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田中アネモネ名義

オリビアを聴きながら

作者: 田中アネモネ

 なぜかふいに頭の中に流れて来たのだった。

 オリビア・ニュートン・ジョンの、優しい歌声だった。誰もが知っているヒット曲ではない。『Car Games』という、むしろ誰も知らないような80年代のアルバムに収録されている曲だ。夜の匂いのする、ちょっと艶めかしい曲で、天気は悪いとはいえ昼間のドライブに似合う曲ではない。


「ユーチューブにあるかな」


 私がスマートフォンの音声サービスアプリにリクエストすると、気持ちのいい返答のあとに、懐かしいその曲はかかりはじめた。


 車のスピーカーから出力される心地いい80年代のポップスを全身で浴びながら、窓外には湿った六月の山の風景が流れていく。


 あいつがオリビアを好きだった。


 私はむしろ嫌いだった。

 恋人の私よりもオリビアのほうが好きなのかと何度かなじってしまったこともある。


 尚之なおゆきはそんな私を笑った。冗談だと思ったのだろう。確かに、女がいくら嫉妬深い生き物だからといって、付き合っている男が好きな歌手にまで本気で嫉妬するなんてのはおかしいのだろう。しかもその時既にオリビアは六十歳代の後半。私より三つ年上の尚之よりも三十以上も年上だった。


 しかし私は結構本気だった。本気で嫉妬していた。それほどまでに尚之のことが好きだったのだろうか。私のことだけを見ていてほしかったのだろうか。


 今となってはそんな気持ちも忘れてしまった。


 もう尚之と電話もすることがなくなって六年になるのか。いつの間にそんなに時が過ぎたのだろう。


 久しぶりに聞くと、嫌いだったオリビアの歌声が、とても親しげに聴こえる。大好きだった友達の声にすら聴こえてくる。不思議だ、毎日『嫌だ』というのに聞かされて、うんざりしていたはずの、この声が。


 とにかくいつも聞かされていたので、曲は大抵知っている。尚之は言っていた。


「こんなに可愛い声なのに、こんなに歌が上手いなんて、オリビアぐらいだろ? 声が可愛いすぎたらふつう、アイドルとして見られちまうもんだ。両立しないはずの『アイドル』と『実力派』、それが両立してるオリビアは奇跡なんだ。しかもルックスだって妖精並み」


 当時は『キモっ』とか『ババ専か?』とか馬鹿にしていたけれど、今なら素直な気持ちで頷ける。天使のように可愛い声で、イマドキの歌姫にも負けないどころか圧倒するほどの歌唱力を誇らしげに聴かせてくる。私はオリビアの歌声に包まれた。


 聴き出したら火がついてしまった。次々と、オリビアの曲をリクエストした。タイトルがスラスラと自分の口から出てくるのに少し驚き、笑ってしまいながら。


 もし友達にオリビアの曲を教えるならどれにするだろうなどと考えながら、有名な曲を次々とかけた。『カントリーロード』『フィジカル』『Have you never been mellow』『I honesty love you』『ザナドゥ』──


 次には、尚之と同棲していた頃のことを思い出しながら、頭に浮かぶ曲を次々とかけた。『ウォーム アンド テンダー』『ペガサス』『Totally hot』『Compassionate man』──


 どれも心地よくて、ハンドルを握りながら遂に私は合わせて歌いはじめた。歌えることが不思議だった。歌詞を覚えているなんて、思わなかった。私はほんとうはオリビアのことが大好きだったのかもしれない。尚之の前では歌ったことなんて一度もなかったのに。




 展望台に車を停めると、スマートフォンで検索をした。


 オリビアは今、どうしてるんだろう。たぶんもう七十歳をいくつか過ぎた年齢のはずだ。一時期はぶくぶくに太っていたが、尚之と暮らしていた頃にはまたスリムに戻って、美しさを取り戻していた。


 懐かしい友達の家を再訪するように、スマートフォンのページを開くと、情報が現れた。



【オリビア・ニュートン・ジョン  2022年8月死去】



「あ……」


 予想もしていなかった情報に声が漏れた。


「し……死んじゃってたの? 一年近くも前に……?」


 知らなかった。私はこういう有名人の死去とかいった情報に疎い。


「ふ、ふーん……。そうだったんだ」


 スマートフォンを閉じると、煙草を一服だけ吸い、また車を走らせた。





 ハンドルを握りながら、オリビアの曲をかけることはもうしなかった。

 録音された空間の中で、さっきまで煌びやかな声を響かせていたオリビアが、もうこの世のどこにもいないことを知ると、窓外の景色がなんだか空虚に浮いて見えた。

 どうでもいいはずだった、オリビアなんて。会ったこともなければ、国も年代も違う人だ。知己でもない人の死去なんて。

 雨が車の窓を濡らす。そのむこうの景色が滲みはじめたのは、雨のせいだけではなかった。私の肩は震え、口からは嗚咽が漏れていた。まるで自分の大切なものを失くしたように、私の両目からは哀悼の涙が止まらなくなっていた。





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