腹が小さく不満の声を上げる。夕飯も食べずに寝てしまった所為だ。 軽く開け放たれた襖からは風も入らず、喉も乾いている。窓は開いているのだろう。虫の音やら動物の声やらが耳を擽る。

「お腹、空いたなァ」

 小さく呟き、音を立てぬ様に部屋を抜け出した。

 居間を通り、土間に下りれば、籠や木箱に野菜が入っている。壺の蓋を開ければ漬物がある筈だ。だが、違う。違うのだ。喉の渇きを潤すのは、腹を満たすのは……。

 何だと言うのだろうか。

 変な夢を見ていた気がする。

 そう。

 渇望していた肉を喰った夢を。口一杯に頬張った夢。

 水で口を濯ぎ、吐き出す。

 口の中が生臭くて仕方ない。

 丸で血の滴る生肉にでもかぶりついたかの様に。

 何度か口を濯ぎ、ふと顔を上げると、格子の向こうに、ソレが、居た。

 赤く光るのはルビイだろうか。

 切り取られた闇の中心のやや上、其処に、猿の顔が在った。キヒッ。と空気を漏らして小さく嗤うと、黒い猿はルビイの目を細める。

 ルビィの目に、ミヨが映っていた。

 ミヨがヒュッと息を飲むと、猿は身を翻したのだろう。草木の音を残して、消えた。


 翌朝、姑に叩き起こされたミヨは、己が土間で気を失っていたのを知った。

 そうだ、あの猿を、否、アレは本当に猿だったのか?

 猿だとしたら大猿だ。とグラグラと回る頭で考える。

「あんた……、肉を、喰ったのかい?」

 義母の震える声に、顔を上げる。

 肉を喰った覚えは無い。抑、肉を喰える様な環境には無かった。其れは義母も良く知っている筈だろう。

 そう返そうとして口を開くと、生臭い息が己の腹から上がってきた。

「……肉が……喰いたい……」

 自分の声では、無かった。

 義母の悲鳴が聞こえた、気が、した。


 猿神様の御座す山を切り開き作った里がある。

 男共は数多の猿を狩り、猿も多くの人を屠った。だが、山に四方八方から火を放ち、逃げ場を無くした猿は煙に巻かれ、人に狩られ、一匹残らず死んだ。

然して人は生き残り、猿を喰った。

 暫くして、猿を喰った人々に変化が起きた。人を襲って喰うのだ。

 ここの猿には少し変わった特徴が見られていた。目が赤いのだ。

 そして、人を襲うようになった人の目は、赤く変色していた。猿の様に。

 人を襲って喰うようになった里の民を集め、崖から棄てた。やがて、目が赤くなった者は同じように崖から棄てた。

 やがて、猿を喰っていない者も発症するようになった。その者達は、獣肉を喰っていた。

 祟りだ呪詛だと、里では肉食を禁忌とし、削って小さくなった山に祠を建て、猿神様と猿達を祀った。

 肉を禁じて以降、人が人を喰う事態は収束していった。

 だが、極稀に、事故は起きる。

 行方不明、遭難、滑落事故は二十年、三十年に一度は起きた。ガス灯が闇を照らし、再開発の手が延びて尚、肉食を禁じているにも関わらず、否、だからこそ、余所者を厭う。


 「あんたァ、この辺の人かい? 俺ァ、ブンヤってヤツでさぁ」

 謎の失踪事件を追っているのだと、その男は言った。

「口の固い婆さんからやっと聞き出した昔話」とやらをベラベラと話すと、此方を下から覗き込んでヤニ臭い息で嗤う。

「此の時代に呪いも祟りもあったもんじゃねぇと、そうは思わないかい?」

 男が話し掛けた女は、しなやかな肌に艶やかな髪を持っていた。何より、光の加減で赤く見える瞳が色っぽい。紅は血の様に赤く、ぼんやりと立つ様も何とも言えずそそられた。

 この辺の村では、ここの所、立て続けに人が消えている、との情報が入っていた。その行方不明者の一人が、この女の姑だ。嫁姑のイザコザかと思いきや、他の行方不明者も含め、何の手懸かりも無い。

「なァ、ちょっと話を聞かせてくれやしねぇかい?」

「……夫が……帰って来ないんです……」

 浮気か? 出稼ぎか? 何にしろ、身体を持て余しているなら都合が良い。

 男は女の腰に手を回す。


 小柄な老人が白く長い髭を撫で付け、かちゃりと小さな音を立てて、珈琲カップを置いた。徐に、大きな革鞄から、金で縁取られた猿の頭骨を卓上に置くと、山高帽を被り店の主人へと会釈する。じわりと闇に溶け込むその姿は、数秒も立たず完全に消え失せた。

 テーブルの上に開かれた新聞の尋ね人欄には、ミヨの名が記されてあった。


 避暑地の一角に、奇妙なカフェーが在る。店員は黒い燕尾服の主と大パンドラ人形の様に美しい給仕の巻き毛の少女のみ。珈琲と共に供じられる洋菓子は駅前の表通りの物だ。酒類の提供も無く、珍妙な飾りや置物に囲まれた其のカフェーは、夕暮れ時、閉店後に訪れると、人成らざるモノの影が蠢き、珈琲と洋菓子に興じて居るのだと噂は絶えない。

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